学習塾Noblesse Oblige - ちはら台

学習塾Noblesse Oblige - ちはら台 個別指導。定員7名まで。不登校、学業や成績について悩みがございましたら、お気軽にお声掛けください。LINEもしくはこちらの記事をいくつかお読みになってからお問合せいただけると幸いです。授業中は電話の対応が難しいため、メールやLINEでのお問い合わせだとスムーズにやり取りできます。

22/08/2026

【先生の言い訳(分)とにんじん】

「通知表の評定は部分的な評価だから重要視してない」
「定期考査や模試の結果なんて重要じゃない」
→じゃあこの塾って進学を意識してないで知能的に問題がある子を育てる塾なの?
→元から頭がいい子しか取らない塾なの?

と、記事を読んでいて誤読してらっしゃる方がいそうなので、たまには私の言い訳。

これは「学習塾」という装置の使い方や捉え方の違いによって生じやすい認知のズレです。

「にんじん」
ビタミンやカロテンや食物繊維ってにんじん以外でも摂取できますよね。
サプリメントも豊富ですし。
好き嫌いはダメだから食べろ!にんじんはそういうものなんだ!と無理矢理突っ込むのもよくある話です。
最近では嫌いなものや苦手なものをとことん避けさせて、偏食家と言われる人が昔より多い気がします。
ですが、食育熱心な方はこのにんじんの調理方法を工夫します。
香りを消し味を消し、形を消し、少量ずつ与えていつのまにかにんじんが食べられるようになった と。
アレルギー治療も似ていて、アレルゲンをごく微量ずつ摂取することで克服する というのもあります。

毎回私の意味不明な記事を読破しているマニアックな読者はお気づきだと思いますが、ここのにんじんとは勉強です。

私の仕事をにんじんで例えるならば、
にんじんがどんな食物なのか
どんな種類があるのか 祖はどんな感じなのか
調理方法は何種類あるのか
どんな味付けが合うのか
を例示するのが私の仕事です。
生徒たちがどのようにしてにんじんを食べるか、楽しむかは自由で、「にんじんは野菜ジュースじゃなきゃダメだ!」なんて押し付けはしない主義です。
そして「食わず嫌い」を許しません。
食べてもない 食べ方を試してもないのに「にんじんは不味い「不味いって聞いたから」 は私の前では御法度です。

既存の塾は生徒数が多いことから、このにんじんの食べ方を最適化しています。
「レンチンですぐ食べられる美味しいレシピ」的な感じですね。
ここでにんじんの美味しさにハマってアレンジできたら料理上手ですが、ずっとそれだけで食べていてもいずれ飽きや限界がきます。

高級志向になると「高級にんじんのフルコース」的なものになるかもしれないのですが、ここは私の想像力の欠如なので軽く流してください。

レストランににんじんを食べに行ったと思ったら畑でにんじんを触ることから始まって育てることになった となれば「レストランってなんや?」ってなりませんか?
「味に自信ないんか?屁理屈捏ねてるだけやんな?」
ってなりませんか?

私の中にも、
自分は結果という単純な答えに対して屁理屈を捏ねて難化させて自論を高等なものに誤魔化しているのではないか
というのは常にあります。
要は詐欺師のテクニックですね。
単純な工程を複雑化させて専門性を演出して高給を貪ってるのではないか?とすら 常に自問自答してます。

然しながら私がやってることは構造の可視化と技法の可視化、それらを生徒個別に最適化する事です。
暗記 の話になれば心理学や認知学を引っ張り出してその子の特性の解析をしますし、どうしてその子が間違えるのか となれば、「演習で解決」ではなくて原因を探ります。

暗記に限って言えば「見れば覚えるでしょ」が私です。
ですが、この「見れば覚える」という現象をできる限り細分化して言語化して子供たちに与えるのが私の腕です。
その子の脳の特性や癖を考慮して調理法を変えて「にんじんって美味しいね!」と思わせるのが私の仕事で、私はここに「受験テク」ではなくて幅広い専門学を持ち込みます。

ここで学んだ調理法は他の食材にも活かせます。
ですが「鼻を摘んで我慢して食べる」しか教えないと、永遠と続く食(学)が苦行になるんですよね。
私はこの食(学)がずっとこの先も楽しくなるように教育法を組み立ててます。
これこそ私が兼ねてからテクニックだけを教えることの否定です。

だから私一人では無理ですし、教材を解くだけだけでも無理です。
ゲームをしたり本を読んだり校外学習に行ったり、いろんな経験が「もしかしてこの調理法にんじんにも会うんじゃないか?」と、子供たちの自らの一歩に繋がるんです。

調理法を覚えることだけ 詰め込むだけ では、食べることが好きな人が料理をし始めた状態にはかないません。
もちろん基本的な調理法はマスターした上での話で、基礎がない人が料理をしても闇鍋を作るだけですからね。
世間が美味しいと思っている食べ物を食べた時、「うん 美味しい」 ではなくて、自分の人生の中でしか感じ得ない旨味を思考の中で言語化できるように日々教育をしています。

いきなり自分から「〇〇のチョコレート美味しいよね」と語り始めたらちょっと痛いやつですが、チョコレートの話題になった時、「〇〇のチョコレートはこんな感じ、××は特にこれが美味しい」と語れるならば、これは「教養」なのです。

勉強で覚えるべき内容もチョコと一緒で、ワードに反応して知識のストックを記憶のタンスからどれだけ引き出せるか が知能の高さで、これは嫌々暗記をひたすら書いて覚えタイプではなし得ないことです。
なので私は「ひたすら書いて覚える」「ひたすら問題を解く」という行為が無駄なこと と一刀両断してます。

一見すると私の教育法は「遠回り」「遅効性」と思われがちですが、基礎作りさえ済んでしまえばいくらでも先に進めるわけで、「夏休みで20点アップ!」という安売りをしない理由は、ここ土台作りに贅沢なほどに時間をかけて醸成したいからなんです。

美味しいにんじんを食べたいなら環境、土壌にとことんこだわるべきで、美味しい食べ方っていうテクニックの部分は割と後でいいと思ってます。
植えて仕舞えば最後枯れるか育つかで、時間は止められません。
不可逆の世界で私たちは美味しいにんじんを育てるために注力します。
なのでたまに農園の見回りをする管理人がどれだけ頑張っても限界があるし、実際の世話人全員が頑張るべきで、にんじんにも頑張ってもらわなきゃいけないんです。

完璧に育ったにんじんを、最後にどう美味しく食べるか なんてのはまさに私の中の些末な結果論。
今までどれだけにんじんを計画的に大切に育てたか でにんじんの美味さは決まってます。
臭みやえぐみを消すために調味料をぶっかけるくらいなら、最初からそれすらも旨味になるにんじんの方が高価値です。
全てが旨味のにんじんは生で食べても美味しいのですから、食べ方(考査結果や受験結果)は私にとっては些末なもの。

なので私は成績が悪い生徒でも成績だけがいい生徒も同じに見えて、入塾には消極的な姿勢を取ります。
「成績」というものをほぼ採用の考慮に入れていない の方が正しいかも。

全員が土汚れを厭わずに全員で土を掘り起こして最高の土壌を作るんだ と思う人ににんじん作りの達人は微笑むのです。
「金に糸目はつけないから作業全部やっといて」
とか
「とにかくにんじんを食べられるようにして!今すぐ!」という考えの人は嫌いです。
むしろこれ以外の家庭や生徒に対して、私は広く柔軟に対応しています。
面談もすぐ行いますし、納得するまで疑問をぶつけていただいても構いません。

ただ、この「美味しいにんじんの作り方」ってのは、一通り美味しいものを食べた人にしかイメージできないんです。
安くて早くてそこそこ美味しいものしか知らない人には、タイパもコスパも理解できないんですよね。
だから教育に悩みを抱えていて、なんとか現状を打破したい って熱い思いがある人は結構好きです。
「夢があって何とか学業頑張りたいんだ!」って過去に私の前で初対面で打っ放した生徒は私の中の宝物です。

後半はにんじんが生徒になっているのでカニバリズム的な雰囲気があるので、私のことをレクター博士、あなたをジョディフォスターに置き換えてお読みください。

【知識の定着≠暗記の精度/後のまつり/保護者向けの授業】先週、ちはら台でお祭りがありました。「ちはら台でお祭りってことは清水谷公園の方か」と何も下調べせずに遊歩道を歩いていきました。例年だと浴衣を着た人や同じ方向に向かう人々で溢れているはず...
15/08/2026

【知識の定着≠暗記の精度/後のまつり/保護者向けの授業】

先週、ちはら台でお祭りがありました。
「ちはら台でお祭りってことは清水谷公園の方か」と何も下調べせずに遊歩道を歩いていきました。
例年だと浴衣を着た人や同じ方向に向かう人々で溢れているはずなのに、なぜか散歩中の犬ばかり。
「まだ暑いからお祭りは犬が先か」なんて思ってたいのですが...
会場はちはら台公園だったんですね。

お祭りは元々信仰の一種でした。
神楽を踊ったりなんらかの儀式を執り行ったり、人と神を繋ぐ場所のようなものでした。
その神様の中には人の賑わいが好きな柱もいらっしゃったわけで、そこから出店や踊りが始まったと言われています。

