07/10/2021
【坤為地の用六に教わる大地の在り方】
周易の始まりの二卦、天地創造を表す「乾為天(けんいてん) 」と「坤為地(こんいち)」。
この二卦にだけ、六爻の爻辞の後に、七番目の言葉、「用九(ようきゅう)」と「用六(ようりく)」が飾られています。
用九・・陽(九)の力の用(もち)い方
用六・・陰(六)の力の用い方
すべての卦は、天を司る純陽の「乾」、地を司る純陰の「坤」、この二卦の六爻の感応から生まれたものであるから、残り六十二卦の陽爻陰爻の読み解きに、この用九と用六の意味を用いて考えなさいと、易経は伝えているのです。
坤為地 用六
「永く貞なるに利(よ)ろし。象に曰く、用六の永貞は、以(もっ)て終わりを大にするなり。」
「永貞」とは、いつまでも安定して惑わないこと。
「終わりを大にする(大終)」とは、最後を偉大に全うすること。
陽の力の発揮、つまり「動く」ためには、大地という土台が必要です。
人は歩くときに大地を蹴って動き、車は大地を土台にして車輪を回します。
「陰」の力の下支えが無ければ、「陽」はその力を発揮し得ないのです。
十翼「文言伝」には、「貞は事の幹(かん)たり」という言葉が見え、「貞」の意味を「幹(みき)」=「揺るがない軸」と捉えていることがわかります。
「在り方」が整っていなければ、その人は、思考や動きに軸がなく、時流にいつも右往左往と翻弄されてしまうでしょう。
そして、「在り方」の「在」の字に、大地を表す「土」が見えます。
「存在」「顕在」「現在」というように、大地という土台がなければ、そもそも「あらわれ」はないのだということが、その字義を見てもわかります。
立ち上がった卦の陰爻の持つ意味に、在り方と軸を考えてみる。
そうすれば、自ずと、今自分がどう振る舞うべきかがわかります。
「坤為地」六五
「黄裳、元吉。象に曰く、黄裳元吉とは、文、中に在るなり。」
「黄裳」・・黄色は大地の色、裳は下部に着る衣服のことで、大地の徳を立派に備えた君子の比喩。
「元吉」・・大いに素晴らしいこと。
「文」・・模様が整っている様から、温和で品格があることの比喩。
「中に在る」・・在り方にブレがないこと。
"終わりを大にするために、今は自らを振り返り、その「在り方」を整えよ。"
「用六」は、常に「どうするか?」ではなく、「どうあるか?」と、自らに問うことを教えるのです。
「どうするか」は、「どうあるか」の土台の上にあって初めて、その意味を為すのですから。
それが、坤為地の用六が僕に教えてくれた、陰爻(六)に中った時の、「力の用い方」なのです。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
07/12/2020
【「創造者の意図」を読む】
自然界が見せる繊細な表情を、「陰」「陽」というたった二つの記号の組み合わせだけで表現して見せる易。
「視聴味嗅触」の五感では感じられない情報を、形而上である観念の領域で、易はその全てを再現する。
ここに、セカイのあらゆる変化の理(ことわり)は、たった64通りの陰陽の記号の組み合わせの中に、封じ込められた。
人が人に語りかけるように、山も、谷も、川も、風も、太陽も、月も、惑星も、星々も、観念の世界で、私たちにメッセージを送り続けてくれている。
この巨大なる自然界の沈黙=「創造者の"意図"」は、そこにこそ、隠されている。
本筮法の儀式にある、奇数と偶数の螺旋の所作は、そこにアクセスするためのcodeだ。
天の律動と地の脈動、その二重螺旋の合奏が、我ら「人」。
『易経繋辞伝』
「天一地ニ、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十。」
人は、ヒト(1、10)。
だから、我々の神経はいつも律動(13579)し、身体はそれに合わせて脈動(246810)しているのだ。
観念→律動→脈動。
律動の周波数のシンクロが、「縁」となる。
・・これが、「変化の理」。
自然界はこうして、いつも沈黙の中で、雄弁に語る。
その静かなる声に気づいたとき。
この世界に偶然など存在しないということが、きっと、わかることだろう。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
05/05/2020
今日は5月5日端午の節句。
「チマキ」と「茅」について考察したいと思う。
四書五経の一冊「礼記(らいき)・月令仲夏紀」には、以下の記述がある。
(仲夏・・夏三か月の中の月。陰暦で五月のこと。)
