ゴーキ美術研究所

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社会人絵画教室(京都市下京区) 卒業生1万人超 美術館運営 ゴーキ美術研?

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新たな出発に際して

宇宙時代とグローバル時代が到来したといわれている今日に、古の東西文化交流のシルクロードの終着点の国の京都で、絵画芸術の学校を開設します。西洋絵画と東洋絵画を学習し、伝統的で現代的な作品を制作する学校です。東西絵画に共通する基礎デッサンを生涯に亘って重んじ、形態と色彩と調和を綜合する絵画を創造することを目的とします。現在までの制作と美術教育の経験から編み出した技法とメソッドを用い、更に今後の研究によってそれを発展させます。地球の自然との共生が大切になっている今日の時代に、自然を尊び、芸術の古典・伝統を敬い、自然と古典・伝統から学びます。外部の客観的世界を見つめて研究するとともに、心の内部の宇宙を見つめ深め、生命の力と精神と美がある作品を創造する学校であることを希望します。
                                     遠藤剛熈

09/03/2020

5つの特徴
① 初心者の方も最初から油絵を描ける。
② 画材の正しい使い方が習得できる。
③ オリジナルテキストで7つの技法を学べる。
  油彩画、水彩画、デッサンの技法が学べる。
  形、色彩、調和の絵画の正しい基本を学べる。
④ 静物・人物・風景を描く。
⑤ 講師の話を聴き、優れた芸術作品を知ることで心を育む。

12/03/2018

    デッサン=基本(基礎・根本)に始まり
     デッサン=基本(基礎・根本)に終れ。

精神と身体が、まっすぐで、しっかりした、
     筋金入りの仕事と人生を。
           

 全ての人は結局、人生においても、仕事においても、各人のデッサン=基本(基礎・根本)以上のことも、以外のことも出来ない。
本格的なデッサン力を身につけるために、若い時からデッサンの勉強に励まねばならない。
 生涯休まず日々デッサンをすることだけが、一角の人間と、 創作者になる唯一の道である。

20/02/2018

絵画芸術の本道の復興。
本来の美術館と美術学校。
芸術寺院の建立。

     個人美術館の建立を思い立った頃の覚書。

           1992(57歳)年9月執筆(1999年5月改稿)
                        
芸術の道 

 芸術は私にとってかけがえのないものである。
命をかけた仕事であり、一生涯の努力が必要である。

私は若い時に人生如何に生くべきか、信仰と理想を真剣に求めつづけた。
私は二十才の信仰と理想を、現在まで持ち通している。
青少年時代から今日まで、私を導いてきたものは、歴史上の巨匠・天才達との真実な出会いである。彼等への感謝と、後輩としての責任感である。

 中略
私の絵は全て自然の対象物を前にした直接の制作である。
偉大な永遠な自然に立ち向い、全力をつくして制作した。
流派や形式を越えて、自然のリアリティーのある、生命のこもった作品を創ることを目標とした。

又、何一つ隠すことのない、私の生き様であり、告白である。
私の絵と人生は全て矛盾の連続であり、失敗の連続である。
動物と神、悪魔と天使など、対極にあるものの相克である。
しかし、否定と肯定をくりかえし、矛盾を克服しながら、世界を肯定し、綜合する方向へと進んできている。

 中略
私は徒党集団のためではなく、個人として、自分自身のために制作した。
外面を見ずに、自分の内面のみを見つめ、深め、信仰や信念の真実のために戦い、努力した。
独立独歩の人間であり、芸術家である。

「全世界を得るとも、自己を見失い、自己の魂を損ずれば、神において、得るところ何一つあらん」という聖書の言葉は、 本当の芸術家たらんとする、人間にとっての金言である。

真実の修行者は、
腐敗した社会には妥協しない。
貧弱なありふれた成功を超越する。
中略
偽りの芸術家は、さもしい外面的成功と出世栄達の道を歩む。そうして他人や世間を気にして、本質を欠いた、浮ついた作品をつくる。
自分を偽らぬ芸術家は、外面的社会からはなれて、孤独と苦悩の中で自分の内部の力で制作をする。
五年、十年、… 一生涯をかけて一つの仕事をする。
そうして、たとえ後世なりとも人類の心に伝えたいと思う。