お祭りの出店 といえば何を思い浮かべますか?
「これがあるからお祭りだよな」というの、皆それぞれありますよね。
私がちはら台公園のお祭りに行った時、ケバブ タコライス コーヒー 「それってお祭りの出店なの?」と違和感を感じました。
違和感 という言葉を使うとなんだかネガティブイメージが先行してしまいますが、今回はそういう意図はありません。
伝統 や 習慣 常識 というものは時代と共に移り変わるもの。
私の中の「お祭りの定義」とはだいぶかけ離れていますが、もし「人が賑わってる姿を見るのが好きな神様」がいるならば、きっとこういうのも喜んでくれるのかな と思いました。
むしろ、そこに神様は生まれるのかな と。

先日生徒からワークの進捗や理解度を聴取している時のこと。
ワークの正答率がまばらな点を指摘すると、「知識が定着できてないので暗記を頑張ります」的な回答が上がってきました。

これって逆なんですよね。
理解ができていないから知識になっておらず定着してない だから 暗記できていない

暗記 という動作は、
暗記 する(未完了現在形) ではなくて
暗記 した(完了現在形) が正しく、一連の学習行動の結果に対する答えの一つです。

なので「暗記を頑張る」って言葉はかなり矛盾している学習方法だと思っています。

暗記 というのは成長の過程で勝手に身につく「取扱説明書」の1節です。
なんらかの単語の覚えが強い子っていません?
その子は単語に対するイメージを連結して伸ばして、点をつないで線を作り網を張る という一連の動作が身についている状態 と言えます。
ですが、これが学問を始めとした全てに活かせる子ってそんなに多く無くて、本当に一部のことに強烈な執着を持つ子はASDに近い特性を持っています。

さて、では人は生まれてからどのようにして「暗記」という工程を身につけるのか。
これを意図的に与えることができるのか。
答えは「YES」です。

ここからが「保護者向けの授業」の話です。
普段報告書には事細かく記しているつもりでも、意外と言葉で説明することには限度があります。
この「unspeakable」な部分が積み重なると、お互いの認知に大きなずれが生まれます。
ここを訂正するための作業として「保護者向けの授業」を実施しています。

暗記は、発達心理 教育心理 認知心理、認知科学を跨ぐ、一言二言では正しく説明できない内容です。
これは一義的には可能でも、その子の特性を踏まえた上でとなると正しくオートクチュールになるわけで、説明書を書けとなればフロイトやデカルトの話も含めた大作ができてしまいます。
もし私が誰か一人の生徒のマニュアルを書き上げたとしたら、直木賞と芥川賞に自力で立候補します(笑)

とまあ完全言語化が難しい という事は伝わったと思うので、一連の初期の暗記方法を実体験で学んでもらう という時間はすごく有意義です。

自分 と 子 でも適性や特性は大きく異なるわけで、自分と同じだと思うと色々驚くことってありますよね?
そこのズレをきちんと認知した上で、親も私と同様に子供の適性や特色を理解してもらうことが重要です。
ただ勉強の見守りや手伝いをするのではなく、親も私と同じ目線で「うちの子はこういう問題に躓きやすい」と、意識を持つ事で、ただの見守りは二人目の先生にランクアップするわけです。
親がこの認識を持てば家庭内での共有は容易で、これは子供にも「あー自分はこういうシチュエーションだとミスを起こしやすい」と伝わりやすくなります。
学業は下振れ防止の競争なので、いかにして下ぶれる場面を潰せるかが鍵です。

実際、親が生徒として一時的に授業を体験することで、子供がどんな先生に教育を受けているのか というイメージは持ちやすくなります。
結果として報告書の解像度も上がりますし、子供への理解度も一気に上がります。
そして、曖昧模糊な「なんとなくできない」という部分を、体験を通してこちらが明確にすることによって、親もまた明確なビジョンを持ち得ます。

私にとっては親も生徒の一人で先生の一人なのです。

(了)

【夏の暇】夏 といえばJUDY AND MARYの「over drive」を思い浮かべます。走る 雲の 影を 飛び越えるわ夏のにおい 追いかけて蝉の鳴き声 遠慮のない陽射し どこまでも続く青い空 草花の青い香り何故か私の中ではここに日焼け止...
05/08/2026

【夏の暇】

夏 といえばJUDY AND MARYの「over drive」を思い浮かべます。

走る 雲の 影を 飛び越えるわ
夏のにおい 追いかけて

蝉の鳴き声 遠慮のない陽射し どこまでも続く青い空 草花の青い香り
何故か私の中ではここに日焼け止めの香りも入るのですが、何故でしょうか?

ある休みの日に「今日は何をしようかな」と思った時、「とりあえず美術館に行くか」といそいそと支度を始めて出かけることに。
私にとって博物館や美術館に行くことは散歩の延長線上にあるもので、いつの間にか日常の選択肢に入り込んでいた場所です。

というわけで「空海と真言の名宝展」に行ってきました。
空海 真言宗 密教 は歴史で覚える単語ですよね。
資料集に載ってるものも多いので「そういえばこんなのあったよなー」とか、以前大学受験の子を見た時に曼荼羅がどうとかやったよなー なんて思い返しながら回っていました。

真言宗の開祖である空海は絵や図を重宝していました。信仰を実践の形に移した三密も有名ですよね。
信仰って目に見えないものですよね。
目に見えないものを想像して信じる事はかなり高い知性を要求されています。
元々宗教というのは哲学の一種で、頭のいい人の学問のようであって、民間での流行はまだまだ難しいものでした。
現代のように誰でも学校に行って学べるわけでもなくては学べても過去の歴史の資料があるわけでもなくて、その日生きることに一生懸命だった時代があったわけです。

その中で戦乱や疫病の世になり、人は心の拠り所を求め始めたんでしょう。
多分そんな高尚なものじゃなくて、「嫌なことずっと考えるのは辛いから別のこと考えたい」的な考えだったのかなと。

そこで空海は「こういう風にしようね」という姿勢を詳細に書き、誰でもイメージができるようにそれをさらに絵にしているのがすごいなと。
これは塾の先生とやっている事が似ていて、空海は勉強の姿勢(取り組み方法)を全て可能な限り書き起こしたのです。
誰にでも伝わるように形を起こす ってすごく難しくて、最近の私はほぼぶん投げてる節があります。
完全な言い訳ですが、私は「自分で考えて苦悩を抱え鍛錬を超えた先に答えがある」と思っているタイプなので、勉強手法を明確に教えることはありません。
その子それぞれのやり方を探究していく事が私の教えなので、現代に空海がいたら「そんなやり方じゃ大衆を救えんよ」とチクチクされていたかもしれません。
ですがこの点に関して、私はそもそも全員を救おうと思っておらず、救われたいと手を伸ばす人や自分が救いたいと思った人を助けるわけで、もはや私の塾も信仰に近い形をしている ということに気がつきました。

現代に置き換えてみても、講師として人気が出るのは空海の方でしょうね。
というか割と空海の指示方法を目指してたり、たくさんの人に刺さるように教えたい と思ってる人の方が多いイメージです。

少し拡大解釈をするならば、私は自分の教えを一子相伝で伝えてるのではなくて、生徒たち一人一人の心の中に「自分だけの信仰」を芽生えさせる手助けをしてるのかもしれないですね。

その厨子の中に「私は私だから」と、どんな時でも自信を持って未知に挑む秘仏を作ってるのかもしれません。

秘仏と言えば、一切明かされないものと定期的に明かされるものがあって、これも面白いですよね。
信仰するべき心象があやふやになると人の心は乱れるわけで、そういうものを防いでたのかなーなんて思いながら帰路につきました。

帰り道、風に乗って爽やかな桃?の香りがして、その香りがどこからなのか、探検が始まりました。
庭園の一角にある木から落ちた桃?が、なんかのきっかけで歩道にまで転がって、そして人に踏まれたのか野鳥や小動物につままれたのか。

それは予めその実に定められた運命だった というよりも、実になり熟し地面に落ち、そこから外因を持ってそこに至った、一見すると腐って終わりなはずの桃?の実が、その桃の人生の中で最も香り高く輝いて、私をその日一番感動させたことに強く驚きました。
(4〜5枚目の画像がスモモか桃か梅かわからないのですごく良い香りがした というイメージでお読みください)

それすらも運命 というのが仏教的な考えですが、人間も何かに導かれるように人と出逢い、そこで変わり、人生が芳醇なものになっていくのはこの桃?と同じですよね。

ああ、ただ「私の宗教」においては、親も子供も対等に変わらなければ救われません。
ウェイト比として言えば私は親こそが変わるべきだと思っていて、子供の学力なんて小手先でいくらでもどうにでもなるって思ってます。

これは生きてきた年数が長ければ長いほど難しい。
女性は母になる過程で半ば強制的に母になるわけで。
自分の体の中に別の命が存在していて、その小さな命のために生命維持活動をしなければいけない というのは男性の私からは想像ができないほど大変なものなのでしょう。
ですが男性ってこういう変化がないまま「父親になっちゃった」が正しいとも言える状態なので、母親と父親では子供にかける愛情や熱意の差が生まれるのは、仕方がないな と。

