世界遺産と寺島宗則 遺伝子研究室 Meme Lab,

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24/08/2015

『寺島宗則物語』の執筆を終えて… 
あなたは日本のダ・ヴィンチを知っていますか?

あの名画『モナ・リザ』を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチは、15世紀ルネスサンスの最盛期に活躍した誰でもが知る「万能の巨人」です。
彼は絵画以外にも、彫刻、建築、土木、科学技術に優れた才能を発揮し、そのマルチぶりから「天才」と称されました。
同じくここ日本にも、幕末の激動の時代にその多彩な才能により、数々の功績を残した人物がいます。
その人物こそが、この物語の主人公寺島宗則でした。
彼は「日本電気通信の父」と呼ばれていますが、通信技術導入はもとより、開国後の、新国家に必要な外交、教育、交通、海事、裁判、保安などの確立に東奔西走しています。
一人二役どころか、一人十役といったところでしょう。周りを見渡してみてください。携帯電話、ガス、電気、医学等々、彼が関わっていないものを探すのが大変なくらいです。
ダ・ヴィンチのように名画こそ描きませんでしたが、私たちの生活に欠かせない数多くのものが、彼の研究や努力によって日本にもたらされました。
名前も知らない。名前は知っているけれど彼がどんな仕事をしたのか、実のところは分からない、という人は多いかも知れません。
確かに寺島は、常に縁の下の力持ちに徹し、表舞台に顔を出すことはなかった人物であるようです。
しかし、アジアの片隅の小さな島国であった日本が、明治維新の後、いち早く先進国と呼ばれる国の仲間入りが出来た背景には、彼のように、将来を見据えて行動出来る人物の存在こそが不可欠でした。
マルチな才能を持ちながら、控え目で、その一方、これと決めた時の決断力や忍耐力、そして世界を見渡す広い視野をもつ寺島こそ、これから世界の表舞台に飛び立とうとしている若者たちにとって、あるいは混迷を極める国際社会の中で日本の立場を主張していかなくてはならない日本人にとっても、学ぶべきところの多い人物だと思います。
でも、なぜ? と疑問に思われるでしょう。
今から百数十年年以上も前の人物が、まだ鎖国状態の日本にあって国際的な感覚を身につけることができたのか? そもそも九州の、それも南の端っこ(薩摩)で生まれた寺島が、どうしてこれほどまでに多方面で活躍できたのか? 
 さらに薩摩といえば幕末に西郷、大久保、島津斉彬、他にも多くの偉大な人物を輩出したところですが、彼らと寺島がいかに関わって来たのか? 日本が大きく変ろうとした時代に、もし寺島がいなければ、はたして日本の行くすえはどうなっていたか? 
今や世界のいたるところに、日系企業が進出し、海外在留邦人の数は百万人ともいわれています。「グローバル化社会」という言葉が使われ出して久しいのですが国際社会の中で右も左もまったくわからないあのような時代であったにもかかわらず、寺島は奇跡的なほどにまさにグローバルな感覚を持ち合わせた人物だったといえます。色々な分野で、彼が手掛けたことを列挙するだけでも、興味は尽きません。
高度情報化社会の礎を気づいた立役者、外交のスペシャリスト、先駆的な国際人寺島。そんな彼がもし現代にいたら、私たちにどんなアドバイスをしてくれるのでしょう? 
そんな疑問から、寺島宗則なる人物をもう一度、再評価してみようという声があがりました。いま一度、彼の人生を物語でたどりながら、「幕末のダ・ヴィンチ」と呼ぶにふさわしいマルチ人間・寺島の偉大な功績の一端を本書で知っていただければ幸いです。
           
【主要参考文献】

寺島宗則          犬塚孝明 吉川弘文館

薩摩藩英国留学生      犬塚孝明 中央公論社刊

寺島宗則関係資料集     寺島宗則研究会編 示人社

日本電気通信の父 寺島宗則 高橋善七 国書刊行会

堂々日本人物史  島津斉彬 筑波常冶 国土社

五代友厚          真木洋三 文藝春秋刊

薩摩スチューデント西へ   林望   株式会社 光文社

西郷隆盛          池波正太郎 株式会社 角川書店

鹿児島タイムトラベル    株式会社 トライ社  鹿児島県
 
飛ぶが如く        鹿児島市

日本の歴史 十三 明治時代1責任編集・考証 笠原一男

24/08/2015

『寺島宗則物語』
【最終回】 日本のダ・ヴィンチの死

1983年、62歳の寺島宗則は危篤状態になりました。
最後、寺島は看護師たち向かって、条約改正について意見があると告げると、秘書たちに「俺がいうことを筆記しろ」と命じ、自分の意見を話しました。それをすませると意識が遠くなる中で、
「妻よ、子供たちよ。ありがとう」寺島は家族に今までのお礼と、別れを告げました。その後光が失われつつある瞳で寺島が見ていたものは……。
  寺島の目には、故郷の風景が浮かんでいました。
「なんで勉強せんとならんとか?」佐助の声が聞こえます。佐助も寺島もまだ子供です。目の前には青い海に浮かんだ小島、寺島が見えます。足元には波が打ち寄せています。砂浜は陽ざしを浴びてキラキラと輝いています。
「佐助、俺の仕事が、将来の日本のために少しは役にたったか?」すると佐助が「まあ合格やっが」笑顔で答えてくれました。すると今度は五代が現れ、
「船で脱出したときは、難儀やったなあ」相変わらずの彼の口調に寺島の口元がゆるみました。
「幸、名前の通り幸せになって下さい」また幼い自分がいます。風が吹きぬけます。若い頃の登茂がいます。
「こちらこそよろしくお願いいたします」登茂が頭を下げたときに、見せた白いうなじを寺島は思い出していました。
「勉強は、知りたいことに近づくための手段なのだ」亡き父の声です。突然斉彬公の姿が現れました。
「まさに弘安は、ダ・ヴィンチであるな」殿が高らかに笑っています。寺島の瞳から涙が溢れ出ました。
「斉彬様また、私にどしどしと難題をいってくだされ」少しずつ顔の表情が穏やかになっていきます。
「佐助、薩摩の士、すまんかったな。俺がもし政府に提言すれば、おはんたちは生きて戦から帰り、また良か世を暮らせたかもしれん。じゃっどん、俺には政府の人間としての使命がありもあした。死んでしまった大久保どんも、西郷どんも薩摩のこと、日本のことを誰よりも思っちょった。ただ、時代が、それぞれの人間に与えた役割が違ごたとかもしれんなあ。俺も皆さんのところに行きもんで、そん時は、今度こそ薩摩なまりで、好きなだけ将来の日本を語りもそ」寺島の口元が微かに動きました。次第に波の音が大きくなります。海の向こうに寺島が見えます。
雲が割れてそこからさした眩い光の帯が小島全体を包み込みました。
「語りもそ……」

学者としての精神を最後まで失わず、ひたすらにひたむきに研鑚を積み、前に出過ぎず目立つことを嫌っていましたが、国を思う気持ちはほかの誰にも負けない寺島宗則の生涯でした。
日本国のために走り続けた怒涛の62年間でした。
(おわり)

19/08/2015

『寺島宗則物語』
【第21回】 最期の激務

その後寺島は体調を壊しながらも、寝食を忘れて仕事に励みます。
「いい歳ですから、無理をなさらないでください」周りが気をつかいますが、
どんなに体調が悪くても仕事を優先します。
無理を押して参加した議会中に倒れたこともありました。
「寺島さんは、なぜそこまで頑張れる?」
役人たちや部下が彼の体を心配します。
「いや、私の成した仕事が日本の将来の役に立たんといかんとです」
意味を理解できない部下が頭を捻ると、
「幼なじみが、天国から私の仕事ぶりを眺めておるのです」
寺島は淡々と言いました。

妻登茂の再三の忠告で、一時療養しますが、少し体調が戻ると、すぐに激務の中に飛び出していきます。

ある日、意外な人の訪問がありました。
年を取っていましたが、すぐに木村清次郎だと分かりました。
「その節は、大変お世話になりもした。あなたを探したのですが」
寺島は深々と頭を下げました。
「いいえ。私こそお世話になりました。あなたにお会いして、私も目が覚めたのです。現在、横浜外国事務の仕事に携わっております」
「そうでしたか、わざわざ遠いところを」
「あなたのご活躍いつも耳にしておりました。ただ、体調を崩されたと伺ったものですからお見舞いをかねて参りました」
彼は大きな籠を提げています。
「いや、あの頃の苦労を考えれば、これくらいの仕事なぞ、大したことはなかです」
寺島はこぼれるような笑みを浮かべました。
「お体に気をつけて下さい。あの頃みたいに無理はききませんから、お互い」
「そうですね、毎日が命がけでした」

寺島が遠くを見るような目をすると
「確かに」また二人は穏やかな笑みを交わしました。

木村の忠告にもかかわらず、相変わらず寺島は激務をこなします。
「これだけの実績を残しているわけですから、そろそろ、ゆっくりしてはどうですか? 寺島さんは働き過ぎです」部下が忠告しても、寺島は仕事の手をやすめることもなく、
「国のため家族のために必死に働き、必死に生き、戦って死んだ人たちが私の周りに一杯おりもす。残った私が悠々としておられますか?」
「でも、あまりにも激務で」
「戦を考えれば、どげんもなか」
「この仕事は戦ですか?」
「昔、ある外国人から貿易も国交も弾丸のない戦やっちいわれたことがありましたな」手島は若い官僚にそれだけいうと、また手元の書類に視線を落としました。
確かに、寺島の成した仕事はあまりにも多岐にわたり、そして日本の発展のための重要なことばかりでした。
「私のかわりがおれば、そいに任せるがそげんな奴が政府におるか?」

