ひとと同じようにしたい
ひとと異なりたくない
これがかなうと
ひとより優位にたちたい
ひとに劣りたくない
これがかなうと
優位を保ちたい
劣らない状態を続けたい
と思うようになる。
連勝は続かないことは誰もが知っている
この階段を上れなかったひとも
上りつめたひとであっても、
自分はだめだと思うようになる。
人間の欲求に潜む悪魔の階段なのである。
自分らしく生きるとはこの悪魔の階段から自由になる事である。
これこそが渡邊康麿先生の教えである。私の心の支えでもある。
悪魔の階段を超えるためには、自分を受け止め、相手を受け止めた上で、対話をすることだと説く!
これもまさに現代を生き抜く知恵である。
セルフカウンセリング教育研究会(代表 大熊雅士)
セルフカウンセリングを活用した教育の普及・推進 生涯学習セルフカウンセリング学会会長の渡辺康麿氏の考案したセルフカウンセリングを活用した指導法及び指導理念を普及するとともに、さらなる研究を重ね推進していくこととを目的とする教育会
23/11/2020
よく見る夢がある。
「大学の入学試験の前日に覚えていない英語の単語がたくさん見つかって、パニックになる夢」単語ではなくて、文法の時もある。
大学の教員時代は特にひどかった。そんな夢を見て起きてしまった時は、全身冷や汗でびっしょりという時もある。この夢を見た時の目覚めはひどいものだ。夢から覚めた瞬間はこうだ。
「何でこんな単語もわからないんだ。」と言って辞書を引く。「わあーーこれも前に調べたやつだ」一度調べた単語は下線が引いてあるのでわかる。「何で俺は覚えられないんだ」「どうかしてるよ」と頭を掻きむしる。掻きむしる暇があったら、書いて覚えろ!と自分を追い込む。そんな時、何て書けばいいんだ。リアルに単語のスペルが思い出せない。周りを見回すと白紙の紙!俺は何をやっているんだ。今はいつだ?英単語必要か?大学入試?アレ、俺は確か大学の教員だったのでは?英語のテストは必要か?入試終わってるんだろ!お前確か大学卒業しているぞ!
「そうだ、俺は今、大学で教えているんだった。」
「助かった」「良かった」
と思っても、全身汗でびっしょり。
悪夢とはこう言う事を言うんだろうな!と思いながら、心臓がバクバクしているのに気づき、もう英語のテストはないから安心しろ」と自分に言い聞かせて、また眠りにつく。
こう言う夢を何度も見てきた。実は先ほどもこの夢を見た。午前3時56分だった。また、眠りにつこうとしたが、ふとあることに気がついてしまったので、書き留めておくことにした。
それは僕には英語を認知する力が弱いのではないかと言うことだ。言い訳をしているわけじゃない。とにかく英単語が頭の中を素通りしていくのだ。滑っていく感じである。いくら覚えようとしても、頭の中にとどまっていないのだ。今日の夢の時もそんな感じがした。最近朝の番組で、英単語を一つずつ教えてくれるが、次の朝にはスッカラカン、記憶のかけらも残っていない。食べ歩きの料理の内容は思い出せるのにである。いくら思い出そうとしても、単語どころかそのシチュエーションさえ思い出せないのである。僕の珍事件として登録したいほどだ。
歳とって記憶ができなくなっているのではないか?それも確かにあるだろう。しかし、それなら、他のニュースも思い出せないはずだ。他のニュースは記憶を辿れば何とか思い出せるのに、英単語だけは、そのかけらも残っていない。不思議だ。
この様子を英単語が頭の中を滑っていくと表現した。思えば中学生の頃は、何度も何度も書いて覚えようとしていた。しかし、次の日は、いくつか生き残ったものはあったが、そのほとんど姿を消していて、そのかわりに、自己嫌悪と4つの文字が、頭の中にしっかり浮かび上がっていた。
覚え方が悪かったのかもしれない。勉強の仕方があっていなかったのかもしれない。
しかし、これだけでは説明がつかないのである。なぜなら、ある程度の努力はしている英語であるが、努力を全く要しないでもしっかり記憶に残るものもあるからである。
例えば自分が行った講演の内容は、例え1時間に渡った内容でも再現できるのである。それも途中で話をしたジョークを含めてである。
また、読んだ本は表紙を見るだけで、どのあたりにどのようなことが書いてあったのかを思い出せる。ページ数さえ言えるものまである。