物と情報が氾濫し、人工と虚飾に満ちた物質文明社会の中で、人間は思索を失い、自己を失い、精神の理想を失いがちである。芸術は増々混迷し、浅薄になり、遊戯となっている。
このような時代に、自然との調和の中で、人生の現実に基づいて、人間の心と体をもってつくられた、モニュメンタルな芸術を復興すること、次代の人類に伝え残すに値する、実のある作品をつくることが、地球上のいずこの国においても、大切になってきていると私は信ずる。

人間の心が荒れ、不徳義なことばかり起こり、魂の尊厳を失った自堕落な時代に、私の拙作から、正直と真面目とねばりと、画家本来の気骨とを、観者が見取られれば幸いに思う。

芸術は国境・人種・宗教・思想の争いは無い。
出生・階級・貧富・賢愚の差別はない。
芸術は元より憎悪と闘争を一切超えたものだ。
 芸術の使命は愛だ。

 私にとって芸術は、永遠なもの — 自然・宇宙・神佛 — と人類が出会う謙遜な寺院でありたい。
 私は芸術の寺院を建立するために、人々と共同して働いて来たのだと思っている。

 私の作品は永遠への捧げものである。
 人類への贈りものである。

Photos 15/02/2018

前回の続き

 三、芸術と自然.現在・未来に大切なこと

 芸術の元は自然である。大空・大地・野・山・川・海・樹木・草花・鳥達や魚達や虫達や獣達や人間である。それらを尊びそれらに調和して創られた、諸々の建造物や道具などの人工物である。自然は尊厳で永遠である。自然は全ての芸術家に、無尽のものを与え得るほど豊かである。自然にかわって、芸術の元となり、模範となるような、力も権利も、人類は永久に持つことは出来ない。
 古今の人類の歴史に残り、不滅の光をかがやかせている、芸術のあらゆる巨匠、天才達の、情熱の源であったものは、自然への愛である。そうして決して感動を欠く拵えものの偽りを、表現しなかったのである。
 人間は芸術を創造するという。自然は常に創造しているのである。無限なる自然に全面的に服従し、忍耐強く自然を研究して、それに作者の人間の魂を入れるのが、健全な芸術である。常に語るものは自然であり、聴くのが人間である。
 人間が自然環境を破壊するに従って芸術は失われてしまった。大資本の機械による大量生産が、人間個人から手仕事を奪い取り、組織的に管理し画一化し、本然の創造力をうばっているのである。素朴に自然の諸々の生命を尊重し愛することが芸術家の使命であるのに、それを自覚せず時流に迎合するような様式だけの作品が巷に氾濫している。
 デザインとは、軽薄な流行作品をつくることではない。古来から人間が、生活の営みの中から創って来た諸々の分野にわたるものである。
 優れたデザイナーは、自然と生活の調和の中から「物」を創ってきたのである。彼等は大地とともにある農民の血が流れていた。都会生まれのデザイナー達も、自然を尊崇し、自然へ帰らねばならないことを知っていた。
 今後の人類に必要なものは、機械によるマスプロダクションではなく、人間の肉眼で見て、耳で聴き、手で触れて、感動をこめて創られた作品である。たとへ大量生産が可能であっても、生命の通った作品でなければならない。
 物質偏重の文明に翻弄されて、人間の心が荒廃し、不徳義なことばかり起こり、魂の尊厳を失った自堕落な時代に、芸術は増々混迷し、浅薄になり、コマーシャル化し、私事化し、遊戯となってきている。
 こんな時代にあって、歴史上の偉大な芸術作品から先人の心を学び、芸術家の純粋で誠実な精神に帰り、芸術家本来の気骨をもって、自然と人生の現実に立脚した、リアリティーのある、剛健なモニュメンタルな作品を創造することが、地球上のいずこの国の芸術にとっても、何よりも大切な事だと私は信ずる。

Photos from ゴーキ美術研究所's post 03/02/2018

前回の続き

 自分が芸術を作るのではない。歴史上の諸々の芸術の傑作に出会い、傾倒し、研究し、時には対決して、一生涯かけて仕事をして自分の芸術をつくるのである。これは全ての歴史上の偉大な芸術家に共通する宗教的精神態度である。