これは決しておごりでも、うぬぼれでもありませんでした。
法律の整備や、未解決のままの不平等条約改正のための交渉、日本文化にとって基礎となる教育制度の改革、憲法起草、帝国議会の設立、税制の調整、為替制度など、今の省庁のほとんどの幹部を歴任しながら、一線で活躍しています。

今ではとても信じられないことです。
四つ五つもの大臣を一人でやっているようなものです。
「山の頂上から見れば色んな事が分かる、まだまだ勉強せんといかんな。
まだ高か山が見えてきた。てごわかぞ。まるで桜島みたいじゃ」
寺島は親の言いつけ通り勤勉を貫きます。

まさにスーパースターです。激務の中で寺島は、時の歌舞伎役者、市川団十郎らの観劇を天皇に披露するなど、天皇のお供を何度も命じられています。
持病のリューマチが度々再発しますが療養して、少しよくなるとすぐに現場復帰です。

晩年は国際的政治体験から、政府に対してかなり厳しい意見を述べたり、自分の意見を書籍にして出版しています。
任務をとかれた後も、特に外交問題については、(日本の揺らぎのない方針がないから外交でも及び腰になるのだ。功績を上げることを考えるより、緻密な作戦を練り、腰を据えて外交に当たるべきである)と政府に苦言を呈しています。

病で床に就いた寺島を見舞う誰彼となく寺島は、国の前途を心配して心情を語ったようです。
特に外交に関しては自らの失敗や、経験を踏まえ、しかるべき人材を訪米派遣し、まず英国から交渉すべきだと述べています。
この考えは、後々、改正交渉の際に生かされたといいます。
亡くなる三年ほど前、全国紙のある新聞は「寺島伯病苦を忘れて国を思う」との表題で一文を載せたくらいです。

(次回最終回)

16/08/2015

『寺島宗則物語』
【第20回】 西南戦争②

1877年冬、寺島は海外との郵便事業に関する条約加盟のために奔走します。
同じ頃、薩摩軍は50年ぶりの雪を踏みしめて、鹿児島を発進しました。
寺島のもとに、ついに西郷が兵を挙げたとの話が伝わってきたのは、佐助の手紙が届いたほんの数日後のことでした。
政府内もあわただしくなります。
寺島が、外務卿として朝鮮との交渉、小笠原、琉球の問題などの対応に、忙しく走り回っていた頃です。
「西郷さん、あんたは死ぬつもりじゃっとか」いつも冷静な大久保が、頬をひきつらせて叫びました。すでに前の年から、大久保は、西郷の動向を探らせていました。西郷が方々から銃器を集めているという情報を得ていたのです。政府官僚たちが口々に言いました。
「薩軍の兵力は、私学校党が一万三千人、自ら志願したものらが一万人、九州各地からの義勇兵が加わって総勢三万人ほどらしい」
「今までの内乱とはケタが違う」
「西郷は薩摩で独立国を作っておったのか?」
集まった官僚が口々に言いあいます。
 薩軍出兵の知らせを聞くや、東京政府も戦争の準備を整え、天皇家の親王が征討総督に任じられました。この勅書によって薩摩軍は賊軍となってしまったのですが、わずか十年前、江戸の賊軍を打つべく、活躍した薩摩軍が今度は、全く正反対の立場になってしまったのです。
佐助は自ら志願したのでした。物心ついたころから憧れていた西郷隆盛の呼びかけに応えたためでした。また幸の夫に限らず、生活に困った下級武士たちの役に立ちたいと考えたからです。ケンカ早く、それでいてとても優しくて熱血漢で幸のことも最後まで心配してくれた男、佐助。彼らしいと弘安は思いました。また幸の弟、国松も参戦したことを知りました。
「薩摩の兵士たちは、楽勝を疑うことなく熊本を制圧するとうそぶいているようです」
「西郷ひきいる軍、あなどれん」
「一気呵成に東京を目指すと言っているらしい」政府の役人たちは、右往左往しています。
内心、不安で複雑な心境ですが、それを顔に表さないのが寺島です。
故郷を出た佐助たちは今、熊本をめざしているのか? はたしてこの戦いは、日本にとってどんな役割を果たすのだろう、寺島は先のことを考えます。
もし内乱が長引けば、諸外国も無視はできないだろうと思いました。国際的な観点からこの事態を見ているのです。
また新たな戦況が寺島の耳に入ってきました。
「戊辰戦争で勝利した西郷の薩軍が来るときいただけで、熊本城を開城するものと、薩軍は思っていたらしいが、なかならそうはいかないらしい」
「熊本城は城作りの名人加藤清正が手がけた天下の名城ではないか、そう簡単には落とせん」どうやら薩軍は苦戦しているようです。戦闘中、薩摩軍の猛烈果敢な突撃を必死に持ちこたえる政府軍兵士の奮闘ぶりを山の上から見ていた西郷は、
「徴募兵もたいしたものじゃ。これで日本の軍隊も大丈夫」とつぶやいたそうです。
熊本城を落とせない薩摩軍は、四月には撤退を余儀なくされました。
田原坂を失って以来、日に日に敗色はこくなっていきます。
「政府軍は一日だけで、数千発の砲弾と四十万発の小銃弾を使っているらしい」想像もつかない攻撃です。
そのような話を小耳にはさみながらも、寺島は仕事の手を休めません。
「皆、犬死にせんでくれ」口の奥で念仏のように唱えるだけです。
戦いが始まってすでに二ヵ月が過ぎようとしていました。
兵も物資も食料も充分に補える政府軍に比べて薩摩軍は弾薬も底をつき、兵の数もかなり少なくなっているとの報告が入りました。
「薩摩軍の死傷者は相当数にのぼるらしい」役人の一人が言います。
佐助や、幸の夫、斉彬公の多くの家来、薩摩藩邸にいた、士族の連中はいまも命がけで戦っているのかもしれない、そう思うと寺島は居ても立ってもいられません。しかし寺島にはどうすることもできません。それに寺島は政府の高官です。手紙で幾度となく戦況や、佐助、故郷の事を実家や佐助の方にもたずねますがなかなか返信がありません。
家に帰っても、そのことが頭から離れません。夫の気持ちを察した妻茂登も余計なことは口にしません。久しぶりに早く帰ってきた父に子供たちがまとわりつきますが、
「お父様はおつかれです」と子供たちを叱りました。多忙でどんなに疲れていても、床に入ってからも目が冴えて眠れない夜が続きました。
 うとうととすると、故郷の風景が浮かび上がってきます。幸の弟国松が乗馬が出来るようになったと得意げに話した時の、幼い彼の表情が浮かびます。
わざわざ鹿児島まで足を運び一晩酒に付き合って慰めてくれた佐助。幸との別れの日最後まで見届けてくれた佐助。地元の英雄西郷のことを誇らしげに語った佐助。
「佐助、死なんでくれ。手紙に書いてあったように、またよか世で会おう」寺島は呟きました。
今度の内戦は、当然外交上の問題にまで波及しました。
寺島は外国人たちがこの戦に巻き込まれてしまうことを心配しました。そのことが火種になって国際問題に発展してしまうことを経験から知っていたからです。 
各国の公使たちに、自国への引き上げを求めましたが、結局引き揚げたのはオランダ人数名だけでした。
自分が今国内で出来ることはないかと寺島は考え込みました。その時、英国の公使パークスから、
「聞くところによると、鹿児島も政府軍の手に落ちて、熊本に出軍している西郷軍も政府軍に囲まれ、敗戦は動かない。西郷軍の死傷者もかなりの数に上ると聞いている。この際、西郷は降伏して死罪となるよりむしろ戦死する覚悟であるように思われる。しかしこのまま戦争を続けると、お互い戦死者を増やすだけである。ここで政府が天皇の意向で、『いま西郷が降伏すれば、寛大な処分をする』と薩摩軍側に伝えれば、西郷は降伏し、この酷い状態をまのがれることができるのではないか」と発案がありました。
 寺島は瞼を閉じ、長い間、考え込みました。
 また故郷の砂浜が目の前に広がります。
 打ち寄せる波の音が聞こえます。
 佐助は相撲大会で一番になったと、駆けより、告げた佐助の妻ノブの幼い頃のはにかんだような表情が浮かんできました。
 ノブも、幸も、皆心配で夜も寝られんことだろう、弘安はなかなか顔を上げることが出来ません。
 西郷をよく知る寺島はパークスからの提言を嬉しく思う一方、西郷は首を縦に振らないと確信していました。寺島は意外な言葉を発します。苦渋の選択でした。
 ふうと息を吐き、寺島はパークスに向き直ります。
「佐助よ、薩摩軍の兵士たちよ。許せ」寺島は心の中で叫びました。それからパークスを睨むような目で見て、
「ありがたいご提案です。ただ、いまの戦況を見ましても、政府軍の勢いは増す一方、西郷軍はじり貧です。そんなときに、西郷軍に寛大な処分を行うなどと戦場戦士らが耳にすればどうでしょう? 政府軍の士気は落ちますし、政府軍の兵が弱っていると思い、西郷軍は息を吹き返し、さらに戦況は長引くでしょう」寺島は言い切りました。
 佐助らの姿が寺島の目に浮かんできます。戦場に夫を送りだした幸やノブの心境がしのばれます。でもその判断は正しいと思いました。
 すると、パークスは、
「ふむ、言われてみればそれもごもっともです。長い目で見れば、あなたの判断は間違ってはいないでしょう」パークスは、寺島が薩摩藩の人間だと知っていて彼の英断に感心しました。
「パークスさん、今のやり取りは、なかったことにして下さい。この期に及んで外国人から、このような提言があったことが国民に知られることになれば、後々、問題が残りますし、あなたにも面倒が及ぶかもしれません」寺島の冷静な判断にパークスは、この男は底知れない人間だと思いました。
 寺島は、その場その場の一時的な感情や、流れに影響されない強い信念を持っていました。多くの学問や自らが経験し、集積した自分なりの考えによるものでした。
 またあの人なつっこい西郷の柔和な顔が浮かんできます。パークスには、そうは言ったものの、本心は、自発的に西郷隆盛に降伏してほしかったのです。
「西郷さん、どうやら敗色が濃くなってきました。被害がこれ以上大きくならんうちに、自ら降伏してくんやんせ」寺島は、誰にも聞こえないように、一人呟きました。佐助の笑い顔や幸の思いつめた表情が次々と浮かんでは消えます。

