05/07/2016
毎年国語専科教室の多くの生徒たちが作品を応募している「読書探偵作文コンクール」が、今年も募集を開始しました。
このコンクールの詳細や、過去の受賞作品はコンクールのホームページでご覧いただけます。
http://dokushotantei.seesaa.net/
今年もたくさんの国専生徒たちがチャレンジしてくれるでしょう。
みなさんがどんな作品を書いてくれるのか楽しみです!
(国語専科教室運営本部)
読書探偵作文コンクール
27/05/2016
5月31日(火)11:55~放送予定のフジテレビ番組「バイキング」にて、国語専科教室が紹介されることになりました。
放送当日には、スタジオに工藤順一代表が登壇する予定です。
また、先日恵比寿教室にフジテレビの方がお越しになり、授業風景の撮影が行われましたので、そのVTRが流れるかもしれません。
(ご協力いただいた生徒・保護者のみなさまには改めて感謝申し上げます。)
どうぞお楽しみに!
07/02/2016
『翻訳百景』 越前敏弥 著
『ダビンチ・コード』の翻訳者である越前敏弥さんからご著書をいただいた。その理由は、当教室の2名の生徒さんの作品が、この著書の第四章である「翻訳書の愉しみ」に全文紹介されているからだ。
このfacebookやホームページでも紹介してきたが、この教室では、越前氏が主宰している「読書探偵作文コンクール」に長い間、生徒さんが応募し続けている。このコンクールの特徴は、読む本が翻訳書限定であること、課題図書はないこと、書く形式は自由であることである。上の二つの作品のうちの一つは、『赤毛のアン』を読んで、短歌を5首詠ったものである。
改めて生徒さんの二つの作品を読んで感じたのだが、本を読むということと、それについて何かを書くということは、ほとんど一体であるということだ。
というか、一体化しているものが優れているのである。もっと言うなら、書物であれ、現実であれ、私たちはそれについて読めたことしか書けないのである。
このことが、よく国語教育の中で使われる言い方である「自分の言葉で書く」ということなのである。
かくして、いわゆるコピペ作文というものは、読んでもいなければ書いてもいない作文となり、全く評価できないということになる。
-----------------『赤毛のアン』を読んで。--------------
そうさなとこたえるマシュウのその声が
わたしにとっての最高の宝
並木道 アンが魔法をさっとかける
あっというまに歓喜の白路
いちご水 澄んだ赤色魅力的
どんなときでもそのままでいて
流行のふくらんだ袖を夢見てた
クリスマスの朝現実になった
これからの思い出の数飛んでいく
頭で割られた石板のかけら
29/12/2015
2016年に向けてのご挨拶
国語専科教室 工藤順一
大きく変わりつつある----
1、世界と日本
2、大学入試
3、読書をすることの意味
1、世界は大きく変わりつつあります。もちろん、日本もその波に巻き込まれているのは変わりません。そのときに、学校で学ぶ暗記一辺倒の世界史、あるいは、近現代史を抜かした日本史、あるいは、世界史と日本史を別べつに学ぶ日本独特の、いわゆる受験のための歴史の学習は、役に立つのでしょうか。私の経験から言えば、全く役立ちません。本当の意味での歴史の流れがわからないときに、変わりつつあるものも見えてはきません。戦後70年目の節目を迎えて、戦後的な価値観から世界は大きく変わろうとしています。そして2016年は、その動きがもっと加速されるはずです。
2、加速化しているのは、日本の少子高齢化もしかりです。大学入試はすでに極めて簡単なものになりつつあります。応募者数が半減しているのに、大学の数も増え、定員も同じであればあまりに当然です。すでに数年も前から、たとえば当教室から、「論文と面接」だけの推薦で名前の通った大学に入学してしまう生徒が続出しています。そして、もちろん、その生徒たちはセンター試験を受ける必要はありません。とするなら、小学低学年からはじまる偏差値獲得のための進学塾は一体何のためだったのでしょうか。それは、あまりにも無意味なものに変わりつつあります。
3、ここで、本当の学力とは何かが問われてきます。そして、すでに書いた内容にその答もあります。「論文と面接」だけの試験を通るためには、どうあるべきなのかということです。言葉は悪いですが、まるで猿回しの猿のように、親の言いなりで進学塾に通い、遊びや読書もままならないまま、単なる知識の丸暗記だけで偏差値が高い生徒に、その試験は逆に極めて難しいハードルの高いものになるでしょう。なぜでしょうか。これも、あたり前なのですが、きちんとした論文を書く、つまり、きちんとした「自分の意見を論理的に書く」ためには、きちんとした相応の自我が育っていなければならないからです。猿回しの猿には無理なのです。そのようなことが全く無視されたこの国の戦後の「教育観」を憂えるものです。この教室の提唱する読書と作文は、そのため、つまり「論文と面接」というハードルを超えるためにもおおいに役立つでしょう。そのようなことが実証されつつある昨今です。