「この月や日の長きこと至(きわ)まり、陰陽争い、死生分る。君子斎戒(さいかい)し、処(お)るに必ず身を掩(かく)して躁(さわ)ぐことなかれ。」
※斎戒・・沐浴して心身を清めること。
陰暦の五月は、現代の暦に置き換えると、ちょうど梅雨の時期にあたる。
蒸し暑く不快感が増し、衛生状態も悪くなりやすい。
当然、体調も崩しやすくなり、病気にかかりやすくなる。
「陰陽争い、死生分る」の言葉通り、春と夏の転換点であるこの時期は、昔から、感染症になりやすい時期であった。
医療技術が進んでいない古代では、当然、体調管理を怠れば、生死にも関わる時節だっただろう。
古代中国の道家思想には、病気は悪い鬼が持ってくるという信仰があり、この悪鬼を撃退するために「茅・カヤ」という植物が使われた歴史がある。
ウイルスや細菌なんて知らなかった時代には、人々が次々と同じ病で倒れていく現象を、神の祟りや鬼の仕業と考えたことは、至極納得できる話だ。
だから、この時期に、薬効がある菖蒲を浸したお湯に入ったり、皆で粽(チマキ)を食べたりした。
粽は、古くは「茅巻」と書かれた。
元々は、茅(カヤ、チガヤ)の葉で包んで食べていたからである。
茅はいね科の植物チガヤ・ススキなどの総称で、特に日本では、屋根の材料として使われていたから、知っている方も多いと思う。
茅は撥水性を持ち、高温多湿下でもよく腐食に耐え、地下茎を這はせネットワークし、粗悪な環境下でも容易に枯れず、かつ、極めて繁殖力が強い。(「麻」に性質が酷似する。)
「茅」の字義も、草冠に矛(ほこ)。
タタラで鋳造される矛は、魔を裂く神聖な神宝でもあった。
易経の「地天泰」や「天地否」、「沢風大過」などの爻辞にも、「茅」という字が登場する。
地天泰 初九→「茅を抜くに茹たり。」
沢風大過 初六→「藉くに白茅を用う。」など。
この茅という字は「チ」とも読む。
よく神社などで見られる茅の輪(チガヤのわ)、「ちのわ」とも呼ばれる祓いの風習は、この古代中国の呪術信仰が日本に入ってきて根付いたものなのだ。
だから、家のいちばん上を守る屋根に、この「茅」をあえて敷き詰めたのは、雨や雪を避けるという理由もさることながら、厄災除けの呪術としての意味合いが強い。
雨や雪を避けるだけならば、木や竹を敷き詰めた方が、ずっと簡単で安上がりだったはずである。
しかし、日本国は、つい約一年前の、天皇の代替わりに伴う重要な宮中祭祀「大嘗祭」で、天皇陛下が祭祀や潔斎をされる「悠紀殿」「主基殿」「廻立殿」の主要三殿の屋根を、こともあろうか、伝統の「茅葺(かやぶ)き」から、「板葺き」に変えてしまったのだ。
理由は、「工期短縮」と「経費削減」。
大きく報道もされたから、覚えている方も多いのではないだろうか。
日本は、世界の雛形ともいわれる国。
それが、本来行うべき神殿の神聖なる祓い「茅葺き」の伝統を、板葺きにするという愚行を行ってしまった。
最も重要な祭祀を行う神殿の屋根を、時短と経費削減という名目で、いわば、厄災除けの祓いの儀式を「手抜き」してしまったのである。
本当に、理由は「工期短縮」と「経費削減」だろうか。何か、大きな別の力が働いたのではないか。
そう勘繰りたくもなるような、政府の意味不明の決定である。
今の世界の疫病蔓延を、これと結びつけてしまうことは、あまりにも飛躍しすぎた論理であることは承知している。
しかし、「経済」「効率」の名の下に、蔑ろにされてきた、「政」と「祭」、同じく「まつりごと」の結果の集積が、ここに鏡として現れたとしたなら。
これから私たちがやるべきことも、見えてくるのではないだろうか。
今、日本中の祭りが中止にされ、大相撲の夏場所も不開催が決定した。
日本は、これから本当に大丈夫だろうか。
「まつりごと」を蔑ろにしてきた文明の末路、それは、皆の知るところである。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
05/01/2020
新年、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
十二支の始まりである子(ね)の年に入りました。
(東洋占術の世界では立春からとしますが)
いつもはどちらかというと嫌われ者のネズミさんも、
十二年に一回、なぜか人類にリスペクトされて・・、
一体何が起こったのかとびっくりしていることでしょうね。(笑)
易経の繋辞伝(けいじでん)などには、
「子曰く」という言葉がよく出てきます。
この「子」というのは子どもという意味ではなくて、
「聖人」とか「先生」という意味があるのです。