 夏を過ぎた頃には、すでに薩摩軍は鹿児島に撤退を始めていました。西郷は山にこもりました。
 相変わらず佐助たちの情報は入ってきません。
 そこに向けて政府軍の総攻撃が始まりました。四方八方からの銃弾が唸りをあげ、弾丸が雨あられと飛び交う中、西郷隆盛はおもむろにほら穴から出ると、
「これが、日本人同士の戦う最後の戦になればよか。ここで、いさぎよく散りもそ」と叫びました。

 寺島が西郷の最後を知ったのは、九月末のことでした。
「西郷は、雨のように降る弾丸の中に出て行ったそうだ」薩摩藩出身の役人が悲壮な顔でいいます。
「あの人は、あえて政府軍(官軍)の弾に当たることをのぞんだらしい」その言葉にみながうなだれました。
 しばらくして佐助の妻からの手紙が届きました。
 佐助も幸の夫も今度の戦で亡くなっていました。弟国松は、右腕を失いながらも生還したと書いてありました。さらに文面は続きます。
〈夫、佐助はあなたが政府高官として偉くなる度に、皆に自慢していました。あなたの成した多くの仕事が、これからも日本の将来に役立つのだと、お酒で酔うたびに子供たちに話し聞かせていました〉手紙の最後に、生前のお礼と、お墓が実家を見下ろす丘の上に建てられたことだけがしたためて有りました。
 もし、あのとき……俺が、パークスに意見すれば……。
「すまんかった。佐助、佐々木どん、そして幸、ノブ。薩摩の士」手紙の文字が霞んできます。
「佐助、人玉でもよか、幽霊でもよか、いつでもよかで俺のところに遊びにこんか」寺島は人眼もはばからず声を上げて泣きました。

 西郷の言葉通り国内での戦は西南戦争が最後になりました。寺島は国家のために自分たちの領土、家族のために死んでいったたくさんの人たちのことを思いました。

(つづく)

13/08/2015

『寺島宗則物語』
【第19回】 西南戦争

このように外交で寺島が八面六臂の活躍をしている最中、国内の政府はまだ混乱が続いていました。
新政府が出来あがっても、内部の勢力争いが後を絶たず、
「薩長だけで、維新がなったと思うのか」と諸藩の武士たちは怒っていました。
確かに、維新戦争後の待遇は薩長に有利で、ようやく面目を保ったのが、土佐、肥前の2藩でした。官軍へ参加した他諸藩の不満は募るばかりでした。
ですから諸藩の部隊をそれぞれの領土へ帰したのも、この不平不満の爆発を恐れたからにほかなりません。
「自分のことばかり考えていてはだめだ。これではせっかくの新しい世とはいえない」新政府立ち上げの立役者西郷隆盛は頭を抱えてしまいます。
さらに西郷は、
「人の上に立つ者は己を慎み品行正しくおごらず節約につとめ、下の者たちの勤労を気の毒に思うようにならなければならない」とも言っています。西郷には、新政府が出来たことで、世に出たものが得意満面になり、昔を忘れておごり始めたように思えたのでした。西郷は、時流に乗り遅れ世に出られなかったものたちの不平不満が、いつ爆発するかそれを恐れていました。
大久保や木戸ら新政府の要人も、
「一刻も早く新政府が日本全土を治めるようにしなければらならない」とあせっていました。以前、寺島が発案したように、新政府は版籍奉還を提案し、まず優遇されていた薩長土肥の四藩がそれぞれの領土、領民を朝廷にかえすというかたちをとったのです。そして旧大名は天皇の代理として諸国をおさめることにしました。
「それでは別に変らんではないか」皆が抗議しました。新政府の狙いは、まず旧大名たちを一応おさめておき、やがて旧藩をすべて解体し、その変わりに県を置く。この県を治める者は旧藩主ではなく、政府がしかるべき人物を選んで知事に任命するという計画でした。
 新政府に入ることを西郷は拒みました。入閣を説得する大久保に、
「大久保どん、おいは、中央政府にあって作戦やら、策略やらの中に飛び込むのはもうごめんじゃ。そげなことは維新戦争までのことでごわす。新政府が出来るまではと思うて、矢面に立ち、血も流しすさまじい謀略も行ってきもしたが……」
「しかし、西郷どんがおらんければまだまだ政府もまとまらん。東京におられる天皇様が、西郷どんに勅使をさしむけられたのだ」
さすがに天皇という切り札を出されると西郷も折れるしかなかったのです。
西郷が新政府に迎えられると、政府はすぐに組織を改めました。
参議・西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、大蔵卿・大久保利通そして寺島宗則は、外務卿の任命を受けました。
佐助がいつかうわさしていた西郷という人物は、体格がよく、目のぎょろりとした風貌で維新を成した立役者であったにもかかわらず、全く威張ったところがない好人物だと改めて寺島は思いました。

維新ののち、元の武士階級は士族とよばれるようになり、廃藩とともに職を失いました。そして彼らには公債のかたちで一時金が支給されるようになりました。
「上級武士ならいざ知らず、これっぽっちの金では暮らしていけぬ」
士族のほとんどが不満でした。
「長介は農業をはじめたらしいぞ」
「うまくいっているのか?」
「それがこんどの雨で、ダメだったらしい」
「俺の弟は商売を始めたが半年ももたなかった」
「士族の商法」という言葉が慣れぬ仕事に手を出して失敗する例の見本としてつかわれました。
 新政府のやり方に不満を持った者はまだたくさんいました。
佐賀県では、反政府の動きが反乱にまで進んでいました。1874年寺島が英国から帰ってきた翌年のことです。政府に不満があった元参議江藤新平が地元佐賀で不平士族を集めて、政府が一番恐れていた反乱を起こしたのです。
この反乱は政府の手で鎮圧されました。
「日本国民一人残らず散髪、脱刀せよとの達しがでた。髪を切り、刀をはずさなければならない」士族たちにとっては、何とも情けない姿です。ところが熊本の地では、相変わらず髷を結い、刀を袋に入れて、わが物顔で町をかっぽする一団がいまいた。
神道に傾倒していたので、それらの人々は、「神風連」と呼ばれました。廃刀令を出す一方、金禄債権を発行し「この債券とひきかえに、禄の一切を廃止する」と俸禄の打ち切り宣言をしました。
「われわれはどうやって飯を食えというのだ」我慢しきれなくなった彼らが反乱を起こしました。
相変わらず、山積する外交問題の責任者として忙しくしている寺島の耳にも国内の士族たちの不満の声は聞こえていました。
 外の県より士族の多い旧薩摩藩では、ことさら俸禄打ち切りに対する不満が高まりました。この頃の鹿児島は、さながら独立王国で政府の命令など馬耳東風。
暦が明治5年から太陽暦に変えられても、鹿児島では相変わらず太陰暦(旧暦)を使っていましたし、廃刀令も完全に無視。しかし俸禄打ち切りには困りました。死活問題です。
「政府のやり方は、強引すぎはしませんか?」寺島の側近がいいます。
「そうだな、ちゃんと説明をしなければ、士族は納得しないだろう、それが国のための方策だとしても」寺島も頭をひねりました。
ところで明治8年は寺島にとってあまりよい年ではありませんでした。長女の千代子が12で亡くなり、翌年には実兄・長野佑裕も病死しています。

そんな頃、何年ぶりかに佐助から手紙が届きました。
「徳太郎(幼い頃の呼び名)元気にしているか? 子供を亡くしたことは聞いた。子を持つ立場としてよく分かる」慰めが続いた後、
「お前は地元の誇りだ。幼ななじみとして鼻が高い。ますます出世して日本のために尽くしてくれ」そこで一息つくと、今度は、がらりと内容が変わりました。
「お前のいる新政府は一体なにをやっているのだ? 中央から遠く離れた漁村でも、士族たちの不満は日増しに膨れ上がっているぞ。徴兵令も行われたが、官公使、官公使になるべく勉強中の者は、兵役を免除されているという不平等なものだし、また代人料といって270円(現在の40万円くらい)収めた者も、兵役を免除らしい。これでは貧乏な家のものはたまったものじゃない」手紙から伝わる佐助の気持ちはよく寺島も分かります。