28/12/2015
中学3年生のN. Y. 君の作品を紹介いたします。
この教室でテキストとして用いている『小さな町の風景』(杉みき子著)の一章、「海のある風景」を分析した文章です。
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『小さな町の風景』「海のある風景」の考察
N. Y.
「海のある風景」を読んで考えたことをまとめようと思う。この章では、海を社会に喩えていると考えられる。海とはとにかく広大で荒波もあり、変に進むとどこにいるのかわからなくなるものだ。対して、社会には様々な分野・職業があり、ITやグローバル化の波に押されて、知るべきことを知らないと、一人だけ取り残されてしまうだろう。つまり、この二つは広大で危険も存在する点で共通しており、その共通点によって比喩が成り立っている。そして、海を社会にたとえているという視点で見ていくと、最終的に社会の中で積極的になって欲しいという筆者の思いも感じられる。今回は物語を分類せず、五つの話それぞれについてまとめ、現代社会とのつながりについても論じていきたい。
最初の「月夜のバス」を見てみよう。この物語では、バスが海水で満たされているという幻覚を少年が見ていた。これは、夜暗くてよく見えない海をなんとかイメージしたいという、少年の海への憧れの表れと考えられる。何も知らない人が社会を自分なりに想像し好奇心を持つのはよくあるであろう。
次の「水族館幻想」では、魚たちが水族館の水槽に閉じ込められている様子が描かれており、その様子を惨めに思っている少年と老人が登場する。そして、老人は少年に魚が広い海で泳いでいるという幻覚を見せた。その後の老人の、私は老いたので想像でしか海を見られないが、君は自分の足で自分の海へ行ける、というセリフからは、未来ある少年に対して広い海へ飛び込んで欲しいという老人の思いが感じ取れる。現実でも、年配者が、若人になんでもやって欲しいという思いを抱くことがあるのではなかろうか。
三つ目の「青い地図」へ進もう。少女が拾った地図を辿って行くと、その地図は紫陽花のありかを示すものと分かった。しかし最後だけは急に視界が開け、紫陽花色の海が見えた。このとき少女は急に視界が開けた驚き、広い海を見られた嬉しさを感じていた。社会においても、周りの環境や状況が急に変わったときに驚いたり、感情が変わったりすることがよくあると思われる。
四つ目の「入り日のコーラス」に入る。テトラポットとは海岸の浸食を防ぐコンクリートの塊なので、普通は動かないし動けない。ここでは沖を向いて歌を歌っているテトラポットが描かれているが、これは動けないテトラポットが沖へ出たいという切実な願いを示していると感じる。
そしていよいよ、この章の、いや、この本の最後の物語「白馬の背にとび乗って」だ。ここでは、女主人のめざした絵描きと、その祖母がめざした医者、という職業が例示され、海原へ飛び出るように社会にはばたいてほしいという筆者の思いが他の物語よりも際立って感じられる。作中で引かれる三行の詩は「舟」という助けがなくても「白い馬」という荒波を上手く使って、行きたいところ、やりたいことをやれということを意味しているだろう。
海原へ飛び出たら荒波が待ち受けているように、社会へ出たら様々な困難や危険が多く待ち構えていることは言うまでもない。当然、少年がバスを見たときのように、社会への好奇心は湧くものの、実際に覗いてみたら、地図を辿った少女のように驚いてしまうだろう。だが、社会へ出たくても出られない水槽の魚やテトラポットの分まで、危険と隣り合わせの社会で荒波をうまく使い、積極的に動き、社会を満喫したい。私たちも大人によって決められた未来に拘らず、幅広い視点をもつことを心がけたい。だってその方が楽しそうだから。
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『小さな町の風景』の一章一章を吟味し考察していくという課題は、この教室のスタンダードクラスの課題であり、小学生でも取り組むものですが、中学生や高校生になってから新たに教室に入った生徒達にもやらせています。もちろん、そのときには小学生にやらせるよりも丹念にテキストに向かわせ、中高生に相応のレベルで分析をさせるわけですが、中学2年生のときに教室に入ったN. Y. 君も、この課題に取り組んできた一人でした。
おそらく彼は、学校で進路指導やキャリア教育を受けていく中で、社会に飛び込んでいく自分の姿を、期待と不安の両方が入り混じった思いで想像することが多いのでしょう。この物語に登場する少年少女たちに、自分自身を重ね合わせて物語を読んだことが伝わってきます。まさに中学3年生として等身大で物語に向かい合い、そこから自分のためのメッセージをくみ取ってくれました。
(国語専科教室講師 山分)
http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E7%94%BA%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF-%E5%81%95%E6%88%90%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%89-%E3%81%BF%E3%81%8D%E5%AD%90/dp/4036526901/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1451293892&sr=8-1&keywords=%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E7%94%BA%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF
小さな町の風景 (偕成社文庫)
小さな町の風景 (偕成社文庫)
15/12/2015
万次郎と船長の心のやりとり
『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』と『ジョン万次郎漂流記』の比較
Y.I君(小4)
僕は夏休みの読書感想文で、マギー・プロイス著の『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』(以下『サムライ魂』)を選んだ。大変おもしろい作品だったので、読書感想文を書いたのちも、ジョン万次郎のことについて調べてみた。すると、井伏鱒二さんという大変有名な作家がジョン万次郎について著作を出していることに気がついた。『ジョン万次郎漂流記』(以下『漂流記』)だ。ジョン万次郎という同じ主人公を扱ったこの2つの作品は、まず作者の国籍が日本とアメリカで異なっている。また、出版年は75年も違う。これだけ異なる点がある2つの作品は、同じ主人公でありながら、内容もかなり異なるに違いないと予測を立ててみた。そして、それを確かめるために比較作文を書くことにした。
そもそもジョン万次郎(本名:中浜万次郎)とは、土佐(今の高知県)生まれの漁師だ。16歳のとき暴風雨にあい漂流し、アメリカの捕鯨船に救われて、江戸時代の末期1842年に、アメリカに足をふみいれた。そして、8年間高等数学や航海術などを学んで鎖国下の日本に帰った。外国船がたびたび来航する時代、万次郎の英語力が求められ、徳川家直参の旗本に任じられた。あのペリーが来航した際には、通訳を行った。そして、明治時代に入ると、開成学校(洋学の研究所、東京大学の前身)の教授まで務めあげた。
それでは、具体的な比較に入る。まず一つ目は作者の国籍だ。『漂流記』の方は日本なのに対し、『サムライ魂』はアメリカである。だから、作者が目を通す事のできる資料も違ってくるため、万次郎像も異なってくるはずだ。
次は出版年の違いだ。『漂流記』は1937(昭和12)年で、『サムライ魂』は2012(平成24)年なので、75年も違う。
3番目の点は時代背景の違いだ。前にも書いたように、75年も違うので当然時代背景も異なってくる。具体的にのべると、『漂流記』出版当時は政府の方針に反した書物を出そうとすると、止められるような時代になりつつあった。一方、『サムライ魂』が、文章で好きなことを好きなように書いていい現代に出版された作品なので、書ける事柄の範囲も違ってくる。
次は4つ目の比較である。これは3つ目の比較に通じる、片方の作品しか取り上げていない事柄だ。まず『漂流記』の方は、万次郎が日米修好通商条約批准書交換の通訳として再度アメリカに渡ったことだ。一方、『サムライ魂』しか取り上げていない事柄は、万次郎と船長が親子になるまでの二人のやりとりだ。井伏鱒二さんは実際にあったと言い切れることしか書かないので、作品の中でその事に触れていない。だが、故郷の仲間と別れてアメリカに渡るということは、船長と深い心のやりとりがあったに違いないので、そのようなやりとりが書いてあった方が分かりやすい。
5番目の比較は、万次郎がアメリカへの留学を決めた理由の違いだ。『漂流記』は万次郎が好奇心旺盛なため、アメリカを見てみたいというものだ。対して『サムライ魂』の方は、前にも述べたが、船長と万次郎が親子になるという理由だ。
最後の比較は、万次郎像についてだ。『漂流記』の万次郎像は、「快活で胆力のある」人物像である。確かに、このような人物でないと、船長についてアメリカに行くという大きなチャンスをつかむことはできなかったかもしれない。なぜなら、当時アメリカに行くのは、どのような目にあうか分からないという大きな危険もともなう。しかし万次郎は、「快活」、つまり楽天的だったので、アメリカに渡るという決断ができた。また、「胆力のある」、つまりこわいもの知らずだったので、どのような危険も恐れなかった。そのため、アメリカに渡るという決断ができたのだ。一方、『サムライ魂』の万次郎像は、「柔軟な人間」という人物像である。なぜなら、他の仲間がみとめようとしなかったアメリカの文化を否定せずに受け入れることができたからだ。なおかつ、日本の文化も否定していない。これは柔軟な人間でなければできないことだろう。
これまでの6つの比較から導き出す事のできる結論を述べる。それは、『サムライ魂』と『漂流記』で、作者の国籍や出版年が異なっても、万次郎が好奇心旺盛だという指摘は共通しているということだ。これは、作者の国籍や時代が違ったとしても、漂流していた所にたまたま通りかかった船の船長について行って、アメリカで色々なことを学ぶという万次郎の行動は、いつ誰から見ても好奇心がとても強くなければできないことだからだ。
最後に、『サムライ魂』と『漂流記』、それぞれの良さについて書きたいと思う。
『サムライ魂』は、本当にあったと思える万次郎と船長の心のやりとりを、読者の想像に任せないで文章化したことである。これは、実際はフィクションかもしれないが、万次郎と船長の深い心のやりとりが無ければ、好奇心だけでは、万次郎はアメリカに行かなかったと思えるので、文章化したことによって、より現実味が増したといえる。