(主に男子に対する敬称です)
ですから、
例えば孔子さんは、
こうしさんではありません。(笑)
「孔」が名で、
続く「子」は敬称というわけですね。
つまり孔子さんは、
「孔先生」というような意味です。
立派な人を「君子」と呼んだりするのも、
孟子、荀子、老子、荘子、孫子、韓非子、墨子、
などの人物についている「子」も意味は同じです。
『漢書』律暦志によると、
「子」は「孳」(し:「ふえる」の意味)で、
新しい命が種子の中に萌し始める状態を表しているとされます。
そこから大元、始まり、根源などの意味を含む記号となったのです。
ですから、
「子」がつく漢字は、
「遺伝子」「胞子」「卵子」「精子」「子宮」など、
生命そのものや、その誕生に関わっている大切なものにも付いていることがわかりますね。
また、
「子」の字は、地球の北から南のラインを「子午線」というように、
空間情報における北を表す座標にもなっています。
北は天空で唯一動かない星「北極星」がある方角。
天にあるものは全て動くというルールの中にあって、
唯一動かない星である北極星は、
古代より尊崇の対象であり、
「北辰」「上帝」「天帝」などと呼ばれていました。
それが、北の座標である「子」の記号と結びつき、
「聖なるもの」を比喩する言葉になっていったのです。
古代より王宮などが北を背にして南向きに建てられたのも、
この北辰の力を背に受けるためだと言われています。
日本でも、
平城京、平安京も北を背にして南向きでしたし、
今の天皇のお住まいである皇居も、もとの江戸城も南向きです。
北の力を示す「子」の字。
色々調べていくと、
このように面白い発見がたくさんあります。
もちろん易経は漢文で書かれていますから、
「子」だけではなく、
経典に出てくる他の様々な漢字の成り立ちや意味を調べていくと、
色んな新しい気づきや学びが隠れているのですね。
※易経/陰陽五行 こやまとしのりのブログ
易経/陰陽五行 こやまとしのりのブログ
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24/09/2019
【乾為天の用九に未来の光をみる。】
易経の始まりのニ卦、父性を表す「乾為天・けんいてん 」と、母性を表す「坤為地・こんいち」。
そのニ卦にだけ、六つの爻辞(こうじ)の後に七番目の言葉、「用九」と「用六」が飾られています。
用は「もちいる」と読み、九は陽の力のこと、六は陰の力のことですから、
用九は陽の力の用い方、用六は陰の力の用い方を解いていることがわかります。
何故それが全陽の乾為天と全陰の坤為地にだけ書かれているかというと、
すべての卦は、この乾為天と坤為地の六爻の感応から生まれたものであるから、
残り六十二卦のすべての陽爻陰爻の読み解きに、この用九用六の意味を用いて考えなさいと易経は伝えているのです。
乾為天 用九
「群竜(ぐんりゅう)頭なきを見る。吉なり。」
用九 象伝
「用九は天徳首たるべからざるなり。」
群竜は、乾為天の六爻=六つの時の竜(六竜)が集まっている様。
頭なきは、その中で秀でた者がいないことを表しています。
つまり、乾為天の用九は、それぞれの竜の段階に対して、貴卑善悪などの差異をつけていないということです。
初爻潜竜のひそみ隠れた竜も、その時のシチュエーションの中では、最も時に当たった(時中)振る舞いをしていて、
五爻の飛竜も、その時のシチュエーションの中での、最も時に当たった時中の振る舞いをしている。
陽の性質は、精子の振る舞いであり、動き、競い、たたかい、卵子を目指して一斉に進んでいく様。
用六は、それを静かに待っている卵子。
最初に到達した精子を、卵子は柔らかく受けとめ、二気が感応し、新しい小宇宙=意識身体が、そこに芽生え宿る。
全ては、この乾坤の感応から始まる。
ゆえに、陽同士が集まると、とかく、競い合いやたたかいが起こりやすい。
それは確かに、プログラムされた陽の性(サガ)ではあるかもしれない。
しかし、だからこそ、乾為天は「大和を保合する」、「利貞」のもつ抽象度の高い思考によって、それをきちんと和合させなさいと説いているのです。
それこそが、「天徳」=真の父性の力である、と。
客観を持つ人間だけが、いや、天地から生まれた人間だからこそ、そのプログラムを、きっと、超えられる。
乾為天の竜は、「人類よ、三千年のサガを超えよ。」と、遥かなる宇宙から、エールを送り続けてくれているのではないか。