手紙は続きます。
「幸は三人目の子供にも恵まれ、夫婦仲良く暮らしている。ただ士族の公債だけではとても三人の子供を賄いきれず、農業したり、俺の家内と一緒に漁に出たりしてお前も驚くほど、たくましくなっているぞ」佐助の手紙には必ず、幸のことが書いてありました。寺島にとって「幸」という文字は、懐かしくもあり、儚くもあり、胸の奥にズンと響くものがありました。
「幸、名前の通り幸せになってください」故郷の海岸で必死の思いで告げたことばを今でもはっきりと覚えています。
耳元を海風の音が通り抜けました。日を浴びて、波しぶきがキラキラと輝きます。いつものように小島が見えます。
早速、寺島は佐助に返事を書きました。
「佐助の言う通り、新政府はまだ期待通りの結果を出してはいないだろう。でも佐助、なぜ政府は徴兵制度や地租改正を急いだのだろうか? それは、いうまでもなく、軍事や財政の基礎をかためようとしているからである。他方、財政はなによりも大事なことである。元々日本はまったくの農業国で、他にこれといった産業もなく、関税も条約によって自主的にきめられなかった。この改正にも私は携わった。地租はいま日本税収の要である。だから、主として、農民から徴収した租税を政府は軍備を整えたり、新しい産業を興したりすることに使用しているのだ。俺は外国を数度見て回った。産業革命で生じた庶民と一部の富豪の貧富の差をこの目で見てきた。しかし、今の日本にとって機械や技術を取り入れて産業を起こすことが何を置いても先決課題だと考える」
 寺島は英国で見た機械が並ぶ大掛かりな工場を思い出しました。元々勤勉で、器用な日本人なら世界で通用する製品を生み出せると寺島は思いました。また寺島は筆をとります。
「佐助がいう、西郷隆盛には数度お会いした。肝の据わった立派な大人物である。同郷の大久保どんともたまに意見がかみ合わずに、薩摩なまりでケンカもするが、二人とも、国家に自分の命をささげておる。性格は違うが、幼なじみでお互いの気心をよく知っているのではないかと思う」
新政府の中にあって大久保の影響力はさらに増していました。韓国に対する外交上の問題で意見が割れ、すでに西郷他数名の参議や高官は職を辞していました。政府のやり方に抗議した西郷が、鹿児島二千石を投じて、若者のために私学校を興したという噂も耳にしていました。
大久保が、心配しているのは、やはり薩摩の西郷ことでした。政府の要職を辞めたとはいえ、まだ西郷の人気は特に士族の間では絶大だったのです。辞職の原因は西郷らが鎖国中の朝鮮を開国させようとしたのに対し、外遊から帰った大久保利通らが反対し、その政治的争いに負けたところにあるとされています。明治政府最大の分裂でした。これを征韓論事件といいます。征韓論の真相は今一つ、明らかではありませんが、不満のある士族たちに活躍の場を与えるものと、うけとられたりもしました。
新政府のやり方に不満を持つ士族の反乱は後を絶ちません。ましてや西郷が動くようなことにもなればただ事ではすまなかったのです。その後も政府幹部は何度も、西郷に政府に戻るように伺いを立てましたが、断られました。
「多忙で、たまにしか子供の顔を見ることもない。何よりも家族そして国民が幸せでなければならないと考えている。戦の時代はもう終わってほしいと思う」寺島は手紙の最後をそう結びました。

ところが、時代は寺島の思惑とは正反対の方向に進んでいたのです。
あいかわらず多忙を極める寺島のところに、佐助から手紙が届いたのは返信してから一カ月後のことでした。
送り状の荒々しい文字から寺島はただならぬ気配を感じました。
「徳太郎、お前も薩摩の人間であろう? 封建制度をこわそうとした明治維新の結果は、貴族と士族と平民の階級差別を生み、新政府は旧藩派閥の勢力争いに明け暮れているというではないか? 何もかも外国のまねごとで、形だけの制度改革を新政府はやっているだけだ。お前は国のために働くという。政府は税を取り、軍備や産業に役立てるという。では元々士族だった連中はどうなるのだ? 切り捨てるというのか?」寺島はそこで一旦手紙を閉じました。
大久保が中心になった新政府は今まさに荒波の中を航海しているようなものです。大久保は冷徹な人物だと寺島は感じています、前参議であり、仲間だった江藤新平が地元の佐賀で反乱をおこしたときにも、捉えられた江藤を大久保は自ら佐賀までかけつけて、あっという間に打ち首の刑に処しています。

実務的で、白黒はっきりした性格でしたが、ただ私利私欲のために動く人ではない事もよく承知してしました。彼の家に寺島は招待されたことがありましたが、その生活はあまりにも質素で、安普請のため壁が崩れたり、ネズミが巣をつくっていて、とても政府最高権力者の家とは思えない粗末なものでした。大久保が暗殺された後、彼の財産を調べたところ、持ち金はほとんど無く、逆に負債が数千円ありました。それは、世に言う富豪や巨商という人たちから借りたのではなく、知り合いや友だちからの借り入れに限られていたといいます。
 大久保の性格をよく知る寺島は彼の強力なブレーンとして特に外交面で多くのサポート役に徹しました。ただ西郷と比較して、大久保の評判が地元薩摩でも芳しくないことも寺島は知っていました。

また佐助の手紙を開きます。
「鹿児島でも不満分子の怒りはもう限界にきている。西郷先生が立てば、俺は今の仕事を投げ打って先生と一緒に戦うつもりだ。幸の旦那、佐々木正太郎も同じ気持ちである。この戦いは義のための戦である。そして西郷先生は、すでに腹を決められておる。徳太郎、手紙は最後になるだろう。俺たちは負けることはない。いつかまたよき世で会おう」寺島は佐助の文字を長い間眺めていました。

立ち上がり、寺島は南西の方向の空を見上げました。
  そこにはばら撒いたように、たくさんの星がひかっていました。ゴトゴトと音がして、足元に視線を移すと五歳と、六歳の息子たちが足にまとわりつき、
「お父様、なにをしているのですか?」つぶらな瞳で見上げます。
「お手紙を読んでおったのじゃ」
「誰から?」
「故郷にいる、父の一番大切な友だちじゃ」
「ふーん、そうなんだ」また二人は競争するように走り出します。二人の姿が見えなくなったとき、寺島はたった一言、
「佐助、佐々木どん、決して死ぬな」そう呟きました。

(つづく)

10/08/2015

『寺島宗則物語』
【第18回】 明治新政府

新政府に変ってからも、対外国人との様々なトラブルが発生しています。
そんなとき西洋通で旧幕府時代から外交事情に携わり経験豊かな寺島が新政府の外務専門官として起用されたのは自然の流れでした。

神戸事件はその中で重要な事件でした。
備前藩家老の部隊が神戸を進行中、行列の前をフランス水兵二人が横切り、負傷を追わさせた事件をきっかけに、藩の兵士と、イギリス、フランス、アメリカの公使館守備兵が交戦したのです。

この事件解決にかり出されたのが寺島でした。
生麦事件の際には、攘夷がまだ叫ばれていたときでしたので、責任者を処分しなかったのですが、今回はそうはいきませんでした。諸外国側の意向を受け入れる形で備前藩を説得、責任者を切腹させることで解決しました。
この問題解決で日本は国際的にも認められるようになりました。
事件後、外国人に対して敵対的な態度を取らないように厳しく命じた文書を神戸の町にはり出したのです。

既に、開国して国際社会の仲間入りをしていた日本にとって、新たな外交の始まりでもありました。
外交手腕をかわれた寺島は、外交交渉以外にも、税関、地方租税などたくさんの業務を担当しました。
各地で要職をこなし、1868年神奈川県判事専任になります。県知事と外務長官の役割も担っていました。

同時に寺島は大きな事業に関わりました。
電気通信事業です。
1859年の開港以来、神奈川は東京の政府との行き来が盛んになりました。
「どうしても素早く正確な伝達が必要である」
政府から寺島に事業の依頼がありました。
「今までの人、馬、船などの飛脚便は時間もかかりますし、事故などが発生することもあります。これらの解決に電信が不可欠であります」
寺島は政府の太政官に申し出ました。
「建設費にはなるべくお金をかけず、神奈川県で準備できる予算に収まるように。今後も日本中に建設が予想されるので見本になるようなものをつくる必要があるぞ」と寺島は意を新たにしました。

寺島は、英国から雇った電信技士G・Mギルバート以下数名の在日英国人技術者で建設チームをつくり、すぐに神奈川県と東京築地運上所間の電信線架設工事に着手させました。
これが日本の電信事業の幕開けになります

まず神奈川県庁から、灯台事務所までの760メートルにフランス製電信機を装置して試験を行いました。これは公務専用です。 
その後、東京横浜間、路線延長32キロメートル、電柱593本、この工事が三カ月後に完成し、この日から電報を公用に限らず一般公衆用も含めてスタートしました。

寺島は、日本初代の電信長官として始業式典に参加しています。
これより、さかのぼること二年前、寺島は独断で英国に電信機を発注するなど、準備を進めていたのです。

それは電信が通信の上で、どのような技術より効果的であることをすでに、十年以上前に寺島は体験していたからです。
薩摩藩士の頃、島津斉彬の命令でオランダ書などを解読しながら、独力で電信機を作り、交信に成功していたのですから自信満々でした。

当時の新政府にとって電信事業は全く新しい行政の部分に属していましたので、電信技術も事業も寺島以上に知識や経験を持った人はいませんでした。
ですから電信のための交渉ごとから工事実務まですべて寺島に一切の権限が与えられました。
「寺島さん以上に電信のことを分かっている人は他に見当たりませんな」
「でも寺島さんは、御多忙でしょう」バタバタと走り回る寺島を政府の人間は半ばあきれ、半ば羨望の目で見ています。
「いやはや、すごい人ですな。体が持ちますか?」政府の役人が寺島に尋ねると、
「仕事ですからね。次々と、難題が山積です」
「今どれほどの役職を?」
「私は、県知事も、外務大輔(のちの外務次官)も、判事も、製鉄所所長、灯台電信建築長官も兼任しております」平然と返します。
「ほおー」皆が目を白黒させました。