 私は西洋芸術を研究してきたが、卑屈な西洋伝統文化一辺倒・崇拝をしているのではない。古来から日本人は、外国文化を取り入れて、我国独自の優れた美を創ってきた。油絵やデッサンの西洋美術の伝統を摂取し、研究して、東洋人の心を、力を、エネルギーを表現することが私の仕事である。祖国の自然と人間を描くこと。祖国を愛し、造形することが、私のライフワークである。
「フランスの芸術はフランスの自然がつくった」とロダンはいう。
「両親が信じ生活した空の下を愛すること。他のことは妄想にすぎない」とルオーはいう。
 私は外国はおろか東京へも十年に一度ぐらいしかいかない。京都のある自然の制作現場へ長年通い、一人で黙々と制作してきた。ようやく近年になって外国へ行くようになってきた。
 私は我が国の画家では、雪舟、雪村、等伯、友松、光琳、若冲、玉堂、北斎、鐵斎等の異端の画家が好きである。更にはっきり言えば、本格派の異端が好きであり、私の望むところである。

 芸術には変化があるのみで、進歩はないと思う。ある世紀にはピークがあり、次の世紀にはデカダンスと谷があったというように。
 芸術には古い新しいはないと思う。今日の芸術家が、自然の命を表現する天分と力と情熱をもってつくったものが、現代の真の生命ある芸術である。
 反対に自然を深く愛する天分と力と情熱を持たぬ者が、新奇な様式や技法の作品をつくっても、時が経つと共に古くなり死んでいく。
 本来具象と抽象は、区別があるものではない。自然から、人間の精神と感覚で、本源的なものを抽出し、選択し、真実化するのが真の抽象である。

次号へ続く

Photos from ゴーキ美術研究所's post 16/01/2018

前回の続き

 私の作品は、全て自然の現場での直接の制作である。私の眼が見るのは、人工的で飼い慣らされた、情緒的な自然ではない。大空の下で、太陽に照らされて、風に吹かれ、雨にうたれた自然である。強烈で、剥き出しで、生々しい自然である。内面的で、本源的なものであるとともに、今瞬間に生まれ出ようとする、新鮮な、とどまることなく移り行く自然である。
 自然の前に立って、意志し、情熱を燃やして、攻撃的に描き進めば進むほど、あるいは自然の方から、こちらへやってくるまで、忍耐強く待てばそれだけ、どこまでも豊かに、強く、深くなって人間にせまってくるのが自然の実感であり、形態感覚であり、色彩感覚である。これが人間の芸術感覚なのである。
 私はそれに己を空しくして黙って従うしかないのである。あるいはそれに全力をつくして対決して、たおれるまで描くしかないのである。それゆえに、私の絵は全て未完成である。

 私は一枚の絵を二年、三年、時には十年、二十年、三十年以上かけて、とりあげては描き加えていく。一生涯をかけて描き加えねばならない。時には短時間で描く。大事なのは明日ではなく、今日一日、今瞬間の一筆である。重過ぎたり薄過ぎたりの多数の絵をかかえている。現在では全ての絵が未完成である。私は自分の絵に不満である。しかし仕事に完成はあり得ない、というのが私の信念である。

 私は油絵と並行して常にデッサンをする。デッサンは形の厳しい見方である。デッサンは小手先で描くのではなく、全身で描き、自分の両足が大地に立つことを確認することである。デッサンする人間の精神は硬質である。デッサンは造形の基本であると同時に人間の基本である。絵画の骨組であると同時に人間の気骨である。単なる技術や観察ではない。真摯な態度であり、姿勢である。デッサンは下絵ではない。それ自体独立した作品である。

 私は① 鉛筆、墨、油絵具などで描いた黒と白の絵。② 、①の絵の線を生かし、その上に油絵具、水彩などで彩色した絵。③ 透明画法のやや薄描きの油絵。④ 絵具を盛り上げた厚描きの油絵。⑤水彩画。以上の五種類の絵を描き続ける。
 この五種類の絵は、根本的に同じく自然の探求であり、相関している。

