となりの人間国宝さん
関テレの朝の番組の"よ~いドン!"の"となりの人間国宝さん"というコーナーがあります。人間模様が垣間見えたりするので、結構好きなんです。ざっくり言えば、円広志さんがある駅の界隈をぶらぶら歩きながら、ユニークな人や何かで成功を収めた人を探していくというコーナーです。たまに、ニュースに出てくるような大企業ではないが、ニッチな分野で活躍したり成功したりする人が出てきたりと結構面白い。
私、家にテレビがないので普段は見れないんですが、先日見る機会がありまして、久しぶりに見てもやっぱり面白いなと。その日紹介されていたのが、石焼き芋の移動販売のノウハウを売って成功をされている人でした。その中で印象的なエピソードが次のようなものです。移動販売は原価率がよく、月収にして100万越えも可能であると。しかし、移動販売車に必要なツールを買い、ノウハウを学んで、移動販売を始めた人の中で残るのは5人中1人だという。円さんが”成功するために必要な条件"を聞いたところ、"考えられるかどうか"だということでした。手法を知ったところでそれを使うのは人であり、そこで差が出てくると。
結局、やっぱり"人間力"なんだなと。ICTが発達し、AIが人間の思考の補助(代替)をするようになってきて、政界のお偉いさんや堀江貴文さんはパソコンをフル活用し、AIなどの有効活用方法を教えていった方が当たり前にいいでしょうと発言をしていたりする。しかし、私はそれは違うと思います。それをやって有効的なのは、そもそも東大とかに行けるような頭をすでに持っている特別な人たちです。発言されている人たちも大体、そういう高学歴の方たちではないでしょうか。手法を知ったらどうにかできるのは、どうにかできるだけのものをすでに持っている人たちです。持っていない人たちはそこがスタートではありません。教育の本質は、"考えること"だと思う。考えることを習慣化し、実践し、新案や修正案をまた考える。そうすることで考えられる人間になり、手法を教わったときに生かせる人間になるのではないでしょうか。
教育の現場では子供たちの能力の低下が著しく目立つようになってきました。数年前までは高校数学厳しいなと思っていましたが、2年前ぐらいから中3数学厳しいなと。そして、今は中学数学厳しいなと感じるようになってきました。ちょっと式が複雑になると"0×4=4"ってなことを5教科合計で400点近くとる子が普通にやったりする。かなりまずい状況になってきました。
大人の方たちにわかっていただきたいのは、"我々が育った環境と違う"ということ。便利になりすぎました。人は不便だから考え、ものを発明してきました。エジソンや歴史的偉人達はそうやってきたのです。考えるには"不便・不都合・不具合"など"不"という言葉が大事なのです。子供たちを"自分で考えて打開できる人"に育てたければ、ライオンがわが子を千尋の谷に突き落とすがごとく、"不"がつく状況をうまく作り出してあげることが大切です。そう考えると、大人にも"考える"ことが要求されるのですが…
夢塾
子供のための個別対応型集団塾
教育とは
教育とは何でしょうか。”教育とは個人の人格を完成させ、社会の形成者として必要な資質を育むために、知識や技術などを教え育てる営み”と定義されていたりします。私の考える教育とは、”社会に出て自分らしく生きるための思考力を育てること”だと思っています。そのために、”勉強”という”道具”を使用していると考えています。勉強をする利点は、努力をすれば誰でもある程度はできるようになり、また、テストなどで点数化することで成長度合いが分かりやすいということだと思っています。ただ、この勉強を教えるということが中々難しい時代になってきたなと感じています。
令和の時代の子供と親御さんの特徴は、”意思を尊重する”というところかなと思っています。塾を選ぶにしても「この子が入りたいというので…」だったり、「やりたがらないので…」だったりと子供の意思を尊重しようとします。そして、そうやって育てられた子供たちは教えたことよりも「僕はこのやり方でやった方がいいと思うので…」と自分のやり方を先に試そうとし、教えたことを素直にやろうとしないことが多い。どんなときも自分の意思を尊重されるので、勉強でもそれを通そうとして素直に言うことを聞かないことが本当に増えてきたように感じます。しかし、考えてみてください。子供たちが正しい判断をできるだけの思考力をそもそも備えているのであれば、教育はあまり必要ないのではないでしょうか。教育とは、”正解”か”不正解”かを重視するのではなく、その思考をする過程を磨くものではないでしょうか。大学受験のテーマも”思考力”・”判断力”・”表現力”となっています。それを身に付けるために教育というものがあるのではないでしょうか。