大隈重信、伊東博文ら政府高官たちも、
「電信のことなら寺島に一任しておけば間違いない」と太鼓判をおしています。
ただ、すべてが順調に進んだわけではありません。

電信がどうして通じるのか? その原理、内容を知らない人はそれが、とても不思議でなりません。また色々とよくない噂も流れ毎晩のように電線が切断されました。政府が必死に「通信機は数時間で通信する至妙の機関です」と宣伝しても電信に関して「怪しげな魔法」として嫌う人が多く、
「あんな物の中を言葉が走るのは生き血を塗ってあるからだ」と言う人もいれば、「電信は、処女の生き血を塗ったキリシタンバテレンの邪教にちがいない」
と、根も葉もない噂が立ちました。

それ以外にも、「電線から汚れが漏れ出てくる」そのような噂まで流れ、近くを通るときに頭を隠す人もいました。ですから、東京横浜間まで電線が張られたときは、何度も切られる事故が発生したので、その時のために、電信を受け付ける局は、いざという時に、代わりに届けるための馬を用意して対応していたそうです。

財界の大物との会談中にも、
「昨夜もどこそこで切られました」あわてて部下が報告に来ると、寺島はその対処法を指示した後、
「それはやむをえないでしょう。人民は切り役だし政府はそのつなぎ役なのです」と言いました。

これを聞いた財界人は、
「政府高官のなかにこのような、おおらかな人物もいるもんだ。こんな人こそ、真の政治家といえよう」と感心したといいます。

寺島は、海外との通信についても関係各国と交渉の責任者として活躍しました。二度の海外留学の経験、また幕末の政治を肌で感じ、あるときには学者として観察し、渡欧して得た西洋の政治、外交、法律の知識など、幅広い寺島の体験の積み重ねが生かされたのです。
40歳前の働き盛り、寺島の果たす仕事はますます多岐にわたります。

未熟であった貨幣の改良にあたったり、外交上で起こったさまざまなトラブル解決、北海道開拓に関係して函館の外国事務も行っています。
またスペインやそれ以外の多くの国との和親条約締結に奔走したり、海外と通信をつなぐ海底電線の交渉ごとにあたったり、オーストラリア万博博覧会に関する仕事もこなしています。さらに以前外国とかわした条約改正の任務も仰せつけられ、総領事として英国に渡ってもいます。

これだけの重要な任務をこなすわけですから、当然、地位も向上しますが寺島本人は、権威などほとんど関心がなかったようです。
お札にもなった福沢諭吉が親交の厚かった寺島について語ったエピソードが残されています。それによると、
「自分の身のためには、大きなことは考えない。寺島が、参議とか外務卿とか実際の国事に当たったのは、実は本人にとって商売違いであったと思います」と語っています。

元々洋学者であった寺島は、有名になりたいとか、偉くなりたいとか、金持ちになりたいなどということより、「国のために尽くしたい」、というその志は当時の洋学者たちと同じだと言っているのです。
 
また通信と同様、海外郵便制度の確立にも奔走しています。
多くの手続きが必要とされた海外郵便について、海外と郵便交換条約を結べばその問題が解決すると知った米、英、仏、独と条約を整えて、同時に実現する計画でしたが、米以外が異議を唱えたので、まず日米間の締結から手掛けることに決まりました。
寺島が仕切った条約締結でしたので、寺島の喜びはひとしおでした。

(つづく)

07/08/2015

『寺島宗則物語』
【第17回】 江戸幕府の滅亡 

同じ頃、日本はまさに岐路を迎えていました。
幕府が組織した新撰組が尊皇派を厳しくとりしまりました。
京都の池田屋で尊皇攘夷派の志士たち5名が殺され、4名が自害しました。
これを「池田屋事件」と言います。
ところが事件で殺された人の中に、長州藩士がいたため、長州藩は怒り、京都へ出兵し、幕府と長州藩の戦いが始まりました。この戦いで攘夷派の人たちが大勢亡くなりました。京都は戦火のため、たくさんの人が焼き出され、多くの家が焼けました。

1864年朝廷は幕府に対して、長州藩の討伐を命じました。
しかし、幕府が征伐に出陣する前に、アメリカを含む四国連合艦隊が長州に向けて出港したのです。
下関を通る外国船に砲撃をした長州藩をこらしめるためでした。
この戦いは武力にまさる連合艦隊軍が、わずか3日で勝利を収めたのです。
長州征伐のとき幕府側についた薩摩藩は、幕府の力の衰えを見抜き、態度を変えて反幕府の方向に方針を改めます。

「朝廷に頼るのは無理だ。かといって幕府にはもう力が無い」
薩摩の西郷隆盛と坂本竜馬、長州の桂小五郎らが薩摩屋敷で会談しました。
「だからこそ、いま薩摩と長州が手を結ぶ時なのだ」坂本竜馬が言いました。

薩摩も長州も、攘夷がいかに大それたことであるか英国と戦争した経験から知っていたのです。こうして薩長同盟が結ばれました。
このような情勢の中、将軍家茂が亡くなり、一橋慶喜が15代将軍になりました。
一方朝廷では、孝明天皇を中心とする公武合体派と、岩倉具視らの王政復古派が対立していました。しかし孝明天皇が亡くなり、16歳の明治天皇が即位すると、王政復古派が急速に勢力を伸ばします。そして政局は、倒幕か、幕府の政権を天皇に返す大政奉還かをめぐって激しく揺れ動きました。

ところが、天皇から徳川幕府を討てとの勅命を受けた同じ日に、幕府が朝廷に政権返上を申し出たのです。
朝廷は幕府の申し入れを受けたのですが、薩摩、長州は将軍抜きの新政府をつくろうと考えていました。そして武力によって幕府を倒そうと主張し、薩摩、長州、安芸の三藩は、京都まで兵を進め、新政府の樹立を断行したのです。

「すでに、薩摩、長州、安芸の三藩は討幕の約束をかわしたと聞きます。彼らが立ち上がれば、他にも加わる藩がでてきましょう。そうなれば日本中が戦乱にまきこまれ、民の苦しみはもちろん、これにつけこむ外国勢力によってわが国日本の命運もあやうくなると存じます。上様は一大決心をあそばされ、大政奉還されるのが賢明かと」

幕府の相談役が、一言、一言諭すように言いました。
これに対し、15代将軍徳川慶喜は、老中たちに意見を求めました。
「たかだか田舎藩が、結集した位で何ほどのことがございましょう」
老中の一人が言いました。
「いや、長州征伐で手痛い経験をしたではないか」
「幕府には海軍がある。軍艦を率い、海からせめれば」
老中たちは議論を繰り返すだけであいかわらず何も決められません。
「もうよい」突然、慶喜が声を上げ、家老たちは黙ります。
「余の考えはすでに決した。大政奉還じゃ」
一同ひれ伏したまま、肩を震わせ声を殺して泣くばかりです。

これが260年間続いた江戸幕府の崩壊であり、明治政府の誕生でした。
ところが、政権を返還されたものの朝廷にはそれを担う能力もなければ、動かす組織もありませんでした。

海外視察から戻った弘安は鹿児島から汽船を使って江戸に向かいました。
このころ、松木弘安から寺島陶蔵(さらに一年後寺島宗則)と名前を改めています。「寺島」は、故郷の家の前に浮かぶ小島にちなんだものです。

「徳川家の領地は、朝廷にお返しするものとする」
新政府の提言に徳川家は、
「それはあまりにひどすぎる」
「我慢ならん」
将軍に対する処置に不満を持った幕府側と、西郷隆盛らの新政府軍は、鳥羽・伏見で激戦を繰り広げました。

戦いは新式の銃など備えていた新政府軍の勝利に終わりました。

また勝海舟と西郷は江戸城総攻撃について会談を行いました。もし会談が決裂したら、江戸は火の海に包まれ、多くの江戸市民が逃げ回らなければならないのです。
二人の会談は成功しました。3月15日の総攻撃中止。
「これをすぐに全軍に伝えて下さい」西郷は命令書をしたためながら勝に言いました。
「有難うございます西郷さん」勝が深々と頭を下げます。
「勝さん、おいどんに、任せったもんせ」西郷のどんぐりまなこがキラリと輝きました。

寺島はこのように薩摩藩出身の武士たちが、日本政治の表舞台で活躍していたときにも、ほとんど顔を出しません。ただ、重要な局面では必ず、皆が寺島の意見を求めています。

新政府の重鎮大久保利通が寺島に、
「大政奉還したが朝廷が政治を現実的に執り行う組織も実力も整っていない。とりあえず、政権を今まで通り将軍に委託するほかあるまいと意見が朝廷内でも出ている。残念なことだが、寺島はどう考えるか?」と問うと、
島は、
「政権を朝廷に預けるのであれば、土地と人民が必要でしょう。幕府が把握している土地はもとより、わが薩摩藩も、すすんで領地、領民を奉還しなければならないと考えます。朝廷は、土地人民を掌握してはじめて国の政治を担当することができるようになるでしょう」と言い、

その内容を含めて新政府に意見書を出しました。
それがのちの「版籍奉還」の先駆になったと、大久保は言っています。

同じく長州藩の木戸孝充も版籍奉還に関する献言を提出しています。
木戸の版籍奉還の方が有名です。
その理由は薩摩藩といえば大久保が政治の中心で寺島が政治活動の表舞台に顔を出していないことにある、という学者もいます。