子供の学力に問題を抱えるのは遺伝でも何でもなくて環境の問題で、それは両親の「親の素質」の問題です。
どれだけ片方が頑張ってももう片方の分は埋められないし、子供を一人で教育するのは無理があります。
例えるなら2教科受験で母が国語 父が数学 それぞれ100点教科 みたいな感じですね。
母親が100点とっても父親が0点であれば得点率は50%で、60点60点の方が得点率は高いわけで。

二人の大人が揃っていても子供の教育にはまだ不足している気がします。
もっともっとたくさんの大人が子供に対していろんな知識や教養を与えるべきで、両親と私がいても他の受験生と勝負できるか、勝てるか、はなんとも言えないところです。
これは子供一人にも言えることで、どれだけ頑張ろうとも100点までの一教科担当で、受験は家族集団単位での集団戦であり、子供の持ち得ている教養とはその家庭の写し鏡になっているのです。

私はたまに親御さんにも「問題を解いてください」と言います。
この前保護者面談でこの話をしたので、久々に記事にしておこう と思ったのでちょっとだけ。
「もう歳だから解けない」なんて言い訳は許しません。
子供たちは初見で同じ状況に立っているのに、親だけ逃げる口実が許されるのを私は認めない。

親は上から見下ろす立場にいるから、子供がどれだけ難しいことをやっているかが段々と見えなくなっていって、お金と時間をかけても思ってたほど結果が出ない時に「こんなはずじゃなかった」と青ざめるんですよね。
子供がどれだけ難しいことをやっているか、プレイヤー側の目線でやってみれば口が裂けても「ちゃんと勉強してるの?」とは言えなくなるはずで。
これは私の中に常に自戒として存在してます。
私ができないことを子供に求めない
私ができることは他人ができると思わない
このバランスで子供に対してはちょっと強めの負荷、越えられそうな課題を設定しています。

私が入塾の際に求めているのは貴方達大人側が変われるか であって、子供の能力なんて適性レベルの話しかしていません。
桃は自分で運命を変えられることはできないけど、人間にはそれができます。

まあ今日はこの辺にしておいて、空海の展覧会で驚いたのは「字の上手さ」 縦書きでマスがないのになんでこんなに上手く書けるんだよ... と 板書の字が汚い私は空海に敗れたのです。
流石は三筆、三筆と比べたって字の綺麗さには勝てないので、そこは一勝をあげてやってもいいなと。
教え方の能力だったら負けないと思ってます(笑)

24/07/2026

【黒曜石は砕けない/小さなお友達】

皆さん「打製石器」って覚えてますか?
小学生くらいの歴史で覚える言葉「打製石器」です。金属器の加工が出来なかった時代の主な道具で、鈍器だったり刃物だったり、狩猟に用いたり採集に用いたり、尖頭器や石包丁が有名ですよね。
じゃあ質問を変えましょう。

皆さん「打製石器」って作りましたか?

小学生に打製石器の説明をする過程で黒曜石が出てきて、ちょうど先日ミネラルマルシェに行ったばかりで、ご家庭の方で黒曜石を用意していただきました。
ただ石と石をぶつけて砕いても良いものができることもなく、「こうかな?」「こうかも!」あれこれ仮説を立てて石に石をぶつけるわけですが、割れるにしても計画的にはいかないわけで。
小学生は今まさに旧石器時代の鍛治職人になって、何の価値があるかわからない鉱石から生活必需品を生み出している最中なのです。

「この形なら草が切りやすいけど茎は切れない」
「肉はもっとギザギザしてた方が切れそう」
と、用途に合わせて石を砕こうとするのですが、これは一万年前に人類が通った道そのものです。

打製石器の定義を答えられる人はたくさんいても、黒曜石を割った時に気をつけることやどんな形になるか答えられる受験生は何割いるでしょうか。

今千葉県が公立高校入試で問おうとしてるのも、最難関大学や海外大で求められるのも、この能力です。
私はここのところずっと「学問は覚えることじゃない」と言っているのも、想定してる将来が他とは違う のかもしれません。

フィールドワークを重視しつつ、この小学生には中学〜高校レベルの地学の授業を行います。
「石ころってどこから生まれたの?」から始まるこの地学の授業、もしかしたら次の校外学習は山に行くことやミネラルマルシェに行くかも しれないですね。

正直、カラーのイラストを見ただけで細部まで覚えられればそれに越したことはないんです。
VR技術だってあるから。
だけど 「触ること」は人間が一番最初に手にする知覚方法です。
極論、石を口に入れたって良いと思ってます。
赤ちゃんがなんでも口に入れるのと同じで。

「人間の記憶は五感のうち二つ以上を使うことが記憶に残りやすいー」ともいいますが、私は知識と知識がつながっていく過程を重視しています。
点と点がつながり線を成し、その線が線と繋がって網になることを「教養」と呼んでいます。
この「教養」を育む過程に近道はなく、座学もフィールドワークも、遊びも全て欠かせません。

人によっては「石を買ってきて実際に砕く様子を観察するなんて無駄」と思う方もいることは承知していて、それでも私はこの学び方が正しく、この学び方が私を育て上げた と胸を張って言えます。

話変わりまして、私の周りには1歳とちょっとの子が二人います。
一人は同期の子供なので中々会うことができないのですが、もう一人はちょくちょく会う機会があります。
もし私が女性だったら黄色い声で「きゃーかわいい!」「抱っこして良いですか?」なんて言えるのですが、普通のおじさんです。

この子は去年からの友達(一方的に私がそう思ってる)で、私は会うたびに静かに手を振るようにしています。
テンションを上げて「こんにちは!」っていうの難しいんですよね。
子供相手の仕事をずっとしてますけど、子供が嫌いだってのもあって、あれは中々できない。
だからいつも静かに手を振っています。

それがこの前教室に遊びに来た時、手を振り返してくれるようになっていて。
しかも笑顔付き。
どういう原理でそうなったかはわかりませんが、たぶん「この人は手を振るから振り返す」という非言語型のコミュニケーションが成立してるんです。
しかも笑顔付き。

二人だけの二人にしかわからない挨拶 って良いですよね。
前「52ヘルツのクジラたち」で話した、二人だけの呼び方に通ずるものがあります。

このまま会うたびに手を振るという挨拶を続けたとして、何歳まで続けてくれるのか興味深いです。

もう片方の子はもう私の顔を忘れてるやもしれませんが、「今のうちから家庭教師をつけたい」とのことで、学生時代よりこまめに連絡をもらってます。
1〜2歳で家庭教師をつけたり習い事をしたりすごい時代になったな と思いながら、求められていることは「覚え方を教えること」ではないんですよね。
「こういう生き方をしている人間がいる」という例、自分達のコミュニティとは違う視野や視座を持つ人間を置いておきたい という狙いがあるのかなと。

家族 親戚 という集団の知能レベルが上がれば上がるほど教育は洗練されていきながらも、実はたどり着くところはもっと基本的なところだったりするのでしょうか。

たくさん経験の場を用意する
経験から学ばせる
必要な質問を投げかけて思考させる
これらの管理が上手な人間を探している

きっとこんな感じです。

石包丁、良好な状態で完成したらお披露目する予定です。

石包丁、ご期待ください。

18/07/2026

【Noblesse Oblige って?】

「塾の名前ってなんて読むんですか?」
「塾の名前ってどんな意味なんですか?」
「(通ってる生徒が)塾の名前わからないです」

この3つは我が塾における鉄板ネタ3本となっております。

正直に申しますと、私は塾の名前も、私自身の名前もそんなに重要じゃない って思ってて。
通っている家庭の指す塾が「この塾」で、周りにいる人たちの指す塾の先生が「私」であればいい、というかそのことに誇りを感じています。

自分の名前は自分で決めたものではなくて授かったものです。
だから嫌な部分ばかりで。
然しながら「先生」と呼ばれることは自分で勝ち取ったものなので、私は「嶋森先生」でもなくて「先生」と呼ばれることがすごく嬉しいです。

もう千葉で先生を始めて長い年月が経ち、大体の人は私のことを「先生」と呼びます。
ちはら台を歩いている時に「先生!」と呼び止められることが、私の求めていた幸せの一つです。

「先生」と呼ぶことに重きを置いている理由は
尊敬されたいとかじゃなくて、すごく身近に置いてくれていることが嬉しいんです。
(多分敬意を払えって話なら苗字含めたり、学長とか教室長とか役職をつけますよね)

Noblesse Oblige は能力の高い人間や位の高い人間は相応の義務と責任を負う というフランス貴族社会から生まれた言葉です。

私はこの言葉を、
能力の高い人間はその能力を発揮して社会に貢献すべき
将来を担う若者の育成に責任を持つべき
と考えていますが、だいぶカッコつけすぎましたね。

私は、能力が高い人間はその能力を行使する義務がある と考えています。
これはどんなことでも良いのです。
自分の得意なことを全力でやる事、能力行使の義務。
私はそれが知能や教育の分野だったからその能力を行使する。

これが義務だ責任だ権利だ なんて話になれば、私は自分の能力に基づいて全ての人間を救わねばなりません。
無理です。そんなの。
私が救いたいと思っていても、下層世界にいることを望んでいたり、救えない理由は沢山あります。
手を差し伸べた時、その手を掴んで這い上がろうとする気持ちがないと救えないんです。
だから私は「全員は救ってやれない。自分が救いたいと思った人間だけを救う」を行動指針としています。