一方、『漂流記』の良さは、出版年を考えてみればよく分かる。出版当時、日本とアメリカは関係がどんどん悪化していた。また、政府の方針に反した書物を出そうとすると、前述したように、出版取り下げなどの処置が取られるような時代になりつつあった。そのような時に、アメリカに行ってアメリカ文化を受け入れ、英語を学んだ先人について書いたのは、とても勇気が要ることだったのではないだろうか。淡々と事実のみを書いていく井伏さんの文章の背景には、もしかしたらそういうことが関係しているのかもしれない。
【解説・講評】
私がジョン万次郎のことを最初に知ったのは、小学生の国語の教科書を通じてでした。そして、その教科書の文章の下敷きになったのは、井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』です。つまり、日本国民の多くがジョン万次郎を知っているのは、井伏鱒二さんのお蔭ということになります。
今回、I君が読書感想文のために読んだ『ジョン万次郎~海を渡ったサムライ魂』を自分自身も読んでみて、同じ主人公を描いた作品なのに、こんなにも万次郎の印象が違うのかと驚かされました。マギー・プロイスさんの描く万次郎は、生き生きと躍動しています。
そこで、私は、この驚きをI君にも味わってもらいたいと考え、井伏さんの『ジョン万次郎漂流記』を読むこと、そして、二つの作品の比較作文を書くことを薦めました。その後3か月間、週1回の授業の中で、2つの作品の比較、文章化、推敲など、I君は飽きることなく、静かな情熱を維持して書き上げてくれました。歴史好きのI君ならではの比較作文です。
(担当講師:中村 一郎)
25/11/2015
国語専科教室でございます。当教室は今年も「読書探偵作文コンクール」に参加いたしました。
このコンクールのルールはただひとつ、「翻訳書を読んで作文を書くこと」。形式も内容も自由なこのコンクールに応募したいと、今年は91名もの生徒が応募してくれました。応募作ひとつひとつに審査員の翻訳家の方々がコメントを付けてくださることも、生徒の励みになっています。
このたび、その結果が発表されました。同コンクールHPをご覧ください。最終選考会のもようや受賞作の全文もお読みいただけます。
http://dokushotantei.seesaa.net/
30/09/2015
「早期英語教育への疑問と反対意見」
国語専科教室 工藤順一 2015/9/29
文科省の新方針*もあり、英語を低学年から習う生徒さんがこの教室にも大変目立つようになっています。しかも、その内容は「英会話」です。将来的にアメリカで生活することでも想定していない限り、これは大きな誤りであり、時間とお金と子どもの能力の大変な無駄遣いです。しかも、二重の意味でそうです。
*(2011年5.6年生での英語の必修化。2020年英語の開始学年を3年生にする方針を文科省は決めている)
その主な理由は、小学校低学年という時期にあります。この時期には、だれもが語学の天才で、二三ヶ月でもそのような環境下に置くとすぐにそれになじんでしまい、会話のレベルならば、親よりも英語が得意になってしまいます。しかし、それは、6年生にもなって日本語中心の学習になってしまうと、不思議なことに、すぐに忘れられてしまうものです。これには、既に帰国子女たちのたくさんの証言があります。
母国語を形成するのは4.5.6年生のときに使用している言語であると一般的には言われています。
もう一つの理由は、「英会話」程度の英語は、中学からきちんと公立の学校で習うし、内容も中3程度までで十分だからです。これだと、正確な発音は確かに覚えられないでしょう。しかし、たとえどんなに正確な発音を身につけたとしても、薄っぺらい内容で英語を語る日本人は、むしろ日本人からも外国人からも軽蔑の対象になるでしょう。あるいは、「会話能力」だけのある日本人は、外国人のていのいい使用人として重宝されるだけでしょう。
小学校の英語教育はむしろ禁止されるべきです。母国語がまだしっかりと確定されていないからです。きちんとした母国語とそれで考える力を養成し、英語を学ぶとしても、英会話ではなく、かつてそうであったように、文法中心の書き言葉としての英語を学び、論文などが書け、きちんと自分の意見を妥協なく言えるようになるべきです。母国語で考えられる以上のことを外国語で言うことも語ることもできるものではないからです。
31/07/2015
国語専科教室でございます。
生徒作品をご紹介いたします。
『幸せな二度目のたんじょう日』(Mさん(小学校4年生))
ドクンドクン・・・心臓の音が大きくなった。あたまの中が真白になった。こわいっ。ぼくはハムスターの男の子。朝起きたら、なぜか人間の家のゆうびんポストの中にいたんだ。それだけならまだよかったのだけど、もっと運が悪いことに、お父ちゃんが一番こわいと言っていた人間というものに会ってしまったんだ。ああどうしよう。人間の手がこっちにのびてくる。にげたいのに、にげられない。まるで、かなしばりにかかったようなじょうたいだ。つかまれた。なにがおきるんだろう。人間がなにかを話している。どうなるんだろう。もう、その後はおぼえていない。
あれ、気持ちいいふとんだ。ぼくの、じまんのベッドよりさらに気持ちいい。ここはどこだろう。そうだ、人間につかまったんだ。このようすだと死んではいないらしい。目をあけてみよう。どうなっているんだ?