つづく

05/08/2015

回を重ねて16回になった『寺島宗則物語』
お読みになっていただけているでしょうか?
稚拙な文章力で、お恥ずかしい次第ですが、
素人なりに懸命につづっています。

さて、なぜ今「寺島宗則」なのか?
名画『モナリザ』を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチは、15世紀ルネスサンスの盛期に活躍した「万能の巨人」です。
彼は絵画以外にも、彫刻、建築、土木、科学技術に優れた才能を発揮し、そのマルチぶりから天才と称されました。
同じくここ日本にも、幕末の激動の時代にその多彩な才能により数々の功績を残した人物がいます。
その人物こそが、この物語の主人公寺島宗則でした。
彼は「電気通信の父」と呼ばれていますが、通信技術導入はもとより、開国後の、新国家に必要な外交、教育、交通、海事、裁判、保安などの確立に東奔西走しています。
一人二役どころか、一人十役といったところでしょう。周りを見渡してみてください。携帯電話、ガス、電気、医学等々、彼が関わっていないものを探すのが大変なくらいです。ダ・ヴィンチのように名画こそ描きませんでしたが、私たちの生活に欠かせない数多くのものが、彼の研究や努力によって日本にもたらされました。
寺島の名前も知らない。名前は知っているけれど彼がどんな仕事をしたのか、実のところは分からない、という人は多いかも知れません。
確かに寺島は、常に縁の下の力持ちに徹し、表舞台に顔を出すことはなかった人物であるようです。
しかし、アジアの片隅の小さな島国であった日本が、明治維新の後、いち早く先進国と呼ばれる国の仲間入りが出来た背景には、彼のように、将来を見据えて行動出来る人物の存在こそが不可欠でした。
マルチな才能を持ちながら控え目で、その一方、これと決めた時の決断力や忍耐力、そして世界を見渡す広い視野をもつ寺島こそ、これから世界の表舞台に飛び立とうとしている若者たちにとって、あるいは混迷を極める国際社会の中で、日本の立場を主張していかなくてはならない日本人にとっても、学ぶべきところの多い人物だと思います。
でも、なぜ? と疑問に思われるでしょう。
今から百数十年年以上も前の人物が、まだ鎖国状態の日本にあって国際的な感覚を身につけることができたのか? そもそも九州の、それも南の端っこ(薩摩)で生まれた寺島が、どうしてこれほどまでに多方面で活躍できたのか? 
 さらに薩摩といえば幕末に西郷、大久保、島津斉彬、他にも多くの偉大な人物を輩出したところですが、彼らと寺島がいかに関わって来たのか? 日本が大きく変ろうとした時代に、もし寺島がいなければ、はたして日本の行くすえはどうなっていたか? 
今や世界のいたるところに、日系企業が進出し、海外在留邦人の数は百万人ともいわれています。「グローバル化社会」という言葉が使われ出して久しいのですが国際社会の中で右も左もまったくわからないあのような時代であったにもかかわらず、寺島は奇跡的なほどにまさにグローバルな感覚を持ち合わせた人物だったといえます。色々な分野で、彼が手掛けたことを列挙するだけでも、興味は尽きません。
高度情報化社会の礎を気づいた立役者、外交のスペシャリスト、先駆的な国際人寺島。そんな彼がもし現代にいたら、私たちにどんなアドバイスをしてくれるのでしょう? 
そんな疑問から、寺島宗則なる人物をもう一度、再評価してみようという声があがりました。いま一度、彼の人生を物語でたどりながら、「幕末のダ・ヴィンチ」と呼ぶにふさわしいマルチ人間・寺島の偉大な功績の一端を知っていただければ幸いです。

05/08/2015

『寺島宗則物語』
【第16回】 薩摩スチューデント②  

そんな苦労の航海ののち一行の船は香港に着きました。
夜の9時を回っていましたが、雨模様の空には、月も星もありません。
それなのに香港の街は、宝石箱をひっくり返したように輝いています。
留学生たちにとって、初めて見る夜景でした。
「何ときれいな灯籠。大変な数ごわすな」留学生たちは、ため息をつきました。
「灯籠ではごわはん。あれはガス灯ちゆうもんでごわす」
蘭学医の中村の説明に皆が感嘆の声を上げました。
その様子を、弘安と五代は微笑みながら見ています。
香港で大型船に乗り換えてからは、牛、豚中心のメニューになるため、
弘安は留学生たちに、食事にも慣れるように言いました。同時に食事マナーも教えたのです。さらに服装の問題もあります。洋服に、帽子、靴など香港に停泊している間に購入しました。
香港では造船所の見学をしましたが、その規模や、設備に皆が驚きの声を上げました。
同じ港に停泊していた船から一人のイギリス中尉と二人の下士官がやって来て挨拶しました。
すぐに堀が通訳します。
挨拶が済むと、中尉はにこやかに笑って、弘安と五代に言葉をかけました、
「お久しぶりです。まさかこんなところでお会いするなんて思ってもみませんでした。」
「あの時以来になりますね」堀ほど流暢ではありませんが、弘安が朴とつとした英語で答えました。それを見ていた留学生たちは、物静かな弘安がイギリス中尉と対等に話している姿を見て、
「松木さんは、すごかなあ」
「英語に限らず蘭語も話せるらしか」
「いつも、読書していて控えめな人じゃっち思っていたが、スゴかなあ。おいたちもいつかあんなに話せるときが来っどかい」

皆が羨望の眼差しで弘安を見ています。
実は、薩英戦争で弘安と五代が捕虜になったとき、イギリス側の担当者が、この中尉だったのです。
彼らが乗船した目的は、船での晩餐に留学生一行を招待したいという艦長からの申し入れを伝えることでした。翌日の晩さん会で、留学生たちは大変な歓待を受けました。
「こん前、戦争したばかりやっとに」畠山や役人たちは戸惑っています。
「あんときはあんとき、今は今」
出されたワインを飲みほして、五代が笑います。彼の顔は真っ赤です。

弘安も、西洋人の割り切り方は学ぶところもあるが、日本人にはまだ理解できないだろうと感じました。
香港で皆の洋服を揃えた一行は他にも色々な買い物をしました。
皆が石造りで四階建ての立派な建物を見上げ口をあんぐりと開けています。
香港を見ただけで、すでに外国との格差に気づき、考え方を変えた者もいました。
あの畠山ですら、ガス灯の仕組や大規模な都市計画のあり様を目の当たりにして、
「こげなすごかことがあっとか。日本じゃ考えも及ばん」
もう攘夷がどうのと、口にすることはありませんでした。

その後も、船や列車などに乗り換え、出港以来2カ月半で目的の英国の港にたどり着きました。すぐに弘安は学校を見学したり、病院で外科手術を観察したりしました。
最新の外科手術を見て、感嘆する他の医者たちの中にあって、弘安はまた別の役目もちゃんと自覚していました。

それは英国と薩摩との国交を提携することでした。
「幕府の力はすでに地に落ちている。そん幕府が持つ貿易の独占権を英国との協力で排除させんといかん。そのためには、まず英国外務省と直接交渉するしかなか」弘安が言うと、
「それが弘安どん一番の使命じゃっど。難かしか交渉になっど」
五代が口を真一文字に結びました。

交渉に当たって、仲介役を演じたのは親日派で来日経験もあるオリファント議員でした。弘安はすぐにこの議員と親しくなりました。

オリファントは以前日本のことを、自分の著書で、
(日本人は、私がこれまで会った中で最も好感が持てる国民で、日本は貧しさや物乞いの全くない唯一の国です)と書いているほどです。そんなオリファントですから弘安にも、イギリスの考えを裏表なく話してくれました。
「英国は貿易を自由化すれば、お互いの国にとって利益が大きく、いいことばかりですと表向きはよい顔をします」
弘安は黙って聞いています。
「用心しなければなりませんよ。なにせ英国は世界中でならしてきた海千山千のつわものですから」
「つまり?」
弘安が上目使いにオリファントを見ました。
「日本は国際的な交渉ごとの経験が足りません。英国は世界を見渡し、外の列国との市場争いの拠点の一つとして日本に目をつけたのです。以前英国に来られた時、あなたは、英国民のいい面ばかりを見たわけではないでしょう?」
 
弘安は頷きました。そこには急激な産業革命によって職を失った多くの貧民たちの姿があったのです。
「産業資本主義の発展は、国を裕福にするかもしれませんが、その一方で、貧富の差を生みだしました」オリファントの目が鋭くなりました。
「上手く交渉ごとを進め用心しなければ、あっという間に、丸めこまれ、気が付いたときには、日本中、焼け野原になっているかもしれませんよ」
「まるで戦争ですね?」
弘安が表情もなく言うと、
「そうです。大砲は使いませんが、貿易とは武器を使わない戦争みたいなものです」
「駆け引きが大切ですね」
「そのとおりです。単に相手国が友好的であるとか、そんな表面的なところではなく、時と場合によっては相手をだまし討ちにするくらいの覚悟が必要とされるのです。そのためにはまず国が一つになることです」
「なぜ、そこまで私に話して下さるのですか?」

弘安が尋ねると、オリファントはあご髭を撫でながら、
「私は、あなたもあなたの国日本も大好きだからですよ」とさりげなくいい、青い瞳で弘安を見つめ、
「私たちには国を超えた真の信頼関係が生まれたと思っています」と付け加えました。

オリファントと別れてからも、弘安は彼の言った言葉の意味を何度も、繰り返し考えました。その後、オリファントから聞いた提言を踏まえ、友人に書簡で、
(今国際社会は弱肉強食ともいえる状態になっているが、そんな中でも、ヨーロッパの小さな国がお互い助け合って、無事に独立している。日本も、まず天皇を中心とした統一国家を築き、そのうえで諸外国の大使館を日本に置き交渉をする必要がある)と述べています。