もちろん覚える努力など何もしていない。記憶が薄れていく本もある。そのため、新しい事を考える時は、書斎の本の表紙を眺めながら、本の内容を思い起こし頭を整理する。内容を忘れてしまった本が見つかるとページを何枚かめくると記憶が戻ってくるのだ。このようなことができるのであるが、全く努力はしていない。繰り返すが、英語は努力をたくさんしたが、覚えられないのである。その苦しさは今でも夢に登場して僕を苦しめる。
僕がもしアメリカで生まれていたらどうなっていたのか?英単語を覚えられたのか?話せるが書くことができないディクレクシェアになっていたのではないか?そう思えるのである。
意味のないアルファベットの羅列は記憶でないが、意味のあることは覚えられる。このようにまとめをして思い出したことがある。先程の本の表紙を見て内容を思い出すと言ったが、もう少し正確に書くと、表紙から思い出すことは、本の内容から導き出されたエピソードなのである。つまり、自分と本の繋がりとも言うべきものなのである。その意味ではまさに意味ある記憶である。
小金井市の教育目標の中に「笑顔いっぱい、ワクワクいっぱい。」というスローガンがある。
さらに、目指すべき学校像として「一人一人のその子らしさを最大限引き出すチーム学校の創造」がある。僕が教育長になった時に掲げた目標である。これを作る時には明確に意識していなかったが、今朝の悪夢を振り返り、英語はできなかったが、教員になることはでき、指導主事にもなった。さらに大学の教授にもなった。英語ができた方がさらに世界は広がったのではないかと思うが、英語はできないが、自分らしさを伸ばすことはできたのではないか?とふと考えていたのではないか?それでいいじゃないか!それがだからいいんじゃないかとも思ったのではないか?できない自分を叱咤激励するのではなく、できる自分を伸ばす。それで十分ではないのかと!
努力を否定しているわけではない。しかし認知レベルの特性を乗り越えるのは簡単にできることではない。それを続けることは、今の僕のような悪夢を見ることに繋がる。
できない自分によって自己肯定感を下げるのではなく、できる自分をさらにのばす教育を進めるには、教育制度そのものを変える必要がある。容易なことでない。でもここで大きく舵を切らないままでいると、多くの不幸を背負った子供を増やすことになる、そう思えた早朝であった。
久しぶりに今の思いを書いてみました。
「何のために」ではなく、「誰のために」と考える
「何のためにこんなことをしなければならないんだ」と思えて、仕事に身が入らない時はありませんか?
「何のために」と考えているときは往々にして、その仕事をすることによって、何らかの評価を期待していることが多いものです。特に、評価が十分にされていない時にそのような気持ちになることが多いような気がします。
そういう時は、「自分は誰のためにこの仕事をしているのか」と考えてみてください。喜んでくれる誰かを思い浮かべて仕事をするのです。そうすると自分のうちから不思議と力が湧き上がってくるものです。自分のためにできないことでも、愛する誰かのためならできる。それが人間の不思議な力だと思うのです。
根本的な他者評価のあやまり② 親子関係について
親と子の関係の「根本的な他者評価のあやまり」について述べてみたいと思う。
この関係では、他者の目が届かないという点で、企業内でのあやまりより、より深刻になることがある。
親も企業の上司と同じように、いや、それ以上に自分の子どもたちに期待をかける。一見、期待していないように見える親もいることはいるが、そのような行動は、それまでの育て方の中で、子どもに期待を裏切られ続けたため、(あくまでも親がそう思っているだけで、子どもにはなんら問題があるわけではない)期待することによる親自身の傷付きから回避するために取っている行動に過ぎないと考えることができる。
期待が大きいほど、評価基準が高くなることは言うまでもない。さらに、子どもが努力することによってよい結果をもたらすと、親の欲はさらに高くなり、評価基準が上がっていく。走り高跳びのバーを跳び越えることができると、次の段階にバーが上がるようにである。子どもにとって、このような際限のない親の評価基準の上昇は、まさに悪魔の仕業としか思えないだろう。なぜなら、いくら力のある子どもでも、際限のないバーの上昇は、いつしか跳び越える限界が来る。よって、最後まで親の期待をかなえられる子どもは世界中に一人もいなくなるのである。