だから悔しい思いをすることもあります。
極めて秀でた潜在能力があるのにも関わらず、自分を弱者側の人間だと思い込んでいる子。
親の干渉によって脱線した努力をせざるを得ない子。

救ってやりたいけど救えない

私はこれが一番悔しいです。

「ノブレスオブリージュ」という言葉を基準とするなら、未来を歩く子供達に正しい教育をするのが私に課された義務です。
忍耐力 
挑戦心
継続力
闘争心
思考力
好奇心
行動力

自分の足で立って歩き
自分の頭で考えて動き
正しい言葉で自分の気持ちを伝えることができる人間 を育てるのが私の役割です。

学問 という舞台を使って、一人の人間として主役を演じられるように育て上げるのが私の仕事です。

これは持論の中でも極論ですが、私は学問から目を背けた人間は大成しないという考えの持ち主です。
小学生から続く学問は、最も公平公正で、最も平等で、最も努力が反映されて正しく評価されるものです。
大人になれば全員が同じ位置からヨーイドンになることってほとんどないですよね。
努力が平等に評価されることもほとんどありません。
そして何をしていても頭は使います。
新しい技能の習得にしても頭を使うわけで、
学業とは「自分の頭の構造を探究し、使い方のマニュアルを覚える」練習期間とも考えることができます。

考え方 物の見方 感じ方 は70億人いたら全員違うわけで、70億通りのマニュアルが存在します。
無理に公式を覚えたり重要語句を覚えるより、脳の使い方を教えた方が効率が良いんです。
ですが、その「70億通りの脳の使い方のマニュアル」を型に嵌めた教育で教えられるか と言われたらノーでしょう。

例えば私が「TOEICで990点取る方法」として有料でマニュアルを販売したとします。
その中身が
単語は見てるだけで覚えて、起きてる時間は頭の中で単語帳がずっとリピートされている
ゲームの中で英語を使えば十分

って書いてあって同じ真似をして点が取れると思えますか?
これは結局私の脳で成り立っただけ、ただの結果論なんです。
70億分の1のマニュアルなんて、他の69億9999万9999人には使い物にならないんです。

他人のマニュアルに自分を順応させて順応できたとして、そのマニュアルは人生の終わりまで導いてくれますか?
一生他人の後ろをついていくだけですか?

私は度々、学ぶこととは覚えることではない とキッパリ言い切っていますよね。
学ぶこととは自分のマニュアルを探求することです。
私の役割はそのマニュアルをその生徒だけのものを作ってあげることです。
だから「オートクチュール」

人は何かに導かれて人と出逢います。
それが天命なのか運命なのかはわかりません。
広告もない看板のないこの塾と私に導かれてくる人たちの中で、例えどんな学力だったとしても、私が「救いたい」と思った家庭は必ず救います。

救ってほしい と手を伸ばす努力をしてくれるなら の話ですけどね。

第一志望校合格を「勝ち」と定義するなら、学習サービス業界は「いかに勝ち続けるか」が利益に直結します。
勝ちと負けで言えば勝ちの方が多いし、負けの数は片手でもあまりが出るほどです。
「救われる気がない人間」を抱えて負けるべくして負ける勝負はしたくないので、そういう類の人はそもそも教室に残しません。

高校3年生の春先から大学受験したい とか
中3の総体が終わってから高校受験したい とか

「通常3年間かけても熟達の域まで到達できない学問を数ヶ月で理解できるの?」
と、私はかなり怪訝な目で見ます

それこそ学びを「覚えればいい」と思ってるとしか思えなくて、私の教育論では「違う」となるわけで。

ただね、いるんです。
「この勝負は負けるかもしれない」と経験と直感で判断してるのに、
「この子のためなら全てを賭けてその分の悪い勝負をしてもいい」と思わせる生徒。
これが「運命の出逢い」というやつですね。

最初から負ける と決めつけているわけではないけれど、どうせなら勝ちがほぼ確定の勝負の方が良くないですか?
負けの可能性が高いとなれば、その秤を動かす努力をしなきゃいけないわけで、それは私だけの熱量だけでは無理です。
ですがごく稀にその秤を動かすだけの熱を帯びた生徒が存在します。

こういう生徒に出会った時、「自分もまだまだ甘いな 青いな」と思いクスッと笑いながら、私の心の中が熱と闘争心で満たされるのです。

なんというか、「この子を絶対勝たせてあげたい」という気持ちより、「この子となら一緒の負けを背負ってもいい」って感性が働くんです。
自分がその責任を全て負うから、この子が全力を尽くした先を一緒に見てみたくなった というか。

合格を売るべき学習塾が負けを前提に語るのはよくないですね。
無論、勝つための策は全て講じますけど、他の子達だって本気で取り組んでいるわけですから、やはり勝ち負けの結果は避けられませんよね。

でももし「この子の全力が見たい」と思って全力が見れたのなら、それは勝ち負けの域を越えた充足感と幸福感を私に与えてくれるのです。

それはまるでモノクロームの世界が彩りで満ちていくような。

さいごに
教育って面白くて、正しい公式があるのに出てくる答えが違うんです。
誰が見ても「立派な人間」になるけど細部が違っていて。
それを個性と呼ぶんでしょうね。
きっと生徒たちがみんな同じ「立派な人間」になっていたらとっくにこの仕事は辞めていたと思います(笑)

学生 社会人 親 になって、私よりも立派になった生徒たちが、私を「先生」と呼んでくれるのはなんだか照れくさいです。
「君達の方がよっぽど先生だよ」っていつも思いながら、自分の人生を「先生」として歩んでよかったな と、この人生には悔いがない って思ってます。

16/07/2026

【生徒の成長日記】

前回生徒のことを書いた時は小学生だったので、たまには中学3年生のことでも書こうかなと。

成績自体は入塾した時すでに良好だったんです。
ただ当塾と私の基準では「未熟」そのものみたいな子でして。
もう3年生だから「勉強への捉え方」などの思考の部分を変えることは難しく、
「勉強とは覚えることだ」
と認識していると学問そのものがつまらなく、いつか苦痛を伴うものになってしまいます。

その点で言えば小学生の段階からアレコレと手を加えて「勉強は考えることだ」とか「勉強は面白いものだ」と思考を変えていくわけですが、中学生のマインドを全て書き換えることは難しいです。
難しい と言っているだけで、無理とは言っていません。

先日、ひょんなことから他塾の課題をお裾分けいただいたところから始まります。
解法には高校数学が用いられていて、普通の中学3年生には同じ方法で解くことは無理だったはずです。
散歩の途中で頭のキャンパスをいっぱいにつかって「中学数学以下で解けるか」を試して、まあそれは普通に解けたわけです。
ここで思ったわけです。
「日頃から〈考える力〉を磨いてる生徒達だったらどう解くか気になる」

今日の主役の3年生は初見や応用に弱いところがあって、たびたび応用題の解説をすると「そんな簡単だったんだ」みたいな顔をしています。
これは「簡単に見えるように解説をした」私の能力(ドヤ顔)であって、実際に問題が簡単かどうかは別問題です。
ですが、簡単に見えた とか 自分にもできそう と思わせるのは魔法です。
生徒が「やってみよう」と思った時点で私の仕事はほぼ終わっています。
0を1にしたのですから、1から10まで走るのは生徒の役割です。

千葉県の公立高校入試の数学は年々「思考力」を問う問題が増加しています。
これは公立中学受検組の進学率がすごく高いことから、同じことを目的として選別として取り入れているのだと思われます。
これは教育というよりセンスが問われる問題でして、仮説を立てて変数を調べて... と本来の数学の面白さが詰まった問題 って感じです。
粘れば誰でもどんなやり方でも解けるのですが、「やり方を知らないからできない」と判断する子は一生解けないタイプの問題です。

ということは
思考力や粘る力をつければいいんでしょう?
→extremely をつけたいくらいその通り

ですが「思考力の鍛え方」と聞かれて答えられますか?
私はこの答えを持っています。

本来学習塾は点取り屋さんなので、解法を覚えさせることくらいしか面倒が見られません。
塾に求められてるのはテストの点数と成績そのもの それをお金で買ってるって感覚ですよね。

点を取らせるだけだったら解放を覚えさせて演習だけでいいのですから、管理も楽です。
ある程度の薄利多売をしても利益は出る気がします。

ところが「思考力を鍛える」「粘る力をつける」と、目に見えない能力を磨こうとすると手間もかかるし時間もかかるし、何より実利が見えない。
実利が見えないのにお金はかかる となれば、狂気の沙汰ですよね。

一応前置きしておくと、私の元でも解法は教えるし演習は行います。
我が教室には最高決定神「ダイソーのダイス」があって、サイコロの目は絶対です。
6が出れば6ページかもしれないし6問かもしれない それは私でも逆らえない絶対権力です。

ただ、「はい この公式を覚えてねー」ってやり方はしません。
この辺は事細かく書いてしまうとお金を払って通ってくれている家庭に悪いので内緒 ということで。

で、解けたのか解けないのか って話、これが解けたんですよ。
ただ解くだけだったら想定の範囲だったのですが、教えてもいない高校数学の公式を導出していて、それに基づいて解き切ったのだとか。

