やまなかヴァイオリン教室

やまなかヴァイオリン教室 やまなかヴァイオリン教室は、個人レッスンです。幼児から
大人までヴァイオリンに興味がある方なら是非どうぞ!
レッスン見学、無料体験レッスン、弦楽合奏の練習も1回/月定期的に行なっています

24/08/2026

サンソン・フランソワ(1924-1970 仏)はフランスの代表的なピアニストでした 10歳の頃フランスを代表するピアニストのアルフレッド・コルトー(1877-1962 スイス)に才能を見いだされ、12歳でパリのエコールノルマル音楽院に入学、14歳でパリ音楽院に入学しフランスのピアニストで優れた教育者でもあったマルグリット・ロン(1874-1966 仏)の最後の生徒の一人となりました 好んだ曲は徹底的に練習するものの好まない曲は全く練習しないという奔放な性格でマルグリッド・ロンもかなり手を焼いたようですが、パリ音楽院を首席で卒業し19歳の時に第一回ロン=ティボー国際コンクールで優勝して世界的なピアニストとして活躍するようになりました しかしお酒とたばこが大好きでやめられず体を壊し心臓発作のため46歳で生涯を閉じました

16/08/2026

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲 クラリネット協奏曲 イ長調K.622:モーツァルト(1756-1791 墺)の友人でウィーンの宮廷楽団の一員としてクラリネットを演奏していたアントン・シュタードラー(1753-1812 墺) はクラリネット奏者、バセットホルン奏者です シュタードラー は低音の魅力に惹かれ従来のクラリネットよりも低い音域を吹ける楽器としてバセットクラリネットを開発しました そしてバセットクラリネットで演奏できる作品を友人のモーツァルトに依頼し作曲した作品が「クラリネット協奏曲 イ長調 K,622」と「クラリネット五重奏曲 イ長調K,581」です。「クラリネット協奏曲」は1791年に完成したモーツァルトの最晩年の傑作の一曲です シュタードラーはこの作品とバセットクラリネットを携えてヨーロッパ各地で演奏会を行いました しかしバセットクラリネットが一般に普及することはなくモーツァルトが世を去ってから出版された楽譜では出版社の手によって通常のクラリネット用に一部が変更されました しかも自筆譜も失われ 本来の姿がわからなくなってしまったかのように思われましたが、楽譜の何箇所が音を上げていることが明らかだったため楽器と共に楽譜も復元されています

14/08/2026

セルゲイ・ラフマニノフ作曲 チェロ・ソナタト短調 作品19:ラフマニノフ(1873-1943 露)は「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18」を1901年に作曲して大きなスランプを乗り越えました 同年アナトーリ・ブランドゥコーフ(1856-1930 露チェリスト)の為に「チェロ・ソナタ ト短調 作品19」を作曲しました グランドゥコーフはラフマニノフより14歳年上の優れたチェリストでラフマニノフの親しい友人です 初演は1901年12月モスクワでグランドゥコーフのチェロ、ラフマニノフのピアノ演奏で行われました ロマンティシズム溢れる全4楽章から成りチェロとピアノが共に歌うかのような第3楽章が大変美しい作品です

11/08/2026

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953現在のウクライナ)はサンクトペテルブルク音楽院でピアノと作曲を学びました 1917年ロシアで革命が勃発すると出国し日本を経由してアメリカに渡りました アメリカでは1919年歌劇「3つのオレンジへの恋作品33」を作曲し、初演では自ら指揮をしました
1920年歌詞のない(ヴォカリーズ)声楽曲「5つの無言歌作品35」を作曲し初演では「3つのオレンジの恋」に出演したウクライナ出身のソプラノ歌手ニーナ・コシェッツ(1891-1965現在のウクライナ)が歌いました その後1925年に「5つの無言歌作品35」をヴァイオリンとピアノの為に編曲し「ヴァイオリンとピアノのための5つのノメロディー作品35bis」としました 
第1曲:穏やかで流れるような旋律 声楽的な息づかいをヴァイオリンが表現して柔らかい抒情が漂います 
第2曲:静かで内省的、和声の移り変わりが美しく淡い影のような哀愁が感じられます
第3曲:生き生きとしていて軽やかで少々ユーモラス 小さな躍動感がプロコフィエフらしいです
第4曲:おどけたような表情と優雅さが混在して軽くステップするようなリズム感が魅力
第5曲:しっとりとした歌心がたっぷり 終曲らしく静かな余韻を残して終わります
短い曲ですが詩的で色彩豊かな小品集です それぞれの独自の雰囲気を持ち、プロコフィエフらしい透明感、ユーモラス、哀愁が凝縮されています 現在ではこの編曲の方がよく演奏されます