さらに、評価の在り方にも大きな問題がある。子どもが簡単な計算ミスをした場合、「何やっているの。よく見直しなさいと言ったでしょう」と言うことになる。親自身が子どもの頃、何度も自分の親や教師に言われた言葉を同じように繰り返すのである。この失敗は、子どもが見直しをしないことが原因となってしまったが、それでこの問題の解決策と言えるだろうか。そのように言われた子どもは、次から注意深く見直しをしてあやまりが少なくなったとしても、それは、先ほどのバーが高くなっても、子どもの努力によって、跳び続けているだけである。
実は、このように失敗の原因をその子に押しつけることが、「根本的な他者評価のあやまり」となのである。
その子がケアレスミスをしてしまったのは、日頃から丁寧に計算をする癖を付けていなかったからではないか。日常の練習の時、いい加減な見直ししかさせていなかったからではないか。練習の時にきれいな字で書いていなかったからではないか。前の日に、十分に睡眠を取らせていたかったからではないか。等々、その子を取り巻く環境やそれまでのかかわりに問題はなかったか、企業の時と同様に、かかわりのシステム全体を見直す必要があるのである。
それをなしとけなければ、この問題の根本的な解決には至らないのである。
今回の例は計算違いであるが、いじめ問題や不登校問題も同様に考えるようにしたい。友達をいじめてしまうのは、その子の問題とだけ捉えるのではなく、その子にかかわる教師として、親として、大人として、何ができるか考えるようにしたいのである。
問題発生時に、問題を起こした子どもに原因を帰属させるのではなく、かかわる大人として何ができるか、どのようにかかわりを工夫することができるか。かかわるシステムをどのように変えることができるかを考えていきたいのである。
そのようなかかわり連続が、一人一人を大事した教育を実現することになると考えるのである。
根本的な他者評価のあやまりについて
人は他者とのかかわりなしに生きてはいけない。それが最近他者とのかかわりが上手にもてず、無用なトラブルに巻き込まれている人が多くなったような気がする。それが原因で、その人が本来持っている「強み」を発揮できないばかりか、心の風邪をひいてしまう人も多い。
私は、人は、この世に生を得たときから、この世に存在する価値があると考える。それを私は、その人の「強み」と表現したい。その人なりの「良さ」ではない。なぜなら、「良さ」といった瞬間に他者より優れている点、他者より秀でていることことでなければならない。これでは、すべての人がその人なりの「良さ」を持てなくなってしまうからである。
なぜ、そのような「強み」を生かすことができず、自分は力のない人間であると思ってしまうのであろうか。
人には多くの関係の中で生きている。それは、上司と部下の関係、同僚の関係、親と子の関係、教師の教え子の関係等様々である。
それぞれの関係の中で、他者が自分を評価し、自分が他者を評価しながら生きている。その人なりの「強み」生かす事ができないのは、この評価の在り方に「根本的な他者評価の誤り」があるからである。
まず、上司と部下の間の「根本的な他者評価のあやまり」について解説したい。
上司である以上、その組織の目標を達成したいという目標がある。その目標を達成したいという思いがあるからこそ、上司としての存在意義があり、その目標を達成できなければ、上司としての存在価値はない。よって、上司であるからと言って、常に何かに突き動かされている存在といえる。
そのため、上司は、部下に対して目標を達成するために多くのことを期待する。当然のことである。
ここに大きな問題が存在することになる。それは、期待に対する評価基準ができ方に問題がある。その期待の基準はどのような出来上がるかというと、その上司のそれまでの自己形成史において築き上げらてきたもので、意識しているか無意識であるかの違いがあっても、揺るぎのないものとなる。なぜなら、その基準は、「これまでのこのようにやってきて成功してきた。」「このようにしたことによって失敗した」というその人の成功経験や、失敗経験に依存している場合が多いからである。
