09/08/2025
15歳の原爆の記憶〜長崎(80年前)
*毎年8/9に再投稿しています
15歳の夏
この日も朝から暑い日でした。
私はいつものように学徒動員で、自宅のある日見村(現,長崎市網場町)から、大橋町の三菱兵器製造工場でお国のために作業に励んでいました。
後1時間でお昼になるからそれまでもう少し、と思ってしばらく経った時です。
それは、いきなりとしか言いようがありませんでした。
突然、見たことのないような光が目の前をよぎったと思いきや、ものすごい勢いで爆風が飛び込んできました。
思わず私は「日頃から爆弾が落ちた時には」と訓練されていた通り、目をつむり両手で目と耳を覆いしゃがみ込みました。
どのくらい経ったのでしょうか。
気を失っていた私が気がついて顔を上げた時、広い工場は鉄骨がグニャグニャに折れ曲り崩れ、壁も崩れ落ち見る影も無くなっていました。私は自分の上にある瓦礫を払って体を動かそうとしました。その時、足に痛みを感じました。足を見ると腿に二か所、ガラスのようなものが刺さっていました。それよりももっと驚いたのは、身体の左側が上から下までずっと、皮膚がペロンと剥けたようになっていたことでした。ふと横を見ると、先程まで隣で一緒に作業をしていた友達がこと切れていたのでした。悲しみよりも驚きとともに、何が起きたのか分かりませんでした。崩れたがれきの中からうめき声や泣き声が聞こえてきます。その中から同じような怪我を負った友達何人かで声を掛け合っていると、山へ逃げろ!と言う大人の声が響きました。何が何だかわからないまま怖くて、みんなと必死で近くの山へ避難しました。
その日は町の防空郷後で友達と夜を明かしました。
同じ日の午前、私の家のある日見村(現,長崎市網場町)では父と二番目の姉が畑で農作業をしていました。すると米軍の飛行機が一機やってきたのが見えたそうです。始めは偵察機かと思ったらしいのですが、それはいつもとはチョット違う動きだと思って見ていたら、機体から丸っぽいモノが落ちてきた… その瞬間 強い風が吹き、しばらくして空から紙きれが幾つもパラパラと落ちてきたそうです。落ちてきた紙を見てみると、それは病院のカルテでした。それを見た父は、これは街で何かあったと思い急いで2番目と3番目の姉と共にリヤカーを引いて私を迎えに街へ向かったそうです。
日見村は、長崎市中心地からは山を越えた反対側に位置していました。そこから私のいた大橋町まで徒歩では2時間半から3時間かかります。その日、私は父と会うことはできませんでした。
翌日になって、私は友達と網場の自宅へ帰るために山越えをしました。山道を歩いていると長崎大学の学生さんと会いました。学生さんは私の怪我の様子を見て、別れ道までおぶってくれました。更にしばらく歩いてから友達とも別れ、私はやっと家族の待つ自宅へ帰ることができました。
昨日町へ向かった父とは行き違いになってしまったようで、その日の遅く父が帰宅し会うことができました。
自宅に帰れたのは良かったのですが、私は高熱が下がらなく、左半身の火傷が化膿して起き上がれない日が続きました。庭にあった柿の葉で湿布をしていましたがそれでも一向に良くなりませんでした。それどころか火傷の症状が普通とは違って、皮膚表面の化膿したグチグチが表面から体の奥に広がっていき、痛くて痛くてどうしようもありませんでした。 痛みで寝返りも打てず寝ることもできず、このまま死んでしまうのだろうかと不安だけが広がっていきました。
当時、父は村長をしていたので軍の隊長が家に出入りをしていました。
ある日、父から話を聞いた隊長さんが衛生兵を派遣してくれ、毎日薬(多分抗生物質)を練ってくれました。それでも熱は下がらずだいぶ時間が経った時に、火傷でできたカサブタが少し浮いてた様で、衛生兵さんがそれをピンセットでピンと跳ね除けました。そしたら膿がドンドン溢れるように出てきました。そしてやっと、ほどなく熱も下がり始め、火傷も長い時間かかりましたが回復へ向かうことがきました。
長く拙い文をお読みいただき
ありがとうございます
毎年長崎の原爆投下日に複製をアップさせていただいています
これは私の母の体験談です
生前の母はこれを語ることはありませんでした
しかし、原爆の悲惨さを伝えたい、と言う気持ちは心のどこかにあると言っていました。
気持ちはあってもそれを口にすることは、母にとってはできなかった何かがあったのだと思います。
母が亡くなってから、それを知る人に聞いてまとめてみました。
ただ、余計な推測などは入れたくなかったので、とても中途半端な文になってしましました。
父は母と結婚したての頃は、母からは消毒液の匂いがしたと言っていました。
被爆直後に薬を練りたくったため、成分が体に沁みてしまっていたのでしょうか。
また、当時一緒に山越えをした友達は1年後、亡くなったそうです。
原爆投下地から1.5キロしか離れていなかったので、亡くなっても不思議ではないと思います。
そんな中、母はよく生き残ったと思います。
この世界から争いがなくなりますように。
誰もが笑顔でいられる世界でありますよう願ってやみません。
#平和長崎広島 #原爆犠牲者 #争いのない世界