06/08/2026

バルトーク・ベーラ作曲 管弦楽のための協奏曲:1943年バルトーク(1881-1945 洪)がアメリカへ亡命していた時期に作曲しました 第二次世界大戦の影響で祖国ハンガリーを離れ慣れない異国での生活の中、孤独感、深刻なうつ状態となり体重が40Kg台まで落ち、戦争による収入減などに苦しみ創作活動が思うように進まない日々を送っていました そのような時にボストン響の音楽監督、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキー(1874-195露)から新作の依頼を受けました クーセヴィツキーはバルトークの病室まで訪れて「期限はない これはあなたのための委嘱です」と説得したと伝えられています この事がきっかけでバルトークは生命力を呼び戻し「管弦楽のための協奏曲」を僅か8週間で、ニューヨーク郊外サラナック湖で全曲を書き上げました 題名は「協奏曲」となっていますが、独奏楽器は登場することなくオーケストラを構成するそれぞれの楽器や楽器群が協奏曲の独奏者のように演奏して個性を発揮するため「管弦楽のための協奏曲」と名付けられました オーケストラ全体がソリストであるという発想がユニークです
研究社ベンジャミン・サコフは「管弦楽のための協奏曲」をバルトークの創作の「総合」と位置付けています
バルトークが生涯追求した要素・東欧の民俗音楽(ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアなど)・ドビュッシーの和声・ベートーヴェンの形式・バッハの対位法 を「現代に通用する総合として実現できるか?」という問いにバルトークの答えは「この作品だ」と述べました

04/08/2026

マックス・ブルッフ作曲「ヴァイオリン協奏曲 第1番ト短調 作品26」:献呈はヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907 洪)でしたが、ブルッフ(1838-1920 独)はパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908 西)の演奏スタイルを「輝かしく、歌に満ち、技巧的」と捉え高く評価していました また、サラサーテはこの協奏曲を積極的に演奏しました サラサーテの華やかで輝く音色は曲のロマンティックな性格に非常に良く合い聴衆にも大人気でした サラサーテは作品の普及に大きく貢献し数年後、ブルッフの指揮、サラサーテの独奏でも「ヴァイオリン協奏曲第1番」は大好評を収め、ブルッフは気持ちも新たに2曲目のヴァイオリン協奏曲の作曲に取り組み初めました 「ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調 作品44」「スコットランド幻想曲 作品46」はサラサーテの美質を引き出すような曲作りをしているようです サラサーテは時にブルッフの家に滞在し曲について意見を述べることもあったと言われています 「ヴァイオリン協奏曲第2番」は1877年11月ロンドンでサラサーテのヴァイオリンで「スコットランド幻想曲」は1881年2月リヴァプールでヨアヒムのヴァイオリン演奏で初演しました

30/07/2026

ヨハネス・ブラームス作曲「大学祝典序曲 ハ短調 作品80」:「大学祝典序曲」はブラームス(1833-1897独)が 47歳の時の作品でそれまでに「交響曲第1番ハ短調 作品68」「交響曲第2番ニ長調 作品73」「ドイツ・レクイエムヘ長調 作品45」など様々な大作を生み出していました その功績をたたえられドイツのブレスラウ大学から名誉博士号の称号を授与されることになりました ブラームスはそのお礼として最初は簡単な感謝状だけで済ませようとしていましたが、推薦者のベルンハルト・ショルツ(1835-1916独)が「もっと盛大な感謝のしるしを示すべきだ」と説得し、また大学側もブラームスの音楽作品を期待していたので「大学祝典序曲」を作曲しました 曲は 当時の学生達が歌っていた4曲の学生歌の旋律を引用しています 当初ブラームスは「大学祝典序曲」を「学生の酔いどれ歌のがざつなメロディー」と自ら皮肉交じりに語っていたそうです しかし対位法や主題労作など高度な技法で緻密に構成されていてブラームスらしい「本気の冗談」といえる作品です 初演は1881年1月4日で大学の特別集会でブラームスの指揮で行いました しかし曲は男子学生の酒飲み歌を素材にしているため「式典の厳粛さと学生の酒飲み歌の雰囲気の間に皮肉な対照があった」と記録されています 大学祝典序曲は名誉博士号への返礼という真面目な目的で作られたのに、内容は学生歌のメドレーというユーモア満載で賑やかで陽気な作品に仕上がっています ブラームスの皮肉好き、ユーモア、そして高度な作曲技法が見事に融合したブラームスらしい魅力が満載の名曲です 
実はブレスラウ大学から名誉博士号の称号を授与される数年前にブラームスはケンブリッジ大学から名誉博士号を打診されていましたが、船旅が嫌い、英語が苦手という理由で辞退したそうです