常に、上司の期待通りに活躍する部下であれば、まだよいのであるが、そうでない人の場合、失敗をした瞬間に「何やっているんだ」「また、失敗したじゃないか」「あれだけ言い渡したではないか」と言うことになる。これでは、部下は浮かばれない。失敗した部下は自身の自己評価を下げるだけで、ますます、仕事への意欲を失うことになる。
このように、失敗の原因をその人に帰属させてしまう他者評価を行っていると、その人が改善しない限り、次の成功は望めなくなる。その失敗が、指示の仕方や、組織の在り方等のシステム依存するものでにあったとしても改善されず、次の課題に向かうことになり、また、失敗を繰りかえすことになる。まさに悪循環である。
この悪循環が改善されないのは、上司であっても組織の目標に突き動かされている存在であり、冷静な判断ができなくなっていることも、その原因としてあげられると思う。
いずれにせよ、どのようにすれば、この悪循環から脱することができるであろうか。その一つの方法として、「根本的な他者評価のあやまり」を正すことにあると考えるようになったのである。
まず、他者評価の基準は自分の自己形成史によって、できあがっているものであることを意識することである。次に、失敗した部下が置かれている状況を自分に置き換えて経緯を振り返ってみることである。「指示をしっかり理解できていたか」「失敗の予兆に気が付いた時、改善の方向に向かうために、相談のシステムは整っていたか」「応援は適切であったか」などである。
つまり、失敗をその人自身に帰属させるのではなく、失敗を生んでしまった組織やシステムの問題として改善を図ることが大切なのではないかと考えるのである。
これは、親子関係においても同様であるし、教師と教え子の間でも同じであると思う。その解説は、次回に試みたい。
欲求の押しつけとは
人との関わりの中で、突然、心が沸き立つときがある。その時の心の内を表現すると「むかっっ」「えーーっ」「なんでぇー」などになるだろうか?
このように心が沸き立つことは誰にでもある。しかし、この後、その心の沸き立ちをどのように相手に伝えるかで、その後の様相は大きく違ってくる。
会社の同僚同士で、このような心の沸き立ちをストレートに表現してしまうと、たちどころに立場を失い、いずれその職も失うことになりかねないのではないか。また、これを上司が行えばパワハラとして訴えられることになる。テレビでは怒りまくっている「あほな上司」がよく登場するが本当のところはどうなのか、筆者にはそのような経験がないのでよくわからない。
一方、学校ではどうだろうか?かなり改善されてきてはいるものの、校長のパワハラが未だに根強く残っている学校があることを知っている。
世の中はこのようにある程度はよい方向に進んでいるものの、依然として、この突然の心を沸き立ちを表現しても問題になることが少ない関係が世の中には二つ存在する。それは、親と子、教師と教え子の関係である。「何やっているの、早くしなさい」「ほらほら、さっき言ったばかりじゃない」「さっさと宿題やりなさい」的な言動がそれにあたる。これは、「しつけ」と言う名目で行われていることも多い。
ちょっと横道にそれるが、最近、このような子育てに関する話をすることが多くなった。その時、今回のような話の展開をすると、「それをしつけ言ってはいけないんですか?」とあからさまに表情が変わる人がいる。それを放置したりすると、途中で席を立つ人もいるくらいだ。気をつけなければいけない。それほど、自分の欲求を抑えられに人が多くなっている気がする。そのような人が子育てをすることとなるとどうなるかかなり心配である。
本題の戻そう、「しつけ」として、今、ここでしっかり言わなければいけないと判断したときは、そのような言葉が確かに「しつけ」として有効であることもある。その時は、穏やかな声の調子になるはずだ。厳しい口調になっても相手が理解したときは、すーっと声の調子が元に戻るのである。
私がここで問題にしているのは、子どもとの関係で自分自身の沸き立つ気持ちを抑えきれないで「早くしなさい。何やっているの!」と言っている、いや、怒鳴ってしまうことなのである。
このような感情にまかせた言動は、親や教師自身の欲求を子どもに押しつけであって、「しつけ」とはほど遠いものなのである。