次号へ続く

Photos from ゴーキ美術研究所's post 06/01/2018

前回の続き

 同じく印象派の画家達は、一生涯自然を強い愛情をもって見つづけ、研究し、深め、純化していったコローの謙虚な清純な制作態度に打たれた。そうしてコローのように、素直に、作意を衒わず、調和の光につつまれた、そのまゝで限り無く美しい自然を描こうとした。
 ドラクロアとコローの次に出てきたのがクールベである。
 クールベが「自分は羽の生えた天使など見たことがないから、そのようなものは描かない」、といって写実主義を標傍して、現実の生活上の人物や風景を、写実に徹して描き進んでいるうちに、彼の一見べた塗りの張り切った強靭な画面から、内部の感覚が表れ輝き出したのである。クールベは、ドラクロアの浪漫的真性から出発したのであるが、想像的な創造力をもち色彩の感覚美に優れていたドラクロアも、クールベの手堅い写実を見て、動揺せざるを得なかったのである。コンスタブルの写実を見たときもである。
 ルノアール・セザンヌ・モネら若い画家達は、野人クールベの自然対象に立ち向かう写実のひたむきさに打たれた。そうしてクールベに続こうとした。クールベの写実力を獲得すべく勉強した。クールベの鉄の如く堅牢な物質表現力の獲得を目標とした。
 このようにして写実(リアリズム)を根本とする近代絵画の伝統は、シャルダン、コンスタブル、ジェリコー、ドラクロア、コロー、ミレー、テオドル・ルソー、クールベ、セザンヌ、ルノワール…と受け継がれてきている。
 この伝統、すなわち絵画の本道は、当然今日に受け継がれ、発展されなければならないと私は信ずる。巨匠が現れていないのが現状である。
 シャルダンやコローと、セザンヌやルオーはどこが違うか。同一の伝統の中にある。それがわからない人は絵画がわからない。セザンヌやルオーは、下手な我流の画家だと間違ってしまう。
 絵画の価値は、物の皮相の描写や手先の器用さではない。物の根本的な形態の把握力と、色彩感覚の鋭敏さと深さである。
 具体的な画家は、あくまでも自然対象に即して制作しながら、物質としての自然を再現するだけではなく、物質を色彩に置き換えるのである。
 色彩は生命である。天才とは優秀な感覚によって生命を表現し得る人である。ルノワール、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、マチス、ボナール、ルオー…全て色彩によって自然を表現した画家である。
 西洋巨匠達の油絵は透明である。近代絵画においてもルノワール、セザンヌ、マチス、ルオーらの色彩は透明である。厚塗りの絵においても、薄塗りの絵においても透明である。
 このことが日本人の油絵に欠けているものである。これは透明画法としての素材の技法上の問題だけではない。自然対象に即して実感表現の執拗な追求を行っているうちに、自身の感覚が純化してくるのである。自然対象に照応する画家の自我内部から出る色彩感覚が透明なのである。

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Photos from ゴーキ美術研究所's post 25/12/2017

前回の続き

 イタリアルネッサンス期のヴェネチア派のチチアーノ、チントレット、ヴェロネーゼ等は、大画面の群像の全体を構成することができたが、部分の個体の写実においても完璧な視覚像の表現力を持っていた。
 フィレンツェ派のレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ然りである。
 エル・グレコの深い明暗と輝く色彩によるイマジネーションの背後には、堅実な写実力があった。
 ヴェラスケスは初期においてリベラ、スルバラン等と共通した堅実な写実力を獲得している。
 レンブラント、シャルダン、コンスタブル、クールベはそれぞれリアリズムを徹底させた。
 歴史や文学作品に主題を求め、想像力に優れていたドラクロアは、初期の作品「ダンテの船」に見られるように、熱烈な生命のこもった、堅実な実感写実力をもっていた。
 想像力の表現には、実感の写実力が必要なのである。
 ルオーの悪の華やミゼレーレ等の銅版画において表現されているものは、石か鉄の如く強靭な物質感である。それが深い魂のイマジネーションの世界を表現しているのである。
 セザンヌが青年時代にルーブルで、イタリアルネッサンスのヴェネチア派の大画家達の絵を何度も観賞して、その絵の不滅の価値を確信した。そこに絵画固有の視覚像の感覚の実現があることを。
 それは自然の中に、絵画独自の感動が存在することの発見である。フォルム、マッス、明暗(光と陰)、色彩による絵画的感動である。すなわち、画家の眼と精神に映じた不滅の生命の顕現である。これをセザンヌは感覚の実現と言った。
 セザンヌは、ルネッサンス期の大画家のように、大画面による群像の全体を構成することは出来ないと思った。そうして部分を完璧に描こうとした。そうして風景や静物に取り組んで、人の千回萬回の鑑賞にも耐え得る作品を創るべく、一枚の絵を千回も描くという大変な努力と忍耐を実践した。
 このようにしてセザンヌは、ヴェネチア派の画家達の作品に劣らぬ、恒久的で伝統的かつ現代的な絵画を創造したのである。
 このような真の画家の誠実というものを、現今の画家達は失ってしまっている。私は時流がどうであれ、セザンヌが実践したことを受け継ぎ、一枚の絵をこれ以上描けないところまで描き抜くべく努力し、忍耐し、集中し、誠実でなければならないと思っている。
 浪漫派の先鋒のジェリコーを兄のように思っていたドラクロアは、ジェリコーの力強く手堅いが、色彩がまだ堅く少ない写実を、色彩的に豊かで優れたものに発展させた。ドラクロアは印象派に先がけて、色相環や色相対比の光学理論を、写実に基ずいて実践した。
 印象派の画家達は、浪漫派の雄渾な情熱の大画家ドラクロアの色彩に啓発された。