航海は続きます。
今回もインド洋の暑さには悩まされました。日本では考えられない暑さです。蒸気機関車を見たときに、その異様な鉄の塊が高速で走る姿に驚きの声を上げました。弘安は以前に同じものを見たことがあり、皆に話してはいましたが彼らは、
「まるで怪物だ」と目を丸くします。
「まだまだ、すごか機械が英国にはあっど」弘安が言うと、皆、目を白黒させました。
「西洋の進んだ技術をわが国にも導入して国を富まさんと、遅れをとってしまう」五代の発言に攘夷派だった連中も、ただ相づちを打つしかなかったのです。

エジプトでピラミッドを見た留学生は、これが4000年前に作られたという説明に驚嘆の声を上げました。どこまでも平地が続く砂漠やラクダを眺めて、緑にあふれる日本を弘安は懐かしく思うのでした。

五代は人選のことで弘安に打ち明けました。
「頭の固い藩の上層部にいる者に欧州を視察させて上から変えて行かんとなかなか変わらん」その意見に弘安は、
「将来的に見たら若い留学生を育てることが先決だ」と答えましたが、
五代は「そんな悠長なことをはいっておれんぞ」と反論しました。
もともと学者で、若い人たちの勉学を基本に捉えていた弘安と現実路線の五代の考え方の違いでした。

早く開国すべきだという考え方は同じで、いまだに攘夷論者たちが幕府の真ん中にいるということが、二人にはとても不満でした。
弘安たちはマルセイユを出て上海を経由し、故郷薩摩に向かいました。一年にも及ぶ西欧留学でした。

【つづく】

※読後のご感想ご意見などお待ち申し上げております。

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01/08/2015

『寺島宗則物語』
【第15回】 薩摩スチューデント

捕虜になった罪を認め詫び許された五代は、上申書を薩摩藩に提出しました。
その内容は、(西洋の国と講和条約を結ばなければ、戦いの末、薩摩いや、日本国は、植民地化されてしまう。攘夷などと暢気なことを言っている場合ではない。開国し、貿易で得た利益で藩を豊かにし海外を知るために、留学生を海外に派遣、視察させて軍艦や武器、紡績機械などを買い付ける必要がある)というものでした。
英国は、薩英戦争後の交渉を通じて幕府よりむしろ薩摩藩側を高く評価するようになり、薩摩藩との関わりを強めていくこととなります。
2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、イギリス側の通訳官は多くの薩摩藩士と個人的な関係を築いていきます。
薩摩藩側も西欧文明の優秀さを改めて理解させられ、イギリスとの友好関係を深めていくこととなり、その一環として留学の話が持ち上がったのです。

英語、仏語、蘭語を使いこなし、海外渡航の経験者で、医者としても一流である弘安に留学生候補として白羽の矢が立ったのは当然の成り行きでした。
やがて、準備のために五代と弘安は一年ぶりに再会することになるのです。
「五代さんお元気そうですね」
弘安がにこやかにあいさつすると、
「おお、松木どんもご無事でなによりです。あんときは、生きた心地がせんかったなあ」
握手を交わしながらさっそく捕虜になった時の話です。
「短刀で提督と差し違えて自決するつもりやったが、短刀も押収されてしもたでな。それにしても、『犬死にするな』ち言ってくれた弘安さんのおかげやっど。あんたは、いつも冷静やった」
「おいも、あんときはあわてもした」
「そうは見えんかったどん」
「闇夜の小舟も、大変やったなあ」弘安が感慨深げ言うと、
「ああ、風が強くてまっこち進まんかった」五代が笑いました。
「籠を使ったら、清水どんが、腹を立てたなあ、あんときの怒った顔が今でも忘れられん」
「清水どんも俺たちのことを必死で逃がしてくれもした」
「いずれにしても、犬死にせんでよかった」
五代が高らかに笑います。
弘安はこの男は、本当にスケールの大きな人だなと思いました。
すると、五代も、
「弘安どんは、肝が据わっておるだけではなくて、いつも大局を見据えることが出来る人じゃっど。俺みたいな短気者にはうらやましいことじゃ」

二人は長崎で2カ月ほど過ごしました。
そこで使節団の人選がなされました。
薩摩の訪欧使節団のメンバーには攘夷派の人もいました。
外国の実情を見せて、そんな考え方が大きな間違いだと、分からせてやろうという五代の魂胆でした。
最年少には13才の磯永彦助もいました。渡米は当時、国から許されていなかったため、皆が脱藩の形を取り、名前も偽名を使いました。

メンバーは20名。欧州視察の経験者は弘安だけでした。
通訳と五代、弘安がグラバー商会所有のオースタライエン号という蒸気船に乗り込み、長崎から薩摩へ向けて出港したのは、1865年3月下旬のことでした。留学生たちは、長崎から来る船をひたすら待ちわびていました。

オースタライエン号の甲板には、弘安、五代、五代の片腕である英語通訳の堀が立っていました。船は薩摩藩領地である羽島沖を目指しいていました。そこで今回の留学生候補たちが身を隠して待っているのです。
もし薩摩藩が、英国に留学生を送り込もうとしていることが幕府に知られたら、死罪を免れない大罪でした。
ですから留学生たちは、薩摩領土である甑島や奄美大島へ渡るという名目にしてあったのです。

「ついに時代がかわりつつありますな」五代が弘安に話しかけます。
英国との戦争を経験した薩摩藩の多くが、攘夷などということが絵空事であると気づき、五代の提言を受け入れて、英国へ優秀な若者たちを送る方向に変っていったのです。また今回の留学は五代や弘安が尊敬してやまない斉彬公の遺志でもありました。
ただ、留学生の中には、攘夷派の武士で畠山という、薩摩藩でも名門出身の者もいました。
彼はなぜ自分が今回の候補に上げられたのか理解できずに、久光公に辞退を申し込みました。
「私は英国の言葉もままならぬうえ、攘夷愛国の志を今も貫いています。ですから今回の留学候補には不適切です。私より優秀なものが他にもたくさんいるはずです」
すると久光公は、
「その方の、忠義、愛国心は私がよく理解している。ただ今回の英国との戦争を見て敵を知ることの大切さも知ってほしいのである。それに異国かぶればかりが集まってはどんな不行き届きのことが起こるか分からない。こんなときこそ、家の格もしっかりとして、愛国心のあるそなたのような人物が必要となるであろう。ひいてはそれがわが薩摩藩のためになるはずである」

久光公に説得されては、畠山も従うしかなかったようです。
様々な年齢や身分、事情をかかえた留学生18名が五代の手配した大型船に乗りこんだのは、彼らが羽島に潜伏生活を強いられて2カ月後のことでした。

やがて蒸気船が姿を現すと、皆が一斉に声を上げて船に向かって手を振りました。
「ついに来もしたど」歓声が船まで届きます。
全員が船に乗り込んだのは、弘安らが到着した2日後の夕方でした。
「弘安さんがおるから安心ごわす」五代が顔を崩して言いました。
「五代さんがおるから私も気強か」
弘安も率直な気持ちを言いました。
皆が船に乗り込むと、すぐに五代が指示を出しました。
「両刀を全員はずっしゃんせ。俺が責任を持って保管すっで」
「ないごてな?」皆が抗議しましたが、五代が刺すような目で皆を睨みかえします。
「俺たちは戦に行っとじゃなか。英国に留学するもんが刀を差していること自体がおかしかどが」
武士の魂である刀を一時的であっても、奪われるのは彼らにとって耐えがたいことであることは五代も十分承知していました。
ただ航海中、清国人を含めた船乗員が70名いる船上で、言葉もろくに通じない連中とトラブルが発生しないとも限らないし、攘夷派の連中もいます。刀を抜かれたら大ごとだと、懸念したのです。

五代の強い口調に皆しぶしぶ刀を下ろし五代に渡しました。
弘安も、前回の渡航の際、ヤリまで持ち込んだ幕府の役人がいたことを思い出すのでした。

岸から船が離れて行きます。
曇りがちだった空は少しずつ明るさを取り戻しました。
海は穏やかで、晩春の光を浴びて海面が輝いています。
徐々に小さくなる山々を見て、皆が和歌を詠みました。
それは、別れがたい人への思いを唄ったもの、異国へ行く不安を詠んだもの、いつ帰れるか分からない故郷を思い詠んだものなど、様々でした。
 
船は薩摩の港を離れ、香港を目指して進みます。
香港でさらに大きな蒸気船に乗り換えるのです。
船は速度を増し、もう日本の姿はとっくに見えなくなっています。
次第に波が高くなりました。風が出てきたようです。船が大きく揺れ始めます。五代と弘安は、既に大海原を航海した経験もあるので、船の揺れにも慣れていましたが、他の者にとってはほとんどが初めての経験でした。
皆甲板に出て、吐き気と戦っています。
久光公に諭されて乗船した畠山は早くも後悔していました。
「弘安さん、いけんもなかな? これから先も同じ状態が続くとな」
畠山が尋ねると、
「そのうち慣れてきもす」
弘安は自らの経験を話し、皆を励ましました。
弘安の言ったおり、徐々に慣れてきた留学生たちの顔に赤みが戻ってきました。
数日後、一転して風がおさまり、穏やかな航海になりました。そうかと思うと急に海が荒れ始め横なぐりの雨も吹きつけ、船は、波にもみくちゃにされながら航海を続けたのです。
そんな嵐の日には皆、横になり、息を潜めてひたすら揺れが収まるのを待つしかありませんでした。船の軋む音が耳元で響きます。いざ立ち上がろうとしても、到底立てるものではありません。だいぶ船酔いに慣れたといっても皆の顔は紙のように白くなりました。
「本当に、こん船は目的地に着くのじゃろかい?」
弱音を吐くものまであらわれました。
さらに困ったことがありました。ほとんどの者が、少し船酔いしただけで西洋風の食事が喉を通らないのです。
夕食のドラがなっても食堂に集まってきた留学生たちの顔は沈んでいます。
「とてもじゃないが食事など」
「そげなことを言っていたら体がもちません」五代が皆を励まします。
五代は、上海渡航の経験から、英国船には異例でしたが、米のご飯を準備させていました。また食の進まない者たちのために、を羽島で買い求めて積み込んでいました。中には橙しか口にしないものもいましたが、さすがに経験者、五代や弘安は食事に出された肉をうまそうに食べました。