陽同士が権力闘争をし、傷つけ合う現代においてこそ、数千年もの悠久を超えた乾為天の「用九」の言葉の真意が、心に突き刺さってくるのです。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
06/06/2017
今日は六月六日、
六が重なる日。
今日は「六」について書いてみようと思います。
まずは易。
易の六十四卦は六爻でできています。
※爻(こう)・・陰陽の記号のこと。
三爻が重なって八卦(はっけ)、
八卦が上下組み合わさって六爻になり大成卦(たいせいか)となります。
易経始まりの大成卦「乾為天(けんいてん)」の彖辞(たんじ)にも、
「大いに終始を明らかにし、六位時に成る。時に六竜に乗り、以て天を御す。」
という言葉があります。
そして、
八卦に内包される人間の元型のパターンも、
乾坤から生まれた六人の子どもです。
<夫婦>
乾(天)・・父
坤(地)・・母
<三兄弟>
震(雷)・・長男
坎(水)・・次男
艮(山)・・三男
<三姉妹>
巽(風)・・長女
離(火)・・次女
兌(沢)・・三女
易経の十翼「繋辞上伝」には、
この「六」に対する定義をしている一文があります。
「易の書たるや、広大にして悉(ことごと)く備わる。
天道あり、人道あり、地道あり。
三才を兼ねてこれを両(ふた)つにす。故に六なり。
六とは它(た)にあらず。三才の道なり。」
つまり八卦の三爻は、
天地人(宇宙、地球、人間)を表すものであり、
それを二つ合わせて作った六爻も、
二爻づつ束ねて天地人を作っているという意味です。
三爻の八卦だろうと、
六爻の大成卦だろうと、
結局「天地人」の三才から一歩も出ていないということですね。
太古の人々が、
「三」と「六」を共通する概念としてみていたことがわかります。
日本語の数字の読みも、
一二三四五六七八九十
ヒフミヨイムナヤコト
一(ヒ)=ハ行
二(フ)=ハ行
三(ミ)=マ行
六(ム)=マ行
四(ヨ)=ヤ行
八(ヤ)=ヤ行
五(イツ)=タ行
十(トオ)=タ行
七(ナ)=ナ行
九(コ)=カ行
日本語の音も、
三(ミ)と六(ム)を同じマ行(m音)で統合しているのがわかります。
七と九はペアがいなくて孤独ですね・・。笑
これは両手の指で数を数える時に、
一〜五は片手で数えますが、
六以上になって両手の指を使うときに、
シンメトリーに左右の指を折れないのが、
「七」と「九」なのです。
五行大義(ごぎょうたいぎ)でも六は
一・・太極
二・・天地
三・・天地人
と定義していて、
太極→天地→天地人 = 一+二+三 = 六
と説明する一文もあります。
※五行大義・・隋の蕭吉が編集した五行説の集大成を収めた書物
また、荘子も、
「六」は六面体に通じ、
四方(東西南北)と上下を表すものとして、
この宇宙を天地四方の「六極」と称し、
「六極の外に出でて無何有の郷に遊ぶ」
(宇宙の外に出てものひとつない無の郷に遊ぶ)
と書いています。
つまり、
「六」は「三」から発展した、
二度目の世界観の完成数という位置付けなのですね。
6は数学の世界でも「完全数」と呼ばれる数字。
6を素因数分解すると、
1、2、3、6
因数を全部足すと
1+2+3=6
因数分解した数がその数自身と同じになる、
初めての数が6なのです。
6の次の完全数は
28、496、8128、33550336、8589869056、137438691328、2305843008139952128・・
と続きます。
6以外の完全数は、
例えば
28は2と8が合わさった数字と見ることができ、
それらを一桁になるまでひたすら足していくと、
2+8=10
1+0=1
となります。
496も
4+9+6=19
1+9=10
1+0=1
8128
8+1+2+8=19
1+9=10
1+0=1
というように、
6以外の完全数は、
一桁になるまでひたすら数字を足していくと、
必ず1になってしまいます。
つまり、
6だけが6だけを維持する、
完全数の中でも格別に際立った存在なのです。
雪も正六角形になるように、
太古の人々は、
この神秘の結晶数「6」という美しい数理に、
魅せられていたのですね。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
05/03/2017
《二十四節気の啓蟄「雷天大壮」》
二十四節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」に入りました。
土の中で厳しい冬を越した生き物たちが、
蠢きながら外に出てくる。
そんな姿を形容し、