「・・・!!」
声にならない声がでた。おどろいた。どうしていたと思う?なんと人間が、すぐ目の前にいたんだ!!その人間が何かしゃべった。聞いてみると・・・。
「・・・!!」
またまたびっくり。だって
「わたしソフィー。これからあなたは、わたしたちの家族よ。」
って言ったんだ。ありえない。ぼくが人間の家族だって?ぼくは、おもいっきり首をよこにふってやった。すると、
「わぁ!それって、いいよの合図?かわいい。仲よくしようね。」
って!!はぁ・・・。つたわらなかった。しかたがない。にげまわって、まいごになるよりはましだ。ぼくは、もう一度首をよこにふった。
ソフィーの家族になって何日かたった。はじめは、本だなの上にのっておりられなくなったり、ソフィーにふまれたり、大へんだった。けれど、ソフィーのお母さんはお花やさんなので、お店で売っているヒマワリのたねをくれるし、最初に目覚めた時に気持ち良さにおどろいたペンポーチのふとんでゆっくりねむられる、うれしい毎日になったんだ。
しかし、こまったことだって二つあった。一つ目は「そうじき」だ。大きい音がにがてなぼくは、月に2回かける「そうじき」がじごくなんだ。だから、ペンポーチの中でふるえながら「そうじき」が終わるのをまつんだ。二つ目は、ソフィーの姉「セーラ」だ。動物が大のにがてで、ぼくを見てはにげまわる。気がつよくてソフィーに「ハムスターをすてて!!」と毎日のように言うんだ。ぼくは、すごく悲しくてショックだった。ソフィーがあんなにおこられるようだったら、ぼくは出ていってソフィーが幸せになる方がうれしい。
でも、ぼくには友達がいるんだ。それは、ときどきソフィーのお母さんのお店にやってくるハムスターのリースという女の子だ。話が合って、ものすごく仲よくなったんだ。しかもリースのかい主は名前はしらないけどソフィーの友達らしいから、たくさん会えるんだ。
こんなふうに、こまったこともあるけど平和にくらしていた。ちなみに、ここまでの話でソフィーのお父さんがなぜ出てこないのか不思議に思った人もいるだろう。その理由は、ソフィーのお父さんはピアニストで世界中をまわっていて毎日いそがしく、なかなか会えないからなんだ。さびしいけれどソフィーやリース、ソフィーのお母さんがいるから平気さ。
ある日うれしいことが起こった。セーラがぼくを見てもさけばなくなったんだ。ソフィーから
「ハムちゃんと仲よくしてあげて!!家族でしょ?」
と言われて、ぼくをかんさつしてみたら、かわいく見えてきたらしい。それは、ぼくにとってすごくうれしいことだった。
さらに、べつの日に楽しいことが起こった。ぼくの「たんじょう日」ができたんだ。それは、せいかくに言うと、ぼくがこの家に来た日なんだけど。その日にぼくは、たくさんのプレゼントをもらった。ソフィーからは、フワフワのペンポーチ。これは二つ目のベッドだ。ソフィーのお母さんからは、とくべつなすごくおいしいヒマワリのたね。お父さんはピアノで「スティリアの女」という曲をえんそうしてくれた。そして、なんと、セーラはぼくにヒマワリのたねの形をしたおもちゃをくれたんだ。ぼくは、とてもおどろきうれしかった。セーラとの心のきょりが、ぐっとちぢまった気がした。
それからは、セーラともソフィーやリースと同じくらい仲よくなった。一緒にお庭であそんだり同じふとんでねむったり、毎日(「そうじき」をかける日いがいは)とっても楽しくなった。
もしどこかで朝も昼も夜も楽しそうな笑い声がする家を見つけたらおぼえておいて。きっとそこが、ぼくたちの家だから。ぼくたちの家は今日もたくさんの笑い声がひびいている。
ところで読者の方だけにお伝えしますが、なぜハムちゃんがポストに入っていたかというと、ある夜に、ねぼけながらチーズのにおいにつられて入ったところがソフィーの家のポストの中だったのです。なぜチーズがおいてあったのかは、あなたのそうぞうにおまかせします。もしかしたら、ソフィーがさびしくないようにとソフィーのお父さんがおいたのかもしれませんよ。
【講評】
Mさんはプライマリーから通っている生徒さんで、一旦本を読み始めると声を掛けるまで集中しています。要約などで学年以上の力を発揮できるも、その豊富な読書量の裏付けがあってこそです。
さて、本作品は、テキスト『ファンタジーはこうつくる』を使用した物語作りを「面白そう」と興味を示してくれたことが始まりでした。テキストを参考にして、直ぐにハムスターを主人公にした、パディンドン型ストーリーにする事が決まりました。続いての設定を考える過程では、ハムスターの大きさを決めるために自分の手のひらを物差しで測ったり、登場人物達の名前を決めるために植物図鑑をじっくり眺めたり、楽しそうに自分が納得できる形を追及していた様子が印象に残っています。
30/07/2015
国語専科教室でございます。
生徒作品をご紹介いたします。
【日米の小学校歴史教科書の比較と考察――第二次世界大戦を両国はどのように教えているか】(S.U君(中学2年生))
今回、僕は日米の小学校歴史教科書の比較を行った。読み比べたのは第二次世界大戦の時代だ。比較した観点は6つで、それぞれの観点から日米の歴史教育の違いが見えてきた。
まず比較したのは、該当箇所の文章の分量、写真、資料についてだ。まず、日本の教科書の特徴は文章が少なく、ページのほとんどが写真かイラストで構成されていることだ。そして、その写真の内容も兵士や兵器はほとんどなく、多くが一般人の悲壮な様子だった。このことから日本の教科書は、庶民の生活等の身近な様子の写真やイラストからその時代の人々の気持ちを読み手に想像させ、大まかな印象を捉えさせる作りになっている。そして、細かな歴史的な事実よりも、大まかな歴史の流れを学ぶ、ということに重点が置かれていると考えられる。