普通、公式って「習って覚えるもの」ですよね?
でもこの子は全く関係のないところからその定理に辿り着いたんです。
一年前だったら「解けませんでした」と降参するところを「もうちょっとやってみたいです」と粘りに粘って。
別の授業の時間だったので「宿題にしよう」と止めることもできましたが、やっぱボルテージが上がってる時って誰にも止められないですよね。

すごく嬉しくて応接セットの方でニヤニヤしながら待ってました(笑)
※後日報告書で授業時間を別に使ったことを謝罪しました。

その生徒は通っている中学では最上位層の順位なので、好きな高校を見つけて大学に行く となれば全国クラスの傑物達と順位を競うことになります。
闘争心こそなくても挑戦心があれば、いつかはそれが闘争心に変わるのかなと。

宿題だからやってるんだ
じゃなくて
面白そうだから解いてるんだ

これは数学の本懐です。
面白そうだから は学びの本懐です。

学びって面白いものですから。

学びが、学問が、それは面白いことだ と教えるのが教育者の仕事です。

教育者 だとちょっと堅苦しいですね。

私 の仕事です。

07/07/2026

【夏休みの課題】

「夏期講習は専用の教材を用意して授業はそれを解くだけ」
「特訓と称して塾でひたすらプリントを解く」

それって夏休みしかできない事?
夏休みは夏休みらしいことをするべき

というわけで、私は夏期講習を必修ともしてないですし、こちらからコースを用意して提案すらもしてないです。
けどそうなると困るのは家庭サイドなんですよね。
全くやらないのもよくないけど何を頼んで何回必要なのかもわからない と。
ですがここで日頃どれだけ報告書を読んで子供の学力を把握してるかが問われています。
何が不足しているのかを把握していれば、それをそのまま塾側に提案するだけで良いのです。
これも一つの認識の擦り合わせですね。

肝心な課題は以下ものを出しました。
①プールに行く事
②お祭りに行く事
③花火を見る事
④バーベキューに参加する事

あと何年「子供」でいられるのか と考えた時、10年もありません。
18以降を大人として考えるとさらに短くなります。
子供時代だからできる事を満喫する事で、大人時代では得られない経験が大人になった時教養として花開くのです。

この課題の4項目、現代文学とは言わず近代文学にもよく出てきます。
流石にバーベキューはないですけど、花火やお祭りの描写は大抵細かく描かれていますし、知らなければ想像しても詳細までは理解できないでしょう。

私は中学1年生の時、仲の良かった女の子からお祭りに誘われたことがありました。
恋愛 とか 異性 とかに疎い未熟な年頃だったので、どちらかというと周りの方が盛り上がってた気がします。
今思えば相手の方が精神的に熟していて、
浴衣の色は何色がいいかな?
とか
お祭りの前に散歩したい
とか
いろんなことを聞いてきて、「女子って大変だなあ」と、そんなことだけを考えてました。

駅で待ち合わせをしたときに浴衣姿で現れた彼女

改札を抜けてきた姿

駅を吹き抜ける生ぬるい潮風

浴衣を着ている人がたくさんいたはずなのに自分の目には彼女しか映らず、自分と彼女しかいなかったように感じた事

ノイズのない世界で彼女の声だけが聞こえた事

瞬間、心拍が上がった時、あれは初恋だったんだなと。

花火って近くで見ると炸裂した振動が体にバーンとぶつかってくるから、「花火が火薬を用いた爆発物なんだ」と改めて知るんですよね。
打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか
私はあの時に下から一緒に見た花火がいつまでも記憶に残っています。

流石に駆け落ちまでされるのは不味いのでそこは課題に含みませんでした(笑)

夏のエネルギーの高さや儚さ
そういったものを自ら体験しない限りは文学の中に自分を投影することはできません。
自分を投影できない ということは作者の気持ちが理解できない と同じです。
これは現代文の問題を100題解いたって分かりません。

というわけで、人様に迷惑をかけない範囲で夏を満喫することが全体課題となりました。

あとは日常で絶対使わなさそうな四字熟語の暗記を出そうかなと。

抜山蓋世
鬼哭啾々
千古不易
狂瀾怒濤
とか ほぼ使う機会ないけど覚えてたら面白いやつシリーズですね。
校外学習の課題はいつも通り出しているので、「今年の夏は楽しんだ!」と言えるような夏が送れると良いですね。

02/07/2026

【未知との遭遇】

今日は毎月課している塾からの校外学習のお話です。
今月はゴッホ展に行くことを土台として、美術や歴史に触れる機会が多い内容でした。
とある小学生がゴッホの作品に触れた事から始まるお話。

私は校外学習において「何を感じたか」を最重要視しています。
極論言えば「ありきたりのつまらないものだった」でも全然よくて。
感想を持たないまま、未経験のまま先入観で判断する というのが大嫌いでして、そうじゃなきゃ「個人の感想」でなんでもオッケー と思ってます。
触れる機会を与え、感想を抱かせ、ただこれだけでは「なんの意味があるの?」と貴重な体験が埋もれてしまいます。

というわけでここからは大人の仕事です。
「貴重な体験」という種が実を結ぶために環境管理をするのが大人の仕事。

件の子は「自分でも描ける」「自分でも描けない」的な視点で絵を見ていたそうです。
私が求めてたベストな感想でした。
というかこの子なら芸術に触れた時、絶対この価値観の持ち方をするだろう と確信して送り出していた と言った方が良いですね。

芸術に触れた時「素晴らしいものだ」と思うのは、私の中では二流の感性です。
むしろ「自分でも描けるのになんで賞賛されてるの?」くらいの疑問を持っていた方が感性と思考力は伸びます。

何故ゴッホの作品は評価されたのか
何故一般人が描いても同じ価値にならないのか

骨董品としての価値?
誰かのマネタイズツール?
一般人が同じ画材を用いてAIに描かせたとして同じ価値になるのか?
実際いくらくらいするのか?

こういった疑問は芸術品をただただ「素晴らしいものだ」と受容してしまっては抱けずに終わります。

以前ゲームの中の知り合いに「美術展どうでした?」と聞かれたことがあります。
私は「人が沢山いて楽しかった」と返したのですが、その人は「美術展って静かに見るものでしょ」と。

私は美術品とは、それを取り巻くギャラリーも美術品の一部だと思っています。
上野で見るもの ルーヴルで見るもの 同じ展示品を見ていても作品は違います。

どのように作品を見ているのか
音声を聞いてる人
凝視している人
場所を変えて見ている人
近くで見る人
遠くで見る人

以前運慶展の話をした時に同じ話をしていましたので省略しますが、誰もを魅了する作品は魅了した人すらも作品の一部である という持論がある私からすると、「静かに見たい」というのは価値観が違うのです。
その作品とその場の人が織りなすエンスージアズムこそが本当の作品なのです。

素晴らしいと評価されるものを見に行き、素晴らしいものだ と認識したいのであれば写真で十分です。
実物を見る という行為には「作品と対話する」が含まれます。

自分だったらこうしたけど、どうしてこの人はこうしたのか
他人が言うほどすごいかこれは

「これは素晴らしいものだから素晴らしいと思いなさい」と言う教育は教育ではありません。
子供たちが「どう思うのか」を開花させて、それを正しく言語化させるのが教育です。

数学で「公式と解法はこれだから覚えなさい」に似ていて、数学は考えて粘って仮説を立てて検証して答えが出るから気持ちのいい学問なのに、それをあえて単調な味にする必要はあるのか?と問いたいです。

この芸術への捉え方と数学への捉え方は「学問」における重要なセンスです。

学問とは考え続けて答えを出すこと
決して覚えて解決するものではありません。
ごく稀に全てを暗記して解決する化け物はいますが、これは本当に例外。

大体は点で詰め込んだ知識を線で繋ぐように思考力が求められるわけで、本来教育者の立場とはこの「考える力」を伸ばしてあげるのが職務なのでは と考えてます。

ただこの教育の欠点は質問を投げかける側の能力に依存している という点ですね。
返ってくる答えに対して、繋ぐことができるか。
まるでそれはDJです。
子供から出てきた回答を否定せずにいかに学びに繋げるかはDJの腕の見せ所です。
生徒の脳というフロアをいかに沸かせるか、どれだけドーパミンを出させるか、まあまあ大変なお仕事です。

「なんで?」という疑問すら持てない子は、そもそも親が答えを教えてる可能性が高いです。

「アンパンマンは正義の味方!バイキンマンは悪いやつ!」的な
案外そういう先入観の植え付けをせずに観察すると、「バイキンマンが好き!」って子いるんですよね。

よくあるのはランドセルの色とか。

子供 という別の個体がどのような感性を持って育つのか その感性を伸ばせるか が教育を続ける上で面白いところです。
これを親のトレースにしてしまうと、親がなし得なかった人生を子供で再チャレンジしてるような感じでつまらないです。
再チャレンジは自分の人生でしてください。

最後に。

塾に求められるものは即効性ですよね。
次のテストの点数を上げたい
受験の評定を上げたい。
ですが、その即効性で得たものはどこまで役に立つのでしょうか?

もしその即効性が正しいのであれば、うちの生徒たちより成績が低い大半の子たちは何をしているのでしょう?