この時、親や教師は、子どもが自分の望んでいるように動くことを、ほとんど当然のように感じている。親自身でも朝起きるとき、なかなか起きられなくて困るときがある。自分自身であっても自分の思い通りには動かない。ましてや違う体を持ち、違う考えを持っている他者(子ども)が自分の思い通りに動くことなんてあるだろうか。
いやいや、子どもの方が自分自身よりよく動くことさえある。それは、子どもが親や教師のことが好きであり、大切にされたいと思っているからなのである。けなげと言ってもよい。中には自分の命を守るために言うことを聞くなどという子どものいることもある。悲しいことである。
欲求の押しつけとは、自分の感情をそのまま他者(子ども)に押しつけることを言うのである。
ストーカーの問題がまた、世間を騒がせています。自分の生活とストーカーは全く別だと思っている方が多いように思いますが、実は、一人一人の心の中にもストーカー的な行動はあるのです。ストーカーは相手が嫌がっているにもかかわらず、それを継続することに問題があります。我々の心の中にあるストーカー的行動とは、相手の傷ついていることに気付き、その行為をやめるので問題には発展しませんが、傷つけてしまったという点では共通しているのです。
ここでいうストーカー的な行動とは、知らず知らずののうちに相手に自分の考えを押し付けてしまうことを指しています。哀願や命令だけではありません。評価することや、自分の説を説くことも実は、それに当たりるのです。なぜなら、これらの行動は、自分の考えを相手に押し付けているという点では共通しているからです。
このように、欲求の押し付けは、次の3つに分類できます。
1、欲求の押し付け
2、評価の押し付け
3、解釈の押し付け
さらに、
相手の言葉を遮ること(4、対話の打消し)も、自分の言いたいことを通すための手段と考えれば、同じ欲求の押し付けになると考えます。
これから、これを一つずつ解説していきたいと思います。
不登校の子どもに対して
その昔、不登校になってしまった子どもには、登校刺激をしてはいけない。と言われていました。それが平成14年度の文科省の不登校対策資料では、「適切な対応をしなければならない」に変わりました。そのため、その報告書には子どもが学校に行こうとしたときの関わり方が示されるようになりました。実は、その資料を作るときの委員でしたので、その経緯を知っているのです。
その経緯について少し説明したいと思います。登校刺激をしてはならないと言うことが広まったとき、学校は本当に何もしなくなってしまったのです。電話をかけることも、親御さんと連絡することも、とにかく何もしなくなったのです。学校は何かしようとすると当時のカウンセラーは、「不登校について何も知らないのか」という感じで、それを戒めていたくらいです。
登校刺激をしてはならないという資料が出ても、不登校は増え続けました。実は、平成14年度にその報告書が出てからは、増えることはなくなり割合としてほぼ毎年同じ数字を示すようになりました。
ということは、不登校になってしまった子どもには、やはり、登校刺激をした方が良いのでしょうか。これを子どもの立場に立って考えてみましょう。
朝、学校へ行けない子どもに、「今日も学校に行かないの?お母さんは学校に行った方が良いと思うけどな。どう?」とやさしく登校刺激をしたとします。さて、それを聞いた子どもは、どう思うでしょうか。「そうだな。やっぱり学校に行った方が良いな」と思えるようになるでしょうか。
そう賢明な読者はもうおわかりでしょう。いくらお母さんにやさしく言われなくとも、子どもは学校に行かなくていけないことは痛いほどわかっているのです。それだけではありません。そう言われた瞬間、行けない自分は「だめな人間だ」と考えるようにならないでしょうか。もちろん、このような刺激によって、学校に行ける子どもはよいのですが、それを言われても、学校に行くことを実現できない子どもは、「やはり自分はだめなんだ」という自覚を促すことはあっても、学校へ行こうとするエネルギーをためることはできません。
不登校は、学校という場所で、人との関わりに疲れてしまったり、傷ついてしまったため、その場所から一時的に逃れたいという気持ちが強まってしまったときに起こります。よって、その疲れを取り、傷を癒やすことができない限り、学校へ行くことはできません。ゆっくり、ゆったり、心も体も休める必要があるのです。