一方、アメリカの教科書の特徴は文章が教科書のほとんどを占めていて、写真はまばらにちりばめられているだけだということだ。また、その文章の内容も、アメリカからの一方的な視点があるものの、一般的に事実と言われていることがかなり細かく書かれている。このことから、アメリカの教科書は読み手が想像や印象ではなく、歴史的事実の因果関係を本文から論理的に読み取り、歴史の流れを学ぶように作られていると考えられる。すると、写真の役割は、あくまで補助的なものだと言える。
次に、日米開戦の理由について、両教科書に書いてある内容を比較する。まず、日本の教科書に書いてあった理由は、「日本が不景気を打開するために中国を侵略。そのまま、ヨーロッパ各地を侵略していたドイツと手を結んだことが原因で、アメリカと対立。そして、日本の奇襲によって太平洋戦争が始まった」とある。これは、太平洋戦争の開戦の原因のほとんど全てが日本にあるというように読み取れる。歴史であるため、解釈については唱える人によって違いが出てくるが、この教科書では開戦原因のほとんどが日本にあると主張しているようだ。
対してアメリカの教科書に書いている開戦理由は、「ヒトラーが第二次世界大戦を引き起こし、それに対してアメリカは再軍備を開始。しかし、まだ孤立主義を貫く。ドイツと日本が同盟を結んだことから日本を仮想敵国にする。日本とアメリカの対立が激しくなってきたことから、日本への資源輸出を禁止する。焦った日本の奇襲によって孤立主義を解いて戦争へ突入」とある。大まかな流れは日本と大きくは変わらないが、ヒトラーの台頭から話が始まっていることから、アメリカが第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)、そして太平洋戦争に参戦することになる根本的原因は、ヒトラーの存在にあるということになる。また、「日本やドイツといったファシズム国家から民主主義を守る」という論調になっていることからも、アメリカが民主主義の擁護者であることを示している。
次は片方の教科書のみに書かれていることを見てみる。これは、それぞれの教科書が何を見ていて、何を見ていないかを明らかにすることである。まず、日本の教科書にだけ書かれていることは、主に国民生活の様子だ。この教科書には豊富なイラストと写真が載っているが、そのほとんどが国内の一般人の様子で、戦場のようすはほとんど無い。これは、戦った将兵を英雄に仕立てて、戦争の美化を防ぐための処置ともいえる。また、写真の多くが戦争によって疲弊した国民の様子であるのは、教科書が読み手に、戦争が悲惨だという印象を持たせるための工夫ではないだろうか。
対してアメリカの教科書には、日本の教科書にはない戦場の様子が鮮明に書かれている。むしろ、戦場の様子が中心に構成されているといっても差しつかえないだろう。また、日系アメリカ人が戦時中に収容所へ強制連行されたことや、ナチスドイツの対ユダヤ人政策についても細かく書いてある。アメリカが人権問題に敏感であることが分かる。
次に、今回調べた範囲の中でもクライマックスとも言える真珠湾攻撃について、両教科書を比較する。まずは日本の教科書を見る。すると、日本の教科書には写真が1枚と2行の説明書きがあるのみでそれ以上はない。
比べてアメリカは、他のどの部分よりも細かく具体的に書いてあり、また、「日本の奇襲」と強く主張している。これは、アメリカの参戦は正当防衛であることを伝えたいのだろう。
一方、日本の教科書は「日本の攻撃」と書き、「奇襲」とは書いていない。なぜ「奇襲」という言葉を避けたのか。単により平易な言葉を選んだだけかもしれない。しかし、これは日米の歴史認識の大きな溝なのではないかと考えられる。
次に、現在においても度々議論の的になる原爆投下についての両教科書の内容だ。まず日本の教科書の内容を見ると、「一発の爆弾で大きな被害を受けた」とある。ここで重要な点は、原爆投下に関する評価が全く書かれていないことだ。原爆は、多くの非戦闘員を瞬時に殺傷する非人道的な兵器である。そうであるならば、それを投下した「アメリカが悪い」、あるいは、「日本のせいでこうなった」といった評価が行われるべきだ。
この点アメリカの教科書では、「日本本土に攻め込めば多くのアメリカ人が犠牲になる。だから、それを防ぐために原爆を使用した。原爆は多くのアメリカ兵士の命を救った」とある。これは核使用を肯定していて、責任問題は存在しないという立場だ。両国の教科書の記述がなぜそのようになるのか。そこには、両国の現在の政治的な問題が背景にあるのではないか。もしアメリカが原爆使用の責任を認めたら、それは核の不使用を受け入れることになる。つまり、アメリカは現在の核の抑止力を持ち続けるために、核の肯定、責任問題をもみ消す立場を取っていると言えよう。一方、現在アメリカの抑止力の恩恵を受けている日本は、アメリカの責任を声高に叫ぶことが出来ない。なぜなら、歴史問題により両国の関係が冷え込み、最悪の場合、日米同盟の解消につながることも懸念されるからだ。今の日本は政治、経済、軍事においてアメリカに頼っている部分が大きく、アメリカとの対立は日本の存亡に関わる問題だからだ。