私は子供たちの「なんで?」を伸ばした先に、オマケの形で点数や評定がついてくるものだと思っています。
逆に点数を伸ばしても「なんで?」は伸びず、思考力を問われる高レベルの学校の受験と授業には対応できません。
だから私は学力による入塾選抜を行っていないのです。

オートクチュールですからね。
一人一人育てるのが役割なので、モデル体型を求めてもつまらないだけですから。

17/06/2026

【52ヘルツのクジラたち】

※この記事は塾の出来事とは一切関係ありません。
塾のことが知りたい場合はこの記事以前のものを読んでください。
「先生」の人柄について知りたい方はそのままお読みください。
今日は主題の映画の感想の話になります。
※映画のネタバレを含みます。
※読んでいて気分が悪くなる可能性があります。

ちょっと前に杉咲花が出ているドラマを観て、この映画の主演が杉咲花である事を知ったところから私の「52ヘルツのクジラたち」は始まります。
あらすじを読んだ時点で気乗りせず、かといって観ないわけにもいかず、しばらく放置してました。

多分大半の人は既知の事実だと思ってるのですが、私は未婚です。独身です。
自分で言うのもアレですが、私は通常の愛情の注ぎ方ができない人間だと思っています。
それは何より 知らないから

この映画は私の人生の命題でもある
「愛されず認められず大人になった人間は人を愛することができるのか」
をテーマにしています。
同時に
「人間は他人を依代にしなければ生きることができない」
という、人の無情さや脆弱さを描いています。
(後者は全くの無縁なので、私は前者がより色濃く映った印象です)

さて、杉咲花が演じる三島貴瑚(以下キコ) が東京から九州のとある海辺の街に越してきたところから物語は始まります。
キコはある日、小さな子と出逢います。
土砂降りの雨の中であった二人は、キコの家で濡れた体を乾かすためにお風呂に入るのですが、服を脱がせた時に子供の体には無数のアザがありました。
「虐待を受けている」
キコは一目で確信しました。
同時に子供はキコの体を見て無言で驚きます。
キコの腹部には深い切り傷の跡が。
キコは笑ってはぐらかします。
これはキコの同族に向けた優しさでしょうか。
ここからキコの回想と子供との物語が始まります。

キコは母親から虐待を受けて育ちました。
特に深い描写はありませんが、母親の彼氏に気に入られるように「何か」を強制されたり、その過程で母親に暴力を振るわれていて、誰もキコを守ってくれない状況でした。
虐待を受けるシーンの母親から出た「それでもキコのことを愛してる」的なセリフは、キコの心に呪いをかけます。

キコ、子供にとって、親とは居場所であり存在価値です。ざっくり言えば依代。
子供は虐待から逃げる術を持たず、母から離れる事も考えられず、母親はその子供の純粋な感情を弄ぶように、キコに呪いをかけます。

子供の頃の感情って覚えてますか?
怒られて一瞬嫌いになっても、すぐ好きって感情が蘇ってくるあの感情。
何日も家に放置されて食事が摂れなくても、親が家のドアを開けて帰ってきた瞬間、今までのことを忘れて嬉しくなるあの感情。

キコは耐えるしかなかったんでしょう。
きっと児相の介入があったとしても、キコは母親といることを選んだと思います。
大人になれば「児相が保護すべきだ」と正しい選択を取れるかもしてませんが、子供にとって母親とは特別という言葉では形容できない存在です。

だから理解したくないのに理解できてしまう。
キコがあの状況を耐えるしかなかったってこと。
それでも母といられることがキコにとっての喜びだったこと。

キコは青年期に入ってから祖父の介護をするようになるのですが、ある日祖父が誤嚥を起こして祖父が入院してしまうアクシデントが起こります。
キコの母はキコが介護疲れで殺そうとした とキコを激しく糾弾しました。

この辺の描写も特にないのですが、キコは「お母さんのお願いを叶えてあげたかった」と、純粋な、言い換えると心の発達が虐待によって遅れていて、すごく幼い感情がベースとなった行動だったのかもしれません。

でもこれはかなりポジティブに捉えた場合です。
本当は、あらゆる苦痛から自分を守るために自己認知を歪めて「個」を沈めた姿なのかな と思いました。
私は誰かに必要とされている
お母さんのために おじいちゃんのために

これもまた「他人を依代にした生き方」ですね。

キコはこの「誰かのために」という依代をお母さんに否定されて自殺を図ります。
正しくは周りにそう見えただけで、キコに自殺の意図はなかった と取る方が自然です。

ところで、人間がどんな時に死を選ぶか、考えたことはありますか?

第一志望校に落ちた時
好きな人に振られた時
仕事をクビになった時
借金を背負った時

確かに死を選ぶには十分な理由ですが、死に得るか といえば別です。

フロイトが「デストルドー」「リビトー」という概念を 衝動 という言葉を用いて説明しています。
ですが私はこれとはまた違うものだな と思ってます。
死にたいな いなくなりたいな
「〜したい」という願望や衝動では自らの命を絶つには不足です。

正しくは「死ななければならない」なんです。
これを衝動というならフロイトが正しいですが、これは逆らえない強烈な潮流のようなもので、踏み行ってしまえば自力で戻ることは叶いません。

したい という言葉は自発的ですが、なければならないは強制です。
したい は私が主語ですが、後者は主語がないんです。
なので、心中に存在する人は間違いなく死にます。

私から見たキコにはそういった感情がなくて、側から見れば正気がなく死にそうな人でも、死にたい 死ななければならない ではなかったように見えます。

街中を彷徨うキコは車に撥ねられそうになったところを安吾(アンゴ)に助けられます。
その時アンゴと一緒にいたのが高校時代の同級生の美晴(ミハル)でした。
原作だとミハルも虐待を受けて育った描写があるようなのですが、映画版にはなかった気がします。
ミハルはキコのあぶなげな様子を見てそのまま飲みに誘い、アンゴと一緒にキコから今までの話を聞きます。
この時、私は世話焼きのミハルより、綺麗事を投げかけるアンゴの態度がすごく鼻につきました。

「すごく大変だったね よくがんばったね」

終始キコを肯定して優しい抱擁のような言葉をかけ続けていたのですが、私の中の優しさ とは違ったものでした。
「こいつ、自分が肯定されたいからキコのことを肯定してる」
キコを肯定する という依代を経てアンゴ自身を肯定しようとしている
相手を肯定することによって相手の中に自分の居場所を作っている

捻くれすぎた見方かもしれないですが、私の最初のアンゴのイメージはこんな感じでした。

そのあと、ミハルとアンゴはキコを虐待から救い出そうと尽力します。
祖父の介護問題を解決したり、キコの一人暮らしを支援したり。
キコはアンゴのことを「アンさん」と慕い、アンゴはキコのことを「キナコ」と呼ぶようになります。
呼び方が変わるのは「お互いが唯一無二の存在である証」みたいなものでしょうか。
悪い気はしないですよね。
その人が自分だけを見てくれている みたいな。

キコは一人暮らしをして就職して、職場で主税(チカラ)という男性に出逢います。
形は職場恋愛で、キコの知らない世界で生きている、いわゆる御曹司です。
キコのことを肯定し、なんでも与え、そして何よりキコの心の寂しさを埋めてくれるのがチカラでした。
少女としてのキコ
女性としてのキコ
人としてのキコ
キコは「これが人に愛されることなんだ」と幸せいっぱいの日々を過ごします。

女性として求められること
男性として求められること
「性」の対象として見られることは、「存在価値」として最も承認欲求と自己肯定を満たしやすいものだ と私は思ってます。

キコは元々自分の存在価値を自分で見出せず、他人を依代として自己の存在価値を探していました。なので、チカラのような男性に倒錯してしまうのは必然に感じました。

女性とはこうあるべきだ。
女とはこうだ。

キコにとってはそれが、新しい存在価値こそが新しい幸せで、愛されることを知らずに育った中で唯一見出した幸福なのかもしれません。

一方でこのチカラ、結構なクソ男で。
「自分の人生は親が決めてきた」みたいなことを言って不幸面をするのですが、親が決めてきた取引先との縁談を受けて、キコに「愛人になれ」と言い放ちます。

冒頭からかなりあったんですけど、チカラはキコのことを好きなのではなくて、都合よく束縛して自分の支配欲を満たし、支配することによって自分の存在価値を見出すタイプの人間だったんです。
これを見抜いてたのがアンゴ。
アンゴはキコに警告します。
「あの人はキナコを幸せにできない 別れるべき」と。
盲目なキコはアンゴに憤慨します。
そりゃそうですよね。
自分を愛してくれてる(と思ってる)人を否定されるわけですから。
これはキコの幼少期に児相が介入しても、同じことだったと思います。

キコは自分のことで一杯一杯で、せっかく手に入れた幸せが、どうしてアンゴが壊そうとするのか冷静に考えることができませんでした。

「私はキナコじゃない 私にはキコって名前がある キナコって呼ばないで」

キコは昂った感情で吐いてしまったこの言葉が、キコの中では「そんな些細なこと」だった言葉が、アンゴの心を割ってしまった事に気がつくのに時間がかりました。

ここからはアンゴがメンヘラを発揮しまくる場面で、チカラの結婚相手にキコの存在を暴露して破断にし、チカラの会社(キコが働いてる会社)を傾かせます。
チカラの専務を降ろされるは勘当されるはで、自分が作り出した「支配下の平穏」が全て壊れてメンヘラ化します。
元々チカラは支配欲の塊だったので、アンゴと出会った時にかなりダル絡みするのですが、チカラはこの時から?アンゴの素性調査をし始めます。