人間は元来、易きに流されるものであると思っています。それは私にしても変わりはないのかなと。しんどいこと、きついことは嫌だ、というのは当たり前なのかなと。勉強でも同じです。簡単な計算問題や短い設問の問題はやろうとするのに、少しでも複雑そうなら”分からない”という言葉で思考すらしようとしない。だから、表面的なことはわかっても、深く理解をするということが中々できない。ちゃんと読んで考えれば解けるにも関わらず…。そして、それをちゃんとさせようとすると”意思を尊重する”という名のもと入塾しなかったり、退塾したりする。子供の顔色を窺ってやりたいことだけをやらせるのがうまいのが教育機関の生き残る道であるかのようだ。そして、そういう深く考えることを苦にしない性格を生来兼ね備えている子だけがより良いものを獲得し、しっかりと成長していく世の中になっていくようです。だからこそ、今一度”教育”とは何かを考えていかなければならないのではないでしょうか。
昭和と令和
私は最近、親の果たす役割って重要だなと思うとともにその重要性が増してきたなと思うようになりました。
以前も書いたと思いますが、我々が中学生だった30年ほど前は、変な話、中学3年生になってから塾に通って公立高校受験という流れは特におかしいことでもなんでもありませんでした。それは、今と違って日々の生活の中で思考をするということが多かったので、”思考ができる”という勉強をする上で前提となる条件をクリアしている子が多かったからだと思っています。学校が終われば近所の子たちと公園へ行って今日は何しようかと”考え”、家に帰ってご飯を食べた後は野球中継を見る父親の姿を横目に何をしようかと”考える”。今と違ってテレビは1家に1台で、ゲームをするにはお父さんの野球中継が邪魔。ほなどうしようかと”考える”。女の子の家に電話するときは相手のお父さんが電話に出たらどうしようかと”考える”。日々の生活の中に”考える”が溢れていたため、”考える”ことが自然と身に付いていきました。しかし、今の子たちはその過程を経ることができない。便利過ぎるからである。遊びを考えなくても動画やゲームをすれば時間は潰れるし、どこでも誰に気兼ねすることなくテレビなどの映像も見ることができるし、相手と直接つながるスマホがあるので余計なことを考える必要もない。技術の進歩によって、人が思考をしながら成長をする過程というものがすっ飛ばされるようになってしまったのです。だからこそ、親の果たす役割が重要になってくる。
昭和の時代は、親がどうこうしなくても”考える”が日常に溢れていたので、極端に言えば、親が仕掛けなくても思考力がつく環境が日常にあった。だから、親の学歴と子供の学歴に相関関係がないパターンも多々ある。実際に、私の両親は二人とも大学を出ているわけではありません。それでも、私・姉・弟の3人はちゃんとした大学を出ることができています。しかし、令和となった今の時代では話が違ってきます。親が、子供が”考える”ように仕掛けていかないと、”考える子”は育ちにくくなってきているのです。そして、それが直接的にしろ、間接的にしろ、勉強ができる・できないにつながってくるのです。
私たちが当たり前のようにやっている”考える”ということは、訓練によって身に付くものである。”考える”ということには、”深さ”・”速さ”・”広さ”という3つの主要素があり、それらを鍛えていかないといけない。それには、子供たちが一番初めに所属する家庭という組織が、”考える”子を育てることを意識したものでないと身に付かないような時代になってきました。昭和の時代は、子供はほっといても育つ時代でした。令和の時代は、子供はほっといても大きくなるが育ちはしない時代になってます。だから、幼稚な大人が増えてきているのかもしれません。”考える”が少しでも増えていくような子供との関わり方を、親の方がしっかりと考えないと子供の人生が良いものにはならない。そういう考え方を少し持っていただければと思います。
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