最後に両国の教科書が子どもたちに伝えたいメッセージについて比較する。まず日本の教科書が伝えたいことは「戦争は悲惨だった」という一言に尽きる。写真やイラストを大量に載せ、当時の一般人の気持ちを想像させて、戦争に対する恐怖心を抱かせる。さらに、日本の戦争の罪を教えることで、反戦や不戦の誓いを促している。
対するアメリカの教科書の伝えたいことは、「自由を守り通した」の一言に尽きる。アメリカがどのような経過で戦争に巻き込まれたか、いかに主権を守ったかが書かれている。加えて、その教科書の別のページだが、そこには「マニフェスト・デスティニー(明白な使命)」という言葉がある。これはアメリカの海外進出を正当化する思想だ。つまり、アメリカは戦争を否定しておらず、むしろアメリカの主権を防衛するためには、どんな場合でも武力介入を辞さない姿勢でいる。事実、アメリカは第二次世界大戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの戦争、中東や南米の紛争に介入してきた。そうして、「パックス・アメリカ-ナ」と呼ばれるアメリカ中心の世界を作り上げた。これは、アメリカが歴史教育によって、武力行使の正当性を国民に訴え続けたことの結果だと考えられる。
ここまで日米の教科書を比較してきて、僕は日本の歴史教科書の内容が不充分だと考える。どう不充分かというと、日本の教科書は余りに具体的な説明が少ないということだ。これでは「なぜ」戦争が起きたのか、「どうしたら」戦争が防げたのか、という考察が行えない。『納得の構造-日米の初等教育に見る思考表現のスタイル』に書かれているように、日本の歴史教育がこれまで大切にしてきた歴史上の人物への「共感の訓練」は、僕が考えるに、本来国語の時間に行うべきではないだろうか。歴史の時間には、結果からその背景にある原因を考察し、教訓を導き出すもっと論理的な授業を行うべきだ。そして、そういう授業を行うためにも、教科書を編成し直す必要があるのではないか。
具体的に、教科書の記述の不備を指摘したい。例えば、日本の教科書は日中戦争に突入した原因が「不景気」だと書いているが、なぜ不景気になったのか。そのときなぜお金のかかる戦争をわざわざ起こしたのか。そこまで経済は困窮していたのか。なぜ満州国という国をつくったのか。なぜ日中戦争はこんなにも長引き広がったのか。たった1ページから、これだけの疑問が浮かんだが、その答えは教科書に書かれていない。だから、例えば、以下のように記述を補ったらどうだろうか。「日中戦争前の不景気の原因は世界恐慌だった。そして、植民地を多く持つイギリスやフランスは、不景気の中での自国の貿易量を確保するために、植民地とのブロック経済(本国と植民地の間で閉鎖的に貿易をおこなうこと)でしのごうとした。しかし、その結果、世界の市場から締め出された日本やドイツなど、植民地を持たない、あるいは少ない国々は、軍事力をもって資源や地域を確保しようとし、その結果日本は中国や満州に、ドイツはヨーロッパ各国に戦争を仕掛けた」と、これくらいかそれ以上は書かねばならない。僕自身1年3か月前までは小学生だったので分かるが、小学生は大人が想像する以上に多くのことを理解できる。実際、アメリカの教科書は日本の中学の歴史教科書として使用しても充分通用するか、もしくはそれを超える内容になっている。このくらいの内容だからこそ、子どもの興味をひき、知りたいという欲求に応えられるのだ。
僕は、日頃から、歴史関係の書物を好んで読んでいる。その中には、日露戦争や第二次世界大戦に関する本も含まれている。しかし、そういう書物を学校で読んでいると、白い目で見てきたり、「そんなに戦争が好きなのか、戦争したいのか」と中傷してきたり、対話を拒絶したり、怖がったりするクラスメートがいる。なぜ、戦争に関する本を読んでいると「戦争好き」になるのか全く分からないが、このように言われたことは何度もある。僕も言われっぱなしでは悔しいので、なぜそのようなことを言うのか逆に問い詰めると、彼らの答えはしどろもどろで、戦争の歴史に関して無知な場合が多い。彼らは、聞きかじった歴史を鵜呑みし、事実かどうかを確かめようとは思わず、思考を停止させているだけではないか。それは戦争の反省ではないし、その思考で平和がやってくるとは考えがたい。真の平和を得るためには、戦争の歴史を遠ざけるのではなく、逆に丹念に学び、教訓を現代に生かす必要がある。そして、戦争に関する国民の教養を高めるためにも、日本の小学校の歴史教科書の改訂は必須の課題である。
【使用テキスト】
・『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』ジェームス・M・バーダマン、村田薫[編]、ジャパンブック
・『新しい社会6年上』東京書籍
【参考文献】
・『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』渡辺雅子、東洋館出版社
【講師評】
この夏、戦後70年の敗戦の日を迎えます。その日に向けて、私は小6から中高生の子どもたちに、これまでとは別の切り口で70年前の夏まで続いた第二次世界大戦(太平洋戦争)を振り返ってもらいたいと考え、こうした授業を行っています。日米の歴史教科書の記述を比較する中から、「同じ歴史事実なのに、国が異なると教科書の記述がなぜ違ってくるのか」、「教科書の執筆者は、どういう意図で教科書を書いているのだろう」など、様々なことに気づいてもらえたらよいと思っています。一言でいえば、子どもたちの“教科書リテラシー”の意識が進めばよいと考えています。