この言葉が生まれたそうです。
易経の十二消息卦(じゅうにしょうそくか)
※一年の陰陽の流れを十二個の卦のかたちで教えてくれるもの
では、
内卦(下にある卦)が乾(天)、
外卦(上にある卦)が震(雷)で、
雷天大壮(らいてんたいそう)を象徴します。
せり上がる陽の力が陰を飲み込み、
ここに来て初めて、
陽の力が陰の力を上回りました。
剛健なる乾(天)の力と、
龍のごとき震(雷)の力が、
天で睦み遊ぶ。
春の嵐、とでもいいましょうか、
凄まじい壮大なる力をあらわす卦です。
まだ桜も咲き揃わないこの時節に、
現象の裏側では、
陽の力が陰を凌駕し、
凄まじい勢いで覆い尽くそうとしているのです。
このエネルギーが形而下に降りた時、
地上では陽気漲る夏の季節の到来ということになります。
このように易は、
まだ形には表れていない、
見えない陰陽の動きから、
この森羅万象のすべての変化の法則を教えてくれるものです。
また、
この雷天大壮は、
八卦の兌(だ)=「沢」の卦を縦に引き伸ばした形をしていますね。
つまり雷天大壮は、
大きな「兌」の卦を表しているのです。
このような卦は乾(天)、坤(地)を除く六卦あります。
雷天大壮(らいてんたいそう)→兌(沢)
風沢中孚(ふうたくちゅうふ)→離(火)
地沢臨(ちたくりん) →震(雷)
天山遯(てんざんとん) →巽(風)
雷山小過(らいざんしょうか)→坎(水)
風地観(ふうちかん) →艮(山)
これら六卦は、
対応する八卦の象意と、
ほとんど同じ意味を持っています。
例)
震(雷)は「動く」
地沢臨も臨界に達して勢いよく動き出す卦です。
このように八卦と同じ卦象をもつ卦のことを
「詮卦(せんか)」あるいは「全卦」と呼んだりします。
全卦「雷天大壮」=兌(沢)ですが、
兌は「少女」という元型(アーキタイプ)をもち、
天真爛漫さ、悦楽、流動、刃物などの象意があります。
壮んなる力は大いに結構なのですが、
行きすぎるきらいがあるのが、
この雷天大壮の卦の特徴です。
雷天大壮「象伝」
象に曰く、雷、天上に在るは大壮。
君子もって礼に非(あら)ざれば履(ふ)まず。
訳)
古の君子はこの雷天大壮の卦象をみて、
どんなに勢いがさかんであろうとも、
礼に合致しないことは決して行わなかった。
つまり雷天大壮という卦は、
悦に走りすぎて暴走することの危険を説くのです。
五行でも、
春先はとかく、
情緒が不安定になりやすい時節といわれます。
変態さんが出るのも春先が多いですね。(笑)
また、
会社の新年会や学生の新歓飲み会、お花見など、
ついつい飲み過ぎてストッパーが外れ、
暴走してしまう機会も多くなることでしょう。
古の名君たちも、
春に羽目を外しすぎて、
痛い思いをたくさんしてきたのかもしれませんね。(笑)
そんな思いが、
戒めとして、
この雷天大壮の卦に書かれている。
ただの道徳論ではない、
今でもイタタタ、、とつい言葉が出てしまうような(笑)、
なんとも言えない人間ドラマが描かれているのも、
この易経という書物の奥行きであり、面白さなのです。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
03/03/2017
《三が重なる日。》
今日は三月三日。
三が重なる日。
桃の節句とも言いますね。
桃という漢字は、
木に「兆(きざ)す」。
なんとも、
易経好きには意味深い節句でもあります 。(笑)
そんな今日は、
三をテーマにして書いてみたいと思います。
易経における「天地人」の数である「三」。
三という漢字の成り立ちについては
東洋最古の字書である許慎の「説文解字」に、
「三。天、地、人の道なり。」
と定義がされています。
一は太極(太一)。
二は天地。
三は天地の間に生まれた人を表します。
「天地人」というのは、
大宇宙(天)と、
大自然(地)と、
私(意識)の関係、
という意味です。
易の八卦が三本の爻で構成されているのも、
上記と全く同じ意味合いです。
三をこのように非常に重要な数と捉える考え方は、
古代中国だけではなく、
世界中でも共通する概念をみることができます。
例えば私たちの国、日本。
古事記には、天地開闢の時に、
高天原にはじめて登場する神として、
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、
高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、
神産巣日神(カミムスビノカミ)、
上記の三神(造化三神)が記されています。