チカラのクズムーブはなかなかの見もので、
アンゴが女性だった事を勝手にカミングアウトして、アンゴがキコに手を出さなかった理由は性的に満足させられなかったからだ などとぶちまけ、
アンゴがキコのストーカーをしている という嘘を母親に知らせて呼び出す
等のやりたい放題。

実際、キコが女性として愛される事を求めていた というより、女性として愛されることを知って倒錯してしまった の方が正しいかもしれないです。

アンゴはその倒錯を経験してないから、キコの気持ちがわからなかった。
きっと わかっていれば「キコが離れていった」という勘違いをアンゴはしなくて済んだのでしょう。
それが焦燥感を生んで、チカラという人間への不信感が強くなった(実際そのカンは当たっている)

アンゴはキコのことを「大切な人」とだけ語っています。
キコは「大切な人」という言葉だけでは自己を肯定できないほど、自己認知が歪んでいました。

そしてアンゴも理解していました。
キコには男性の愛情が必要だ ということを。
自分はそれを与えてやれない ということを。

だからせめて、チカラではなく他の男性と幸せになってほしい と願ったからの行動だったのでしょう。

この辺りでアンゴと母親の会話に移ります。
母親はアンゴの性同一性障害のことを「障がい者」と言いました。
割と普通の会話のトーンで、演者の方もあえて悪意などを込めずに言ったのだと思います。

これがきっかけでアンゴは「自分は存在してはいけない人間だった」という考えに至ったのでしょう。
アンゴはキコの幸せを壊してしまって
キナコの中にいたアンゴをキコに否定されて
母親には自分のありのままの姿を否定されて

「人間は他人を依代にしなければ生きることができない」
アンゴは同時に全ての依代を失いました。
依代を失うくらいならまだ耐えられたのかもしれません。
ですが、キコの言葉、キコの中で見出した幸せを壊した とそのように言われてしまったアンゴは、それが耐えられなかったのだと思います。

アンゴは自殺を選びます。
絶対に見つかる形で、絶対に伝わる形で。
きっとあれはアンゴの最後の願いだったんだと思います。
「どうか私を忘れないでほしい あなたたちの心にいたことを覚えていてほしい」と。

ただ死ぬだけなら山の中でひっそり でもいいわけで、自室で鍵を開けて遺書を書いて というのは、切実な、純粋な、死ななければならない潮流の中の最後の生への執着に見えました。

人 は忘れられた時に死ぬ という言葉をどこかで見たことがあります。
アンゴは、「自分」が母やキコから消えてしまったような感覚に耐えられるほど大人ではなかったんです。
それだけ純粋で清らかだった のかもしれません。

アンゴを発見したのはキコとアンゴの母で、遺書はチカラに当てたものでした。
これも「呪い」ですね。
チカラがキコを束縛し続けるか解放するかなんてどうでも良くって、キコの中にチカラがいる限りアンゴも存在し続ける という枷。
チカラは「必死の抗議」と勘違いして耐えられるわけもなく、アンゴは呪いによってキコを解放したかったのかもしれませんが、キコにも呪いをかけます。

自分の愛情を理解できないから
自分の存在場所がないから
これで死を選べば、相手に特大のトラウマと呪いをかけることになります。
アンゴは死んでしまったから、その先にある答えを知らずに終えたのがまた無責任だなって思いました。
自分が原因で死を選ぶ 死を選ばれたときの恐怖は、それは愛情ではなくって脅迫なんです。
でも「死んでしまうこと」が清算になること、それ以上の苦しみがないこと、相手の心に残り続けること って過ると、最後に掴んだ生への執着すらも、それは無になってしまうのでしょうか。

キコはチカラの元に遺書を届けるも、チカラは読まずに焼いてしまいます。
キコはそれに逆上してそこで殴り合いの喧嘩に発展してキコは包丁を手に取ってチカラを刺すのか と思いきや自分を刺します。
冒頭のお腹の傷はこれですね。

アンゴの気持ちを汲めなかったことへの罪悪感からか、自分が満たされていた愛情が虚構だったと気がついて、現実に戻るために刺したのか、実はよくわかっていません。

そしてキコは誰にも告げず海辺の町へ引っ越します。
キコが出会った子は自分の名前を「ムシ」だと思っていました。
お母さんがずっとそう呼ぶから と。
この子の母親役を演じるのは西野七瀬なのですが、これはまたいい感じに若ママ、シンママを演じていて、子育てよりも、母よりも女として生きている感じを生々しく演じていました。
多分西野七瀬に子育ての経験がないから出せた雰囲気であって、実際に子育てしたことがある人の雰囲気なら通報ものです。

母親も人間です。
キコの母、少年の母。
犬や猫 小さな子供からもたくさんの愛情をもらえます。これはすごく純粋で暖かくて大きなエネルギーで。
でも、これだけで人間の心は満たされないのだと思います。
個 としての自分
性 としての自分
親 としての自分
これに加えて社会的立場などの自分があって、これらを全て満たせないと自己の確立ができない人って確かに存在します。

男性としての自分 父親としての自分
女性としての自分 母親としての自分
どちらか一方ではなくて、両方のバランスが取れていないと、どちらかを埋めようとして問題行動につながるのかなと。

特に 男性として求められるか 女性として求められるか は単純で簡単で刺激の強い、明確なわかりやすさがあります。
親としての意義 は子供が大きくなってからわかるもので、わかりにくのかなって。

虐待やDVは不安の転嫁だと思っています。
自分が思い描く完全な安全 そこから逸れることへの不安。
上と下の立場を暴力によって明確にしたい、自分が小さな存在だとどこかで自覚してるから暴力によって上にいけないようにする。
→絶対に逆らわない相手に暴力を振るう
的な。

この少年は「52」というニックネームがつきました。
実の母からも「名前はそいつの父親がつけたから知らない」と言われ、誰も知らない名前。

名前も依代です。
自分が何者なのかを示す依代。
誰かに生を認められて存在を許された証。
少年にはそれがありませんでした。

少年には「愛」という名前がありました。
それは少年の親族を探す旅の中で明かされるのですが、唯一の身内だった祖母は既に亡くなっていました。

実はこの旅にはミハルも同行しています。
ミハルはキコが蒸発して以来、ずっとキコを探していました。
キコには自分の存在を認めてくれる「ミハル」という存在が、「愛」を認めようとする気持ちの後押しになったように見えました。

血がつながらなくても、性別に縛られなくても、愛を知らなくても、誰かを愛してあげたいと思ったとき、一歩踏み出すことが愛そのものである と、キコの中に、愛への優しい母性の目覚めのようなもの感じました。
これを後押ししたのは間違いなく友達のミハルの、まっすぐな優しさです。

これが現実との違い、綺麗事の世界だよな と、半分くらい羨ましさで見てたのがミハルの存在。
損得なしに心配してる姿を見て、「こういう人間がいたら違ったかもな」なんて思ったくらいです。

愛の母は男と蒸発して海辺の町から出て行き、愛を警察に任せるべきだ 児相に任せるべきだ という話が出るわけですが、紆余曲折あってキコの元で暮らしてる所が映ってエンディング。

例え映画だとしても、
「愛されず認められず大人になった人間は人を愛することができるのか」
の回答が「その一歩を踏み出す事が愛する事」だったのが、ちょっとだけ勇気をもらえたというか。

52ヘルツ はクジラの世界でも聞き取れない音域で、孤独なクジラ を指す比喩 なのですが、「たち」とタイトルについてるのは、登場人物全員がなんらかの孤独を抱えている という事なんでしょうね。

それでも私は、自己の存在価値を決定するのは自分のみだと思って生きています。
自分の努力は自分しか正しく評価できず、自分のの能力は自分が一番よく理解している。
他人 という存在は自分を小さくして誤解する生き物だと思っています。
自分が大好き ってわけでもないですけど、自分を愛せない人は他人を愛せない とも思ってます。

だから、キコは自分の今までとありのままを認めてあげる事、自己認知の歪みを治す事で、愛への優しい気持ちに気がついて、一歩踏み出せたのかなって。

私は一人でいいから、行けるところまで全力で走ってみようと思ってます。
命を全うしたとき、後ろに「先生」と呼んでくれる人が一人でもいたら、それは自分が生まれてきた意味があったな って思えるように。.