今回、中学2年生のS.U君は、単なる教科書比較にとどまらず、日本の教科書の記述をこう直したらよいのではないかという具体論まで踏み込んで書いてくれました。それができたのは、S.U君が日頃から近現代史に関する本に親しみ、詳しい知識を持っているからです。しかし、もし仮にそれほどの知識を持っていなかったとしても、日米の歴史教科書を一度比較してみさえすれば、そのレベルの差を確認することは、実はそれほど難しくはありません。アメリカの方がずっとレベルの高い教科書であることはすぐに分かります。そしてそのレベル差というのは、昨今喧しい歴史認識とは関係がありません。明らかに歴史教科書としての詳しさの違いが日米間にはあって、中学生の目にも、それが明らかになったということです。
文部科学省内では、教科書検定のために国内で発行されている教科書が集められ、その比較は毎年のように行われていると思われます。しかし、一度視点を変え、世界各国の歴史教科書を取り寄せ、日本に関する記述の部分だけでも、詳しさの比較をしてみたらどうでしょうか。そしてその方が有意義な教科書の比較となり、教科書を抜本的に変えていくきっかけとなるに違いありません。(担当講師:中村一郎)
工藤順一 国語専科教室 | ことばを、生きる力に
「国語専科教室」とは、工藤順一が主宰する、小中学生と高校生を対象にした国語に特化した個別指導の教室です。「受験のための国語」ではなく「知性を育む基礎となる言語」としての国語教育を実践しております。
26/06/2015
2年生のHさんの書いた作品を紹介します。
『かみのどうけし』
きょうは、「かみのどうけし」をよみました。ふしぎだとおもったのは、イエスさまの手にだれも、金のボールをのせていないのに、イエスさまが、金のボールを、だきしめていたことです。わたしは、きっと、金のボールをなげたしゅんかんたおれたから、イエスさまの手に金のボールが、のったんだとおもいます。金色のボールは、ほかのボールより、かがやかしいです。その金色のボールの中に、しんだどうけしジョバンニのよろこばせたいきもちがはいっているとおもいます。
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『神の道化師』(作 トミー・デ・パオラ)は、孤独で貧しい少年ジョバンニが、一生を大道芸人として生きていく物語です。老いぼれ、周囲の人々に蔑みを受けながらもそれを恨まず、権力にすがることもなく、最期まで自分の仕事に誇りをもってやり遂げる姿に心を打たれます。
この物語を物語体験で読んだとき、Hちゃんは、すぐには感想を述べませんでした。シーンとした短い時間が流れ、その間、不思議に思った場面を反芻していたようです。このような時、講師は間違っても「面白かった?」などと聞きません。生徒が物語から現実の世界に戻ってくるのをじっと待ちます。そのあと、講師と一緒にページをめくりながら、自分が感じたことをぽつぽつと話し始めます。その思いが冷めないうちに自分の言葉そのままを文章に書くのです。Hちゃんもそのように自分の感じたことを書きました。
Hちゃんは、幼いときから読み聞かせなどで本に触れ、まさに「浴びるように」本を読んでいる生徒です。いつも教室の本を6、7冊ほど借り、ひっくり返りそうになりながら背中にしょって帰ります。読書家の彼女にとってこの本との出会いは、不思議なことが起きた理由をあれこれと想像する楽しみに満ちた本であったようです。(講師 橋立久子)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E9%81%93%E5%8C%96%E5%B8%AB-%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AA%E3%83%A9/dp/4593501407/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1435290149&sr=8-1&keywords=%E7%A5%9E%E3%81%AE%E9%81%93%E5%8C%96%E5%B8%AB
神の道化師
天性の資質と芸術家としてのうらづけ、そして自らの宗教的体験(デ・パオラは聖フランシスコ教会に属していたことがある)、こうしたものをふまえて、トミー・デ・パオラは自ら翻案してまとめ上げた、この「神の道化師」のために絵を描くにあたり、いろいろな細部にまで注意深く、かつ忍耐づよく、国の内外を問わず、調査研究しました。
18/06/2015
国語専科教室運営本部です。
毎年ご好評をいただいている夏の体験教室を、本年も関東の4教室および芦屋教室にて開催する運びとなりました。
4日間連続で当教室のカリキュラムを体験していただける講座でございます。
ご入室をご検討のみなさまはぜひこの機会にお申込みくださいませ。
夏の体験教室の他に、4日間で読書感想文を書き上げる「読書感想文コース」や、普段学校や塾で習う算数とは一風変わったアプローチで算数に触れることのできる「算数基礎講座」も同時期に開講予定です。
(※「算数基礎講座」は恵比寿教室のみの開講となります。)
詳細につきましては教室ホームページをご覧ください。
↓↓↓
http://www.kokusen.net/category/summerspecial/
夏休み特別講座 | 工藤順一 国語専科教室
7~8月に催される「夏の体験教室」や「夏の読書感想文コース」、「算数基礎講座」についてのお知らせです。