27/07/2026

クロード・ドビュッシー作曲「クラリネットと管弦楽のための狂詩曲 第1番」:ドビュッシー(1862-1918 仏)は1909年47歳になる年に母校であるパリ音楽院の評議委員に迎えられました 起用したのは音楽院の院長を務めていた作曲家、ガブリエル・フォーレ(1845-1924 仏)です パリ音楽院の保守的な教育は若き日のモーリス・ラヴェル(1875-1937 仏)がローマ賞を逃したことで激しい批判にさらされました フォーレが音楽院の院長に変わると音楽院の改革に乗り出しその取り組みの一つがドビュッシーの起用でした ドビュッシーは管楽器の部門の審査員を務めることになりその試験曲を依頼され「クラリネットと管弦楽のための狂詩曲 第1番」を作曲しました ドビュッシー自身、作品に満足して自作の作品の中で最も愛すべきものの1曲としました 1911年初演した後、ピアノ・パートを管弦楽用に編曲し現在の形になりました 「第1番」となっていますが、「第2番」を作曲することはありませんでした 「夢を見るようにゆっくりと」という指示で始まりそこから自由にリズムや曲想が変化していく美しい作品です

24/07/2026

チャールス・ヴィリアーズ・スタンフォード作曲 イギリスの主題による演奏会用変奏曲 作品71:ピアノ独奏とオーケストラのための作品でイギリス民謡を用いた華やかな演奏会用変奏曲です ピアニストのファニー・デイヴィスに献呈しました スタンフォード(1852-1924 アイルランド)の作品は出版状況の悪さから演奏機会が少ないものが多いですが「イギイスの主題による演奏会用変奏曲」は演奏、録音が比較的多い代表作で、ピアノ作品の中で特に演奏機会が多い作品です 主題となる「Down Among the Dead Men(死者たちの中に下り)」は18世紀から伝わるイギリス酒宴歌でスタンフォードがしばしば使った典型的なイギリス的な素材です 構成は導入-主題-12変奏から成りピアノは華やかで技巧的、オーケストラは色彩豊かでスタンフォードの管弦楽法の巧みさが光っています スタンフォードの作品は長い間、評価されず2000年代以降に注目されるようになり演奏されるようになりました

*ファニー・デイヴィス(1861-1934英)はロベルト・シューマン(1810-1856独)の妻であるピアニストのクララ・シューマン(1819-1896 独逸)の一番弟子で当時イギリスで最も尊敬されたピアニストの一人です 室内楽の名手としても知られていました スタンフォードは彼女の演奏技術と音楽性を高く評価していました

22/07/2026

ペトリス・ヴァスクス作曲「プレイスケープ」:ヴァスクス(1946- ラトビア)はコントラバス奏者として活躍していましたが、作曲家としても活躍するようになり曲は多岐にわたり特に合唱を初めとする声楽作品で多くの名作を残しています ヴァスクスが生涯を通して追求してきたラトビアの自然を音楽の根源とみなした作品が多いです「プレイスケープ」は「風景の精神化」といえるほど自然の祈りに満ちていて平原の風景を音で描いた作品でヴァスクスが愛するラトビアの広大な草原や湿地帯の静けさが音楽化されているように感じます ラトビアの森の冬から春にかけての移り変わりを描いていて、曲の後半には春の訪れを感じさせる小鳥のさえずりも聞こえてきます 静けさと祈りのような響きの中に歴史の痛みと再生への希望が折り重なるそんな音楽的風景として聴くと作品の深みが一気に開きます 民族の記憶、精神的浄化というテーマの延長線上にある作品と考えられています 「プレイスケープ」は2002年の作品でヴァイオリン、チェロ、ヴォカリーズ形式の合唱の編成です 

ヴァスクスの国際的評価を決定づけたのは、同じラトビア出身のヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947- )です クレーメルはヴァスクス作品を「精神性の高い音楽」として世界に紹介し、クレメラータ・バルティカとともに多くの作品を録音しました 「プレイスケープ」がクレーメルやクレメラータ・バルティカに関係する作品であれば、「バルトの風景を世界へ届けるための音楽」ということでしょうか

住所

Kawasaki-shi, Kanagawa

営業時間

月曜日 14:00 - 22:00
火曜日 14:00 - 22:00
水曜日 14:00 - 22:00
木曜日 15:00 - 20:00
金曜日 15:00 - 20:00
土曜日 10:00 - 22:00

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アラート

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