しかしながら、毎日に様に、「学校に行きなさい」と促され続けたのでは、心をゆったりと休ませることはできないのです。それでは、いつまでたっても学校に行くことはできません。平成14年度の報告書による適切な登校刺激とは、子どもの心が学校へ向いたときにそれを促す行為が書かれてあるのであって、不登校になってしまったときに学校へ来るように促すことが大切であると言っているのではないのです。
よって、不登校になってしまった場合には、それなりに時間がかかるのを覚悟しなければなりません。だからこど、不登校対策は、それを未然に防ぐ方法が何より大切なのです。これは、最近多く見られるようになった鬱病も同じことが癒えるのではないかと考えるようになりました。
04/09/2012
今年の「みどりの東北元気キャンプ」の支援者の目標は、「ちょっと待て、すぐ手伝うな、口出すな、よく見、よく聴き、よく考えよ」でした。これは、子どもが自ら挑戦し、それを成し遂げ、それを自分自身の力として自覚する(マスタリーを得る)ためには、支援者は、子どもが活動に安心して取り組めるようにサポートすることが大切であって、活動そのものをサポートすることではない事を示したものです。支援者が子どもに手取り足取り教えたり、手助けしてしまっては、子どもがその活動を終えることができても、活動を成し遂げることによって、自信を持てるようには成りません。そのような活動には、支援者の「どや顔」だけが存在するだけであって、このキャンプの主旨である「参加したすべての子どもにマスタリーを得させること」を実現することはできません。
この現代社会には、急速な情報機器の普及に代表されるあらゆる機器の発展や、社会の構造変化により、この「待つこと」が、なくなってきているように思えてなりません。
携帯電話の普及により、「待ち人」がいなくなりました。遅れそうになれば、事前に電話を入れればよくなったからです。電話をもらった方も、その時間を別のことをしていればよいわけであって、昔のように、その人が来るまで、待ちわびる事はなくなりました。
メールの普及は、手紙を待ち焦がれることをなくしました。メールは間髪を入れずに対応しなければなりません。すぐに返事が返ってこなければ、2人の仲をおしまいになるだけです。会社であれば、信用がなくなります。ここにも、「待つ」ということはありません。
昔の食事はまさに「待ち」の連続でした。ます、お米が水を吸うのを待ち、米を炊き、蒸らす。その一つ一つがまさに、「待ち」であったわけです。しかし、今は、「玄関開けたら、サトウのご飯」のように、チーーン一発30秒で温かいご飯となるわけです。
また、お父さんが帰ってくるのを待つであるとか、家族全員がそろって「いだだきます」をする。なども「待ち」でした。今の家族にこのような「待ち」は存在するでしょうか。
コンピュータの立ち上げ時間は、限りなく0に近づき、デジタルカメラは、スイッチを押したらすぐに写真が撮れることを一番のコンセプトにします。宅配便や通販は、翌日どころか「その日の内に配達」を売りにする有様です。
このように現代は、待たなくてもよい社会を実現しようとしています。そのような社会にどっぷりつかっていると、待つことができなくなっていても仕方ありません。
子ども、自ら自信を持つためには、もちろん、「レンジでチン」というわけには行きません。何より、傍らで見守り続ける「待ち」が大切なのです。待たなくともよい社会に生き続けている私たちにとって、この「待つ」ということが何より難しいことになってしまっているのです。それを戒めるために、キャンプ場の一番目立つところにこの言葉が掲げられているのです。この言葉は、実は、セルフカウンセリングの考え方なのです。
この夏は、みどりの東北元気キャンプを行っていたため、投稿ができませんでした。これから少しずつ書き込みをしていきたいと思います。よろしくお願いします。
先日、特別活動学会で発表するために、愛媛まで行きました。発表が終わったあと、道後温泉まで足を伸ばし、道後温泉本館へ行きました。本館の屋根の作りや石造りの湯船は正に湯婆ばの世界でした。この夏の疲れを取ろうと湯船につかっていると、2つのちょっとした事件が起きました。