次号へ続く

Photos from ゴーキ美術研究所's post 05/12/2017

前回の続き

 二,私のこと.西洋巨匠達と比べて

 私は西洋巨匠達に匹敵するような、力量のある油絵を制作しようと思っている。オイルペインティングの硬質で粘着力のある体質をもって、重厚で透明なマチエールを創造したい、強烈で優麗な色彩感覚を実現したいと思っている。
 雪舟やセザンヌやブールデルのような、厳然とした形と、構築力のある作品をつくりたいと思っている。
 明治以降今日迄の日本の洋画家達の作品の実力は、とうてい西洋巨匠達の力量には及ばない。
 その理由は、日本人画家達が、若い時から生涯をかけて、実在に即した形の厳しい追求と、色彩の感覚の実現の努力を、充分に行わなかったからである。
 自然の実在を表現するための、根本的デッサンと、油絵の特質を生かした物質表現を、充分に行わなかったからである。その実力が身についていないのに、時間と忍耐を欠き、各自の様式をつくるのに性急だったからである。
 しかし明治生まれの画家たち(青木繁、坂本繁二郎、中村彝、関根正二、村山槐多、岸田劉生、小出楢重、安井曽太郎、梅原龍三郎、須田国太郎、林武、佐伯祐三、薄田芳彦、伊藤廉、岡鹿之助、佐竹徳…等)は真剣に写実に挑戦した。しかるに現在は、写実の熱誠は失われてしまっている。これは日本のみならず西欧並びに世界の各国においても同じようだ。世に出ずにかくれたところで仕事をしている、未知の大画家がいるのだろうか。
 現今では、ほとんどの画家が時流に迎合している。多種多様な新奇な様式づくりや皮相な技巧の描写を試みているが、いずれも大画家のパッションと、タンペラマンを欠いている。実在感=形態感覚と色彩感覚の実現ではない、安易な亜流の拵えものが氾濫している。
 古今の絵画の本道として、根本に厳然とあるものは、真のリアリズム[写実主義]である。実在感=形態感覚と色彩感覚の実現である。つまり存在の物質表現=精神表現である。
 西洋巨匠達の特質は、物質表現と精神の表現が両立していることである。自然の可視的なものの研究と、不可視的なものの研究が均衡を得ていることである。
 観念的、不可視的なものを表現するには、先ず、在るがまゝ、見えるがまゝの自然の全部を、そのまゝ描くことから始めねばならない。現存的な生きた自然から、精神や観念だけが遊離することは有り得ないことである。眼に見えるものを表現し得てこそ、目に見えない深遠なるものも表現し得るのである。超現実的なものは現実と相反するものではない。表裏一体の関係にある。
 リアリズム[写実主義]の欠如、つまり物質表現=精神表現の不十分さが日本人油絵の弱さである。これは他の素材を用いた表現−日本画絵の具、テンペラ、アクリルなど−においても同様にいえることである。

次号へ続く。

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