そして、
日本の初代天皇である神武天皇は「三種の神器」を持って旅に出て、
それを道案内したのが「三本足」の鳥ヤタガラス。
つまり、
こと日本においても、
三という概念は、
一つの世界観の最初の完成数を意味すると言ってよいでしょう。
もともと「一」は絶対的な数であり、
万物の根源数と考えられてきました。
それに対する「二」は「一」に対して対立する世界であり、
それを超越した世界観である「三」は、
統一をしなおした新しい"一"の完成を意味しているのです。
つまり「三」は、
「第二の宇宙の創造数」なのですね。
固定された静止世界ではなく、
タオの動きから生まれた最初の完成。
二つの対立を超越してできあがった完全調和であり、
それが「三」という聖数の概念を生み出したのです。
老子も、
「道(タオ)は一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生じた」
という言葉を残していますし、
キリスト教の世界で言われる「三位一体」や、
ギリシャ神話に出てくる運命の三神「クロト」「アトロポス」「ラケシス」、
北欧神話の過去、現在、未来を司る「スクルドの三女神」、
などなど、
聖数「三」にまつわる伝説は、
世界中に刻印された、
それぞれの世界観での「最初の完成数」であると言っても、
決して過言ではないことでしょう。
そして、
易経の卦辞や爻辞にも、
「三」という数字が頻繁に出てきます。
易経で使われる「三」には、
本当に「二」の次の数字の意味での「三」と取る場合もありますが、
前述の通り、
「統一」「ひとまとまり」という意味で用いる場合や、
「多数」「何度も」という意味でも三を用いる場合があるのです。
天水訟(てんすいしょう)の爻辞(こうじ)に出てくる
「終朝に三たびこれを奪わる」
地水師(ちすいし)の爻辞
「王三たび命を賜う」
なども、
「三」を「二」の次の数字という意味ではなく、
「何度も」という意味で使っていると理解して読んでいくと、
意味が繋がってくる場合が多いのです。
中国で生まれた漢字でも、
木を三つで「森」(おびただしい木が集まった群という意味)
車が三つで「轟」(多数の戦車の動く音を表す)
力が三つで「協」(大人数の力を合わせること)
という風に、
同じ字を三つ組み合わせて新しい字を作っていますね。
三で多を表そうとした、
先人たちの意図が見て取れます。
古くからあることわざにも、
「石の上にも三年」
「三人寄れば文殊の知恵」
「三度目の正直」
など、
三でひとつのまとまりとする比喩がありますし、
易経の「火風鼎(かふうてい)」の卦に出てくる「鼎(かなえ)」も、
権威を象徴する三本足の祭祀道具であり、
「政権の盤石」「王権の安定」という意味を内包するものです。
このように、
数字に込められた複数の意味を理解していないと、
古典は理解を誤ってしまうことがあります。
数字に隠されている隠喩(メタファー)、
一文字で複数の意味を内包する漢字という文字の特性、
この奥ゆかしさが、
「易経は難解だ」といわれる、
一つの所以にもなっているのです。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
18/02/2017
《問いと答えは同時に生まれる》
易は、
問いを持った瞬間、すでに答えが出ている
と説きます。
これを考えていくと、
ひとつの仮説を立てることができます。
私たちの意識は、
原因から今の結果や未来を考えます。
これを因果律といいます。
私たちはこの思考法に慣れています。
信じている、といったほうがよいかも知れません。
しかし、
宇宙はひょっとしたら、
結果(宇宙の終わり) から逆算して始まりを作った可能性があります。
宇宙の終わりが初めに規定された。
だから、
ゴールから始まりを作ったことを認識するための反転した自我、
経験した過去しか知り得ない我々の意識なる「心」 を作ったのかも知れないのです。
それは人が自分の顔を見てみたいと鏡を作ったことに似ています。
我々が宇宙から生まれたとすれば、
実存は宇宙全体の方であり、
私たちは鏡の側(非実存)と仮定すると、
それが紐解けるのです。
つまり、
問いを持った瞬間すでに答えが出ているのは、
問い(始まり)が先、ではなく、
ひょっとしたら、
答え(ゴール)が先、
の可能性があるということです。
例えばスプーン曲げ。
スプーンは念力によって曲がるのではない。
心の制限を外して曲がるのでもない。
その思考法は因果律を一歩も抜け出ていない。