一つ目は、僕が湯船につかっていると突然、頭に水がかかりました。一度目は気にしなかったのですが、2度目3度目とかかるので振り返ると、洗い場でシャワーをつかっている人の水が湯船の方まで届いていることがわかりました。シャワーが5つ位ありました。ちょうどその時、3人の人が頭を流していました。なんと、僕の方まで水が届いているのは、僕から一番遠い人からでした。他の2人は、頭を深く下げて流しているので、水は全く飛び散らない様子も観察できました。この両者の違いはどこから来ているのだろうかと考えるために、僕は、水のかからないところに移動しました。
水と飛び散らせている人は、いかにも若い感じでした。動きも素早く、シャカシャカとした感じです。他の2人はゆったりとした動きでシャワーを使っていました。とにかく、自分が使っているシャワーの水の先端まで心を届かせている人と、全く気にしていない人がいることだけはわかりました。
石造りの湯船は、普通の湯船より深くどっぷりと湯につかれるようになっているのですが、湯に入るために足がかりとなる部分が狭く、そこに座っていると安定しない構造になっていました。しかし、温度といい、体にあたる湯の質感といいとにかく申し分なく、とにかくゆったりと温泉を満喫していました。宮崎駿もこの湯につかりながら、千と千尋を構想したんだろうななんて考えている時、2つ目の事件が起きました。
突然、僕の体が波によって大きく揺らされました。目を開けると僕の前で湯につかっていた親子の息子の方が湯から出たからです。座っているところが狭いため、波の影響をもろに受けたのです。考え事をしていたのでちょっとびっくりしました。また、瞑想?に入ろうとした瞬間、今度は父親の方が湯から出そな様子なので、僕は、ちょっと足に力を入れさっきのようにならないように準備をしました。ところがどうでしょう。父親が湯から出ても、全く波が立たないのです。僕の準備は取り越し苦労に終わりました。
それから、一人一人の湯の出方に興味を持つようになり、湯から出る瞬間に波が立つか立たないかを予想することにしました。中には、波はおろか外に出たこともわからないように出るお年寄りもいました。出る時だけでなく、入る時も大きな波を立てて入る人もいました。波を立てて出る人と波を全く立てずに出る人にはどんな違いがあるのでしょうか。観察していてわかったことが一つあります。それは、体格には全く関係ないと言うことです。
疲れを取るために立ち寄った道後温泉でしたが、湯の中では、こんなことを考えていたのです。
ここで、観察結果を報告します。シャワーで水を遠くに飛ばす人とそうでない人、波を立てる人とそうでない人は、共通していました。もちろんすべてでの人がそうではないのですが、親子の例でもわかるように、若い人ほど、水を飛ばす距離が長く、波の高さも高い傾向があると言うことです。
なぜ、このような事が起きるのか、まず始めに考えたことは、銭湯を経験している人とそうでない人に分けられるのではないかでした。下町に住んでいた僕にとって、銭湯は子供心に楽しいところでもあったし、恐いところでもありました。シャワーの水が他の人にかかったり、湯に入る時、波を立てたりしようものなら、おじさん達に睨まれ、身のすくむ思いがしたのを今でもよく覚えているからです。
しかし、このような直接経験をした人は、それほど多くはないのではないかと思いました。田舎には銭湯などないですからね。その先は、考えを深めることはできませんでした。いずれにせよ。湯船につかっている他の人のことを考えて、湯から出ることができる人とそうでない人がいること、シャワーを使うと、シャワーの水の先端まで心を届かせることができる人とのそうでない人がいることがわかりました。その時湯につかりながら、他者の気持ちを理解する場として、セルフカウンセリングはあるのかななどと、ぼんやり考えました。
これからは、8月8日の研修会の準備を始めます。その前に「みどりの東北元気キャンプ」があります。この会では、ここでは説明していないセルフカウンセリングのメソッドを活用した教材を紹介します。コミュニケーショントレーニングや道徳の授業教材、国語の読解等です。これらは、これまで一緒に研究をしてきた宮内先生や堀口先生にお願いする事になっています。僕は、子どもとのかかわりや授業の進め方を中心に話をするつもりです。
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