06/09/2017
海山漂渺入仙寰
初撓青幖 對黙間
酒檯茶籃倶一席
秋航檥在藜花湾
磐渓
海山は縹渺として仙寰に入る
初めて青幖は撓み 黙間して對す
酒檯に茶籃倶に一席
秋航する檥 藜花湾に在り
磐渓
http://eiketsunosho.seesaa.net/article/424713860.html
☆縹渺(ひょうびょう):かすかではっきりしない様
☆仙寰(せんかん):仙郷(せんきょう)に同じ。仙人が住む(かと思われるほどの)俗界を離れた所。
☆青幖(せいひょう):目印
☆撓(たわ)む:棒・枝などに力が加えられて、そり曲がった状態になる。しなう。
☆茶籃(ちゃかご)
☆檥(ぎ):船の装い
☆藜花(れいか):あかざ
大槻磐渓(おおつき ばんけい) 享和元年(1801)~明治11年(1878年) 仙台藩 漢学者 藩校・養賢堂学頭 西洋砲術指南取扱
【書の解説】 幕末の三筆と言えば、一番に巻菱湖(まきりょうこ)であろう。市川米庵(いちかわべいあん)と江戸の書壇を二分し、これに貫名海屋(ぬきなかいおく)を加える。江戸時代の公用書体は御家流であるが、維新後は巻菱流に改められた。磐渓は菱湖に学んでいる。さすがに、当時一流の漢学教養人の書と詩は味わい深く、書は眺めるほどに気分が清々しくなってくる。 酒豪であったようであるが、酒檯には茶籃を置き一服楽しんでいる様子が目に浮かぶ。櫓の舟で仙寰(せんかん)(仙郷)に入り、縹渺なる天地の間に浮かんでみたいものだ。 仙台の人であるから、松島あたりで舟遊びをしたとき詠じたのでないか。東北の太平洋岸は、千年に一度の津波で、海岸にあった人工物は、ほとんど流されてしまった。 しかし、松島の景は、藜花の湾のように、そのまま残った。
磐渓を育てた学究の家系 大槻家は優れた学者を輩出した。「西に頼氏あり、東に大槻氏あり」と称され、大槻玄沢、大槻磐渓、大槻文彦の三代は、「大槻三賢人」と呼ばれている。磐渓の教養と人格は、如何にして作られたのであろうか。 学問をする環境は申しぶんない。父親は蘭学者・大槻玄沢である。蘭学者の仲間で歴史に名を刻んでいる桂川甫三は、前野良沢、杉田玄白と友人であり、解体新書は桂川によって将軍に内々で献上されている。磐渓が漢学を選んだのは、オランダ語を正確に漢語に置き換えるため、父に薦められたためと言われている。 学問修行は、16歳のころ昌平坂学問所で大学頭を務める林家に入門、ここで磐渓は高弟の葛西因是から文章を、松崎慊堂から経学を学んだ。学問所に入学、約10年間27歳まで続けた。 1840年アヘン戦争が起こり、欧露のアジア進出を幕府が脅威として認識した。 翌年、長崎の町年寄・高島秋帆を呼び寄せ、徳丸ケ原(高島平)で西洋砲術の実演を行わせ実見した。磐渓は藩校・養賢堂指南役を務める傍ら、「文武両道たらん」として、すぐに高島秋帆の門下に入り、1848年皆伝を受けている。その後、江川坦庵門にも入学している。
混乱の幕末期に佐幕派外交戦略を主導 幕府の統治がゆらぎ、内憂外患が山積するなか、磐渓の危機感は独自の意見として残されている。 「献芹微衷(けんきんびちゅう)・(海堡篇)(陸戦篇)(海戦篇)(隣好篇・上)(隣好篇・下)」以上5編(1849年著)。老中・安部正弘に建白され、開国論をまとめた最初のもの。 島国である日本の海防を説き、親ロシア寄りの開国論を主張している。 「米利幹議」(めりけんぎ)、「魯西亜議」1853年著。 「米利幹議」は、黒船来航に際して浦賀で見聞したことを報告したもの。 「魯西亜議」はプチャーチンが長崎に来航した際に書かれた建白書。「献芹微衷」同様、ロシアびいきが現れている。
「近古史談」安政年間の成立。「織篇第一」「豊篇第二」「徳篇第三上」「徳篇第四下」の四巻からなる。戦国大名の活躍と、磐渓の論評を記したもので旧制中学校の漢文教科書にも採用されている。 磐渓には、ペリーの来航以来、動揺する世情を憂い過去の英雄達の行動を学ぶことで士気を鼓舞する意図があった様である。 維新前、仙台藩の藩儒として、養賢堂の学頭になった。幕末、藩は倒幕派と佐幕派に分かれ抗争が展開されるが、奥羽越列藩同盟の盟主となり、磐渓はその論理的指導者となる。 会津藩が朝敵にされた理由は、文久改革により京都守護職に任命されたためである。また、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられた。これらの職は旧幕府の要職であったため、薩長から「朝敵」とされ新政府の攻撃対象となる。 会庄両藩の外交文書がある。両藩が当時のプロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する北海道の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していたことを示す。 しかし、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。プロイセン海軍大臣は、日本が混迷している隙をつき、他国同様、領土確保に向かうべきであると進言している。 親露開国論を展開した磐渓は、維新政府により収監され、のちに許されるが罪の内容は以下のような事であった。 一、仙台藩から朝廷への建白書の執筆 二、奥羽越列藩同盟盟約書の執筆 三、輪王寺宮令旨の執筆 四、プロシア国領事宛書簡の執筆など
白石念舟
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