スプーンがもともと曲がるという結果があったから、
曲がれという念を、その縁を結果から遡って「持たされた」 のかも知れないのです。
また、
道端でお金を拾ったとする。
あなたがお金を見つけたのではなく、
お金が落ちている結果があるから、
その道を通って落ちているお金を見るという縁を、
宇宙の始まりから遡って「持たされた」可能性があるということなのです。
そう考えると、
パズルのピースがピッタリ当てはまるように、
易の共時性の概念が最も美しく説明がつきます。
易は未来を予知しているのではない。
それは意識の側が理解しようとそう認知しているに過ぎない。
共時性とは、
未来から過去への流れと、
過去から未来への流れの折衝が起こす、
いわば問いと応えの衝突事故なのです。
つまり「問い」とは、
時空の側(主体)に意識を移すための「鍵」であり、
「答え」とは、
我々(客体)に投影された宇宙全体の意思の「結果」である。
問いは、全体に開くこと。「乾」。
答えは、全体から自分という一座標(点)への帰納。「坤」。
そしてこの問いと答え(乾坤)は「同時に」生まれたのです。
それは、
あたかも、
鏡と私が、
「同時に」、
笑うように。
占いや未来予知や超能力の本質は、
きっとこの辺りにあるのではないかと、
わたしは思っているのです。
※易経/陰陽五行 こやまとしのりのブログ
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
23/12/2016
《天皇誕生日に離為火を思う》
今日(12月23日)は天皇誕生日。
実は今の天皇陛下(今上天皇)の幼名「継宮明仁(つぐのみやあきひと)」は、
易経30番目の卦、
火と火が重なる「離為火(りいか)」の象伝からお名前が取られたものです。
「象に曰く、明両(ふたた)び作(おこ)るは離。
大人(たいじん)もって明を継ぎ四方を照らす。」
沈んだ太陽が、また再び昇って来る。これが離為火の卦象である。
聖王は絶えずその大いなる徳を継承し、その明智によってあまねく四方を照らした。
この「明」と「継」の字から、
「継宮明仁」と昭和天皇が名付けられたのです。
※昭和8年、宮内庁発表
水の卦「坎(かん)」は、
外が陰で、内が陽。
五行で水は「智」。
内側に向かう智、つまり坎卦はインプットを表します。
火の卦「離(り)」は、
外が陽で、内が陰。
インプットしているものを外へと出す、
つまりアウトプットを表す形。
水の卦が「智」なら、
火の卦は「明智」。
内を虚心(陰)として我欲を捨て、
外にその智を明らかにする、
それを「明智」として、
易経では説明しています。
明けない夜はない。
太陽は今日も必ず登ってくる。
どんな闇も照らし出し、
四方隅々まで光を届け、
常に謙虚な姿勢(柔中)で、
その輝く明智(離)をもって天下を治めた。
あの天皇陛下の穏やかな笑顔の裏には、
離卦とのこのような名前のストーリーが、
秘められているのですね。
天皇家と易経のみならず、
日本という国と易経は、
実はかくも深く繋がっているのです。
そしてこれが上経最後の卦というのもなんとも趣深い。
そんなことを思った、
12月23日、年末天皇誕生日の夜なのでした。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
20/10/2016
《易の「占機(せんき)」》
梅花心易(ばいかしんえき)には、
「占機(せんき)」という概念があります。
※梅花心易とは
筮竹(ぜいちく)やコインなどのツールを使わず、
目に見えるもの、 聞こえるものなど、
自然現象の中から卦を立てるという
"瞬間を切り取る"非常にダイナミックな易。
占機とは、
「問いを持った瞬間に現れる外側の事象」、
つまり、
問いに対応する情報を含む機微のことです。
「この世に占機とならないものは何一つない 」と、
宋時代の伝説の易者邵康節(しょうこうせつ)は言います。
つまり、
飛んでくる鳥も、
すれ違う人が発する言葉も、
目の前にはらはらと落ちる銀杏の葉でさえ、
"宇宙の始まりから終わりまでの情報をすべて内包している"ということです。
漢字の成り立ちを記す東洋最古の字書「説文解字」では
「機」という字について、
「主発謂之機」
発するを主(つかさど)るを機と謂(い)う
と説明しています。
発するを主る、
つまり、
発動したか、否か、が「機」なのです。
もっとわかりやすく例えると、
スイッチのON、OFFと言う意味です。
あなたはそこに発動したのか?