もし興味が湧いたら、本映画を観てみてください。
私とは全く違う世界が映っているかもしれません。

13/06/2026

【存在価値の証明とパンケーキ(長編)】

「パンケーキって実は牛乳で作るよりもシェイクとか混合物の豆乳で作った方が美味しい?」と思い色々試してみるものの、パンケーキって少量を焼くことが難しくって食べるの飽きてきますよね。
如何に焦げないように
味がしっかりついていて
中はフワフワで
トッピングも頑張って
予め決められたレシピ通りにやれば完璧なものができるはずが、「まあこんなもんでいいか」と気が緩むとパンケーキの出来にそのまま出るので、単純だけど奥が深い、「完璧なパンケーキ」を作るために精進している最中です。

さて、中学生組は中間テストの返却期間に入りました。
学年1位が450点くらいだとすると、テストは450点満点中何点取れるか と置き換えて考えることもできます。
となると、400点以上からの自己ベストの更新はそれ以下の更新より難易度がグンと上がります。
作成者側が100点取れるテストを作ったのか、もしくは平均点を調整するために100点が出ないテストを作ったのか にもよるわけで、全教科80点以上のベースでテストを終えるのはそこそこ難しいと思ってます。そこそこ。

1年間なんとか通い続けてる生徒が400点の壁を越えてから大体15点以上刻み、2回連続で自己ベストを更新し、ここで文章を終えておくか、これを先頭に持ってきてしまえばすごく綺麗な文章ですが、そういうわけにもいきません。

私。
塾の先生の「存在価値」「商品価値」は、
どれだけフレンドリーか
どれだけ面倒見がいいか
どれだけ熱心か
どれだけテスト対策をしてくれるか
では決まりません。
「順位」「点数」「実績」 この3点だけが絶対的な評価基準です。
どれだけ〜の4つのくだりは、くだらない感情論みたいなものです。
「みんな一生懸命やった」「先生は熱心にみてくれた」
そんな傷の舐め合いとか慰めは、払った対価 かけた時間を「諦めます」と言っているようなものです。
例えば「点数が伸びない」「点数が下がった」状態の保護者面談で「夏休み取り返すために夏期講習頑張りましょう」と言われて納得できますか?

これがパンケーキなら次また作ればいい話ですが、人生のかかった学業は「まあ次あるっしょ」は通りません。
「頑張ったで賞」も存在しません。

生徒。
生徒の評価価値も私と同じです。
授業中歩きながら歌ったりホワイトボードに絵を書いたり教室を探検したり踊ったり。
それが許されたのは「一位」だからです。
私の言いつけを守り、課題と小テストを全てクリアし、1位だから私は特権として許しています。

特権の授与とは私からの評価。
いつでも完璧なパンケーキを作れる、パンケーキ免許皆伝状みたいなもの。

ただ、これだと若者に対して厳しすぎるので、落とし所のようなものを用意してます。

「どれだけ頑張ったか なんてものは評価基準の優先度としては最下位か範囲外だと思え」

これはいつも子供たちに訓示のように言い聞かせています。
同時に、
「100点が取れることも稀、100%の力が発揮できる人も稀、小さなエラーが出た時、それを許してもらえるかは日頃の努力の姿が保険になる」
と言い聞かせています。

テスト勉強をしていない 点数が悪い であれば印象は最悪、2倍ではなく指数関数的に評価を落としますが、ここで「先生の指示通りやりました」となれば、これが保険になります。

ただ、テストの点数が思ってたより悪い子はテスト前は自分に甘いんですよね。

きちんとかき混ぜなくてもいいか!
ちょっと生っぽいけどいいか!
と、勝手に自己判断でレシピから逸れた行動をすると、激マズパンケーキがテスト結果として出来上がるわけです。

一位をとる子は割と自分に対して厳しい価値観を持っています。
私はそういうところ、自分に対してストイックなところをすごく気に入っています。

本来ならもっと点数が取れた という言い分にはいろいろ種類があります。
その場の空気を濁すため、次の授業回数につなげるためのおべんちゃら。
どちらの不手際だったのか不明確にするためのノイズ。
明確にどちらかが努力不足だった という指摘。

私は一番下しかあり得ないんですけどね。
今回、1問あってれば100点だった科目が2つほどあったわけで、これは十分に対処できたはずです。
レポートを見ても「不注意」って文言が続いて、だったら「先生の指示漏れ」と書いてくれた方がスッキリしたくらいです。

私がテスト前に「完璧なパンケーキレシピ」を渡した場合は、生徒側はそれを正しく履行する義務が生まれます。
これは「美味しいパンケーキ」のぶつけ合いなわけで、私と生徒はこのパンケーキの品評会のランクで全ての価値が決まります。

こちらがどれだけ完璧なレシピを作ったとしても、それを正しく履行できなければ、本来しなくていい失敗をして、それが重なれば今までの対価が全て無駄になります。

対価対価 とお金や時間の話だとなんか綺麗事っぽいので、本音を記しておこうかと。

私は日頃からブレーキを踏んだ生き方をしています。
自分が熱中してずっと続けて楽しんで結果を出し続けても、周りにはいつのまにか人がいません。
これは大学に行っても変わりませんでした。
「頂点に立つこと」とは、すなわち周りに人がおらず、自分の裾野に人がいる ってことですからね。

例えるならば、レースカーは公道で走るには窮屈すぎる というのがぴったりな例で、公道を走ろうとするとブレーキを踏み続けるかアクセルを開けないか、本来のポテンシャルを抑えて走る羽目になります。
これは車をとても磨耗する行為で、私にとってもストレスです。

これは仕事、教育に関しても言えて、「見たら覚えられるでしょ」「公式って自分で導出できるでしょ」「答えは文中にあるでしょ」なんて自分を基準としたら、私は先生として最も向いてないタイプの人間です。

なので一年かそれ以上の様子見を経て、ブレーキの踏み具合を確認していきます。
要は「自分の熱意にどれくらいついてこれるのか」を計るのですが、自分がノってきても、家庭や生徒がついてこれないとなれば、余計な軋轢が生まれるだけです。

この感情の温度差、コーチングやマネージメントでは致命になります。 

こちら側がどれだけ緻密な対策をして結果が出せる状況を作り出しても、本人に取る気がなければ腐るわけで、私はそれが面白いわけもなく。
「この子は頑張らない子だから程々の熱意に」と調整が効けばもっと楽に生きてこれたはず ですが、そんな器用なことはできず。

怒りを飛ばしても闘争心は芽生えません。
「もっと点数を!もっと上に!」と向上心が芽生えない子は元々持ち合わせてないんです。

なので私は自分の感情のリソースを浪費することなく、その子の面倒を見るのをやめます。

いつからか「本気になること」を忘れてしまって、熱くなれなくなってしまった人って世の中には結構溢れていて。
負けるのが怖い とかではないんです。
本気を出さなくてもそこそこ結果が出せる って環境に慣れて、爪の出し方牙の使い方を忘れてしまって、符抜けになるんです。

従って「闘争心」は天才の素質の一つだと思ってます。
どれだけ知才に恵まれていても、闘争心がなければ成長せず、知才がなくとも闘争心があれば天才に迫る、追い越すことは可能です。

今できることに全力で対処する
今を目一杯楽しむ
今を全力で生きる

これができない人間は「才能がない」と断言してもいいかもしれませんね。

これも一つの人生論、生き方の話になってしまいますが、人間は才能がある人に惹かれるわけでもなく、外見が良いから惚れるわけでもないって思ってます。
好きになるきっかけ かもしれませんが、「愛情を注ぐ存在」とは違います。

「この人のために何かできることをしたい」という感情が愛情ならば、この感情が芽生える相手は「全力で人生を生きているか」ではないでしょうか。

どれだけ不器用でも、どれだけ転んでも、自分が走ると決めたラインをまっすぐに全力で走った軌跡が、「魅力」として、それが大きくなると「カリスマ」として、たくさんの人を惹きつけるんだ と、私は常々述べています。

どれだけルックスがよくても、それは親からの授かりもので、その人自身が体得した魅力ではありません。
その人が全力で身につけたものこそが天衣無縫として、人を惹きつけるのかな と。

つまり、努力ができない 全力が出せない 勝負しない人間は没個性の沼に沈んでいく運命しか待っていません。

どれだけ元が良くても、鍛錬を怠れば錆びるし、錆だらけになってしまったら輝きが消えてしまう。
どれだけ無骨なものでも、磨き続ければ唯一無二の形で光り輝く事ができる。
日本刀の持つ魅力と似てるかもしれませんね。

私は「強火にしたら表面がカリッとすると思ったんだけど焦げちゃった!」的なミスであれば、かなり歓迎的で寛大な態度だったりします。
解釈が難しいかもしれませんが、失敗をする事はすごく良い事で、私は「やってみたけどダメだった!」というタイプの人間は好きです。
この場合はミスから得られるものがあるから、そのミスは途中過程しでしかなく、答えではないからです。

焦げたパンケーキを食べながら次のパンケーキをどのように上手に焼くか作戦会議するのも悪くないですからね。

私は入塾条件に「テストの点数がいい子」とは課していません。
全員を公平に審査するために自分の手元には審査項目を明記したものがあります。

つまり、「最初から400点取れる子」を塾に迎え入れて「400点だぜ!ー!」と言ってる訳ではなくて。

でももしかしたら「お菓子作りが好きな子」「パンケーキが上手に焼ける子」とは書いてあるかもしれませんね(笑)

住所

ちはら台西2-4-7ハナワビル4F
Ichihara-shi, Chiba
290-0143

営業時間

月曜日 15:00 - 21:00
火曜日 15:00 - 21:00
水曜日 15:00 - 21:00
木曜日 15:00 - 21:00
土曜日 15:00 - 21:00

電話番号

+818098631100

アラート

学習塾Noblesse Oblige - ちはら台がニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

共有する

カテゴリー