17/06/2026
イザベラ・バード、栃木をゆく~日記でたどる明治の旅路~
先週は、明治初期に英国人女性旅行家イザベラ・バードが宿泊した日光市の「金谷侍屋敷(旧金谷カッテージイン)」をご紹介しました。
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※リンクはコメント欄にあります。
バードは関東・東北・北海道、そして関西へと旅をし、その記録をまとめた『日本奥地紀行』を後に出版しました。この著作は欧米で大きな話題となり、日本への関心を高めるきっかけとなりました。とりわけ彼女が絶賛した日光は、観光地として広く知られるようになります。
今回は、そのバードが日光へ向かう際に通ったと考えられる明治初期の街道と、沿線に残る文化財について、少し深く掘り下げてご紹介します。
◇ バードの旅程 ― 東京から日光へ
バードは明治11(1878)年6月10日、東京を人力車で出発し、粕壁(春日部)、栃木、今市にそれぞれ一泊しながら日光へやってきます。
東京から粕壁までの道のりについては、「道は二台の馬車が並走できるだけの幅があった」、「幹線道路に沿って村がほぼ連続的に続く」と綴っています。さらに、利根川は「たくさんの旅人」や馬、人力車と一緒に舟で渡ったそうですから、東京から栗橋で利根川を渡るまで日光街道を北上してきたと考えてよいでしょう。
そして、栃木から日光までは「私がとった例幣使街道沿いには」と記していますので、道筋は明らかです。
◇ 謎は “利根川を渡ってから栃木まで”
ところが、利根川を渡ってから栃木へ至る道筋がはっきりしません・・・。可能性があるルートは次の3つになりそうです。
■Aルート 日光街道を北上し、小山で思川を渡り、栃木へ向かう(明治15(1882)年に森鴎外が栃木にやってきた時の道筋)
■Bルート 野木で日光街道から分岐し、下生井で思川を渡り、巴波川沿いに北上する(当時 “栃木道” と呼ばれた脇街道)
■Cルート 古河から西へ進んで思川を渡り、藤岡・富田を経て栃木へ向かう(『日本奥地紀行』を翻訳した金坂清則氏が想定している道筋)
◇バードの記述から読み解く “3つの手がかり”
そして、バードの道筋を推理する上での主な手がかりは・・・
① 「遠くの方には低い山々がぼうっと霞んで見えた」
② 「東京との間に蒸気船が通行しているある村のところで別の川を渡船で渡り」
③ 「水田が少なくなり、木々や家屋・納屋が大きくなり」、「うどんの原料になる小麦は多くがすでに運ばれている」
というものです。
①は、A・B・Cいずれのルートにも当てはまりそう。
ただし、「低い山々」が太平山を指すとすれば、Cルートはその近くを通るため、「ぼうっと霞んで見えた」という表現とはちょっと合いにくいでしょう。
②はどうでしょうか。
当時、思川には蒸気船が行き交っていました。バード来日の前年、明治10(1877)年5月には内国通運会社(日本通運(株)の前身)の外輪式蒸気船 “通運丸” が東京深川扇橋-生井村(現東京都江東区扇橋-小山市下生井)間に就航し、同年8月には乙女村(現小山市乙女町)まで延伸しますが、これより思川の上流に遡ることはありませんでした。
このため、渡河地点の小山に蒸気船の往来がないAルートは候補から外れます。
なお、現在の思川は下生井から約1km南東を流れていますが、これは明治43(1910)年の洪水を契機とした治水事業により新水路が整備されたためです。
最後に③です。
この記述からは、水田中心の風景から畑作地帯へと変化したことが読み取れます。
台地上を進むCルートは、この記述とよく合致します。
一方、Bルートは、巴波川沿いで水田地帯と考えられがちですが、明治17~19(1884~1886)年作成の “第一軍管区地方2万分1迅速測図” を見ると、ルート上の下生井~新波~小林では水田より畑が多く分布しています。
これは、洪水による土砂堆積で形成された微高地(自然堤防)があるためです。また明治10(1877)年の記録では、稲作や畑作とともに蚕(かいこ)の種(卵)を生産する蚕種業が盛んであったことが分かります。バードが見た大きな家屋や納屋は、もしかしたら蚕種の作業場がある農家だったのかもしれません。
さらに、Bルートは、当時 “日光山近裏道(にっこうさんちかうらみち)” と呼ばれた脇街道で、明治10(1877)年の記録によると、下生井渡船場には年間3万7,960人、馬5,475頭、人力車6,205台、荷車1,095台が往来し、蒸気船の船着場も備えていました。当時の重要な交通路であったことがうかがえます。
では、イザベラ・バードはB・Cルートのどちらを通ったか?
これについては決め手がありませんが、栃木へ向かう最短経路という点、そして、「低い山々」の見え方という点からすれば、Bルートに軍配があがるでしょうか?
「 」内は金坂清則訳注『完訳 日本奥地紀行Ⅰ』から引用しました。
(T.S)