Yesなら、それは「情報」なのです。
問いを持った瞬間、
ウグイスが4回鳴いた。
そこに気持ちが呼応した(発動した)。
そのウグイスの声は、
ただのウグイスの声であるが、
実は問いに対する応えの情報を持っているのです。
すれ違う人が着ているTシャツに書かれている文字や数字だって、
そこに発動したのなら、
それは紛れもなく「占機」なのです。
これは視点を変えれば、
あなた自身も、
誰かの問いに対する「占機」になっているということです。
これはとても重要なことです。
情報にはデジタル(有り、無し)とアナログがあります。
デジタルは客観であり、
アナログは主観です。
問いを放ち、
何かを占機ととらえた時、
あなたという「場」は
デジタルによって発動し(「有り」となり)、
アナログ的な主観によってそれを知るのです。
問いと応えは常にワンセットであり、
あなたが誰かの占機となった瞬間、
あなたはその場の情報を"同時に"受け取ることになるのです。
自分が誰かの占機になっていることを自覚し始めた時、
心は外に開かれていきます。
「運」とは、
こうやって"発動"するのです。
背筋を伸ばして、
リラックスして、
外に出かけましょう。
鳥の声が聞こえますか?
風の音が聞こえますか?
そのとき、
あなたは、
誰かの美しい"占機"になっています。
「運が良い」とは、
そういうことです。
あなた以外の全部が、
あなた、
という情報なのですから。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/
19/09/2016
《卜術としての易。》
人は生きていく上で、
様々な困難や理不尽さを体験することがあります。
それは自分にも原因の一端がある人間関係の軋轢のようなものばかりではなく、
自然界の猛威(地震、津波、火山の噴火など)によって、
幸せだった生活が理不尽に不条理に一瞬にして奪い去られることだってあるのです。
太古に生きた人々も、
この一寸先は闇の人生において、
そこに光を灯すことで、
生きるための指針が欲しいと願った。
そんな願いや祈りの中で、
古代から現代においてまで、
おびただしい数の占いが生まれては消えていきました。
占いは非科学的で怪しい・・という風潮も現代には確かにありますが、
人がそれを求めたから、
知りたいと願ったから、
止むに止まれぬ思いの迸りがあったからこそ、
それは生み出されてきたのです。
そんな中で、
数千年の時を経て、
余計なものが削ぎ落とされ、研ぎ澄まされ、
古の天才たちの手によって、
まさに命をかけた編纂の歴史の中で生き残ってきた占いには、
一つの真理が隠れているのだと、私は思います。
仰いでもって天空を見上げ、
その厳然たる不変の理に感嘆の声をあげ、
伏してもって大地を見下ろし、
その完璧なる循環の理にため息をつき、
我(人)を見て意識の世界を、その法則を、見出し解き明かそうとした。
決して人智が及びようもない、
宇宙という巨大な沈黙の場への畏怖と憧れ。
天地人への壮大な問いの中で生まれた、
この宇宙を解き明かすための手段として生まれた、
世界中の占術。学問。
人類がこうして手段として生み出していった占術には、
大まかに分けて、
主に三つの種類があります。
それが、
命術(めいじゅつ)、相術(そうじゅつ)、卜術(ぼくじゅつ)です。
甚だ簡単で恐縮ではありますが、
各占術の特徴を以下にまとめました。
《命術》
※種類
四柱推命、算命学、九星気学、紫微斗数、占星術など
※特徴
生年月日から計算する。揺るがないスタート(誕生日)から未来を考察する。
計算式は決まっており、出た命式は変わることがない。(生年月日が一生変わらない為。)
自分の先天的な性質を知ることや、バイオリズム等を方程式化することに長ける。
《相術》
※種類
手相、足相、顔相、骨相など
※特徴
出来上がった「形相」から観察し考察する。
すでに形となって出来上がっている相を読むので、
主にゴール(結果)から道程を考察することに長ける。
結果(相)を変えることで原因を変える。
大まかに決まっているが、命術よりは人が抗える。
(生年月日は変えられないが、手相は自分で書いたり、化粧で顔相を変えるなどができる。)
《卜術》
※種類
易、タロット、御神籤など
※特徴
人生で出会うその瞬間瞬間の事象を予測し、先読みする。
命術が過去から未来へのベクトル、相術が結果から原因へのベクトルとすると、
卜術は「今」の機微にアプローチし、占断を下す。
命術のように再現性はなく、人によって精度が揺らぐ。
命術が合理を知るなら、卜術は計算では割り切れない非合理を知ることに長ける。
また、
上記の範疇に入らない占いとしては、
水晶玉占い、夢占いなどが挙げられると思います。
現代のテクノロジーを駆使しても、
地震の正確な予知はできないし、
火山がいつ爆発するかも解らないし、
共時性を方程式化することもできない。
宇宙を全て解き明かしたなら、
この宇宙は終わってしまうのかもしれない。
だとしたら、
計り知れないこの深遠なる時空を解き明かしたいという"好奇心"がある限り、
きっと、
人のこの愛おしき崇高なる営みは、
未来永劫に続いていくのだと私は思います。
※ブログより転載
http://blog.livedoor.jp/k_toshi444/