弘安は船室から外に出て、頭上にぽっかりと浮かんだ、月を眺めました。
この月を茂登も見ているのだろうか?娘はスクスクと育っているだろうか?そんなことを思いました。

船は順調に進みます。以前の航海のようなトラブルはありませんでしたが、異人たちから彼らのチョンマゲが笑われていることに気づいたのです。
弘安も、以前、西洋の国々でチョンマゲが好奇の目で見られた時のことを思い出しました。
「皆断髪せんといかん」
五代の命令にまたしても、皆しぶしぶ従いました。
断髪したお互いの顔を見合って、笑っていいものか、どうしたものか、皆が、複雑な顔をしています。
食事には、豚や牛の肉が出ましたが、なかなか留学生たちはなじめません。その様子を見て、ときどき番頭役のオランダ人、ホームが、和食を用意してくれました。
【つづく】

※読後のご感想ご意見などお待ち申し上げております。

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29/07/2015

『寺島宗則物語』
【第14回】 生麦事件から薩英戦争へ

1862年(文久2年)薩摩藩主島津久光は大勢の武士を率いて京都に上りました。
公武合体の活動を始めるためでした。公武合体とは、公家(朝廷)と武家(幕府)が協力して、政局にあたることをいいます。そのため4月23日には、久光は寺田屋事件を起こして、自分の藩の尊王攘夷派を切り捨てたのです。さらに孝明天皇の命を受けて勅使の人物を江戸まで護衛し、幕府に改革を迫りました。そして一行が、ひと通りの役目を終えて京都へ戻ろうと生麦村にさしかかったとき、たまたま川崎大師を見物に行こうとしていたイギリス人4人が乗馬のまま行列の前を横切りました。
「無礼者、島津公の行列であるぞ」武士の一人が叫びましたが、彼らは大名行列の前を馬に乗ったまま横切ることが、無礼な行為だということを知りませんでした。
気の短い武士が、4人に斬りかかり、数名の武士もその後に続き結局1人が死亡、2人がけがをしました。
命からがら逃げた3人から事情を聞いたイギリス人たちは激怒します。
それまでも外国人殺傷事件はしばしば起こっていましたが、被害者は軍人か、外交官であり、一般の商人が斬られたのはこれが初めてだったため、大きな衝撃をうけたのです。これが世に言う「生麦事件」です。
幕府の奉行所は島津久光一行に、イギリス人殺害犯人の処罰を言い渡しますが、薩摩藩側は「浪人が逃げてしまった」と言いわけをして応じませんでした。
この態度に、奉行所は怒ります。
「幕府が薩摩を罰するべきだ」
「そうだ。薩摩は、幕府を困らせるために、異人斬りをやったにちがいない」
「だが、今薩摩を怒らせたら後が面倒だ」
「薩摩を討つべし」様々な意見が飛び交いましたが、その当時薩摩の力は幕府も手を焼くほど強大になっていたのです。
イギリス代行行使ニールが皆を抑えて外交ルートでの決着を図りました。幕府と薩摩藩に謝罪と犯人引き渡し、そして賠償金の支払いを求めました。
 これに対して、幕府はなんとか穏便にすませようと賠償金を払いますが、薩摩藩は相変わらず犯人は不明だと、要求を拒否したのです。
しびれを切らしたニールは強行手段に打って出ます。イギリスは艦隊7隻を連ねて鹿児島の湾に遠征することを決断したのです。

その頃弘安は、留学から無事帰国し、来訪した各国の報告書を作っていました。生麦事件に対する英国艦隊の要求が薩摩藩に届くと、弘安はすぐに鹿児島に呼び戻されました。英国が鹿児島に砲撃を始めるかもしれないというのです。
「弘安ほど、外国の事情に明るい者はおらんでな」
皆が口々に弘安の名前を上げました。薩摩藩邸に家老職の面々が集まり善後策を協議しています。
「戦になったときには、命がけで戦わんとな」
「薩摩の砲台は日本屈指だ。負けるわけがなか」
「そうだ。薩摩藩の偉大さを幕府や日本中に知らせんと」血気盛んな連中もたくさんいます。
 弘安は心中穏やかでありません。
「西洋に詳しい弘安さんも、そう思うでしょ?」
「おいは、西洋の国をつぶさに見てきた。今ここで英国と戦うなんて、無謀としかいいようがなか」弘安は必死に説得しました。
「いかに砲台を作ろうと、所詮、英国艦隊の威力には太刀打ちできん。清国軍も実に勇敢に戦ったが、英仏連合軍の大筒玉を食らったらひとたまりもなかった、と聞いておる」五代友厚がまくし立てますが、そうは言っても、周りの武士たちの勢いは収まりません。弘安より4歳年下の五代は藩所有の船の購入責任者であり、上海渡航の経験者でもあり、世界の事情をよく知っていました。
「薩摩と清国とはちがう」と家老たち。
五代は、意を決していいました。
「英国側があくまで殺害の下手人に処刑を要求するなら、おいがその下手人でごわすと、名乗り出て切腹する」
「目撃者がいるのでそげなことはすぐにばれます」弘安が引きとめるのでした。
 
いよいよ、艦隊が鹿児島の湾に姿を現しました。折りしも、大型の台風までもが鹿児島に襲いかかろうとしています。
 薩英間で交渉が始まるのですが、イギリスは規定通り前回と同じ要求をしました。
「24時間以内に回答がなければ、実力行使にでる」英国書を翻訳したのは、弘安でした。彼は船奉行として藩所有の蒸気船三隻の管理もまかされていました。
「蒸気船は高価な藩の財産です。きっと彼らは船を拿捕しようとするはずです。湾外に退避させてください」弘安は必死に頼むのですが「そげなことは必要なか」役人たちは聞く耳をもちません。
「ここは、英国の条件を呑んで平和的にことを進めた方がよかです。鹿児島市街地や集成館まで火の海になってしもんど」五代友厚も懸命に頼みますがやはり聞き入れてもらえません。
「今更、何を逃げ腰なことをいわれる。そげなことをしたら薩摩武士の面目がたたん」
「斉彬様が作った砲台が今こそ役に立つ時がきた」

彼らの勢いに弘安は、なすすべもありません。また五代も、これ以上の説得は無理だと観念したのです。
「二人とも海外に行って西洋かぶれになったとか?」
「そんなことはなか」五代が力なく返事をします。
「お前たちは、英国の味方をすっとか? 英国と通じておるのじゃなかか?」
 さすがの二人も開いた口がふさがりません。
「スイカ売りに化けて、船に乗り込み、切り込めばよか」
「よか考えじゃ」
「俺も行く」
「俺も決死の覚悟で英国人を切る」
 70名ばかりの決死隊を船に送り込む作戦のようです。
「薩摩隼人が英国人なんかに負けるはずがなか」
 
つまり、無謀にも日本の片隅の一藩が当時の先進国である英国相手に戦争をしようというのです。
「日本刀でいかに切りまくっても、イギリスの水兵が銃口を揃えていれば、到底勝てない」五代がため息をつきました。
「五代どんこうなれば、身を呈して……」
「ああ、松木さん、俺もそれしか手はなかと思っておった。苦労してやっと手に入れた蒸気船をむざむざと、相手に引き渡すわけにはいきもはん」
二人はこっそりとその場を抜け出しました。
期限になっても回答がないので、ニールは外交交渉を打ち切り、ただちに五隻の戦艦を湾内近くに向かわせました。停泊中の3隻の蒸気船はすぐにイギリス側に見つかりました。
乗船していた船員たちに、
「おいたちは船に残るが、全員脱出せい」五代と弘安が叫びました。台風で大揺れに揺れていた三隻は不意をつかれたイギリス艦隊の来襲に上を下への大騒ぎです。
「二人の日本人が船に残って、何か訴えておりますが、どうしますか?」部下が戦艦のキューバ提督に言いました。
「何を言っておるのだ?」
「開戦もしていないのに、なぜわが藩の船を奪うのかと、言っています」
「すでに、戦いは始まっておるではないか」
「自分たちは決して敵ではない。船に残る、と抗議しています」
「捕虜をとったところで、どうなることでもなかろう」
「しかし、絶対に船から離れないと聞き入れません」
「日本人というのは、どうにも理解できない。自ら捕虜になる奴がいると思えば、英国と一戦を交えようとするやからもいる。不思議な国だな」
「いかがなされます?」
 提督はけげんそうな顔をして、
「スパイかもしれない。捕まえてちゃんと見張っておけ」と言いました。
 通訳のサトウが片言の日本語で二人に、
「汽船を3隻渡さないなら攻撃を開始するのみだ」と威嚇しました。
「やるならやってみろ。その前に俺の命を取れ」五代は胸をはだけて水兵らの前に仁王立ちになりました。
高価な藩の船を守ることは五代にとって命と引き換えにしてもやらねばならぬ使命だったのです。
「ここで死んだら犬死にです。五代さん、あんたはこれからの日本にとって、なくてはならん人です。命を粗末しないでください」弘安が言うか言わないうちに、「縄をかけるのじゃ」指揮官が水兵に命じ、弘安らに縄をかました。
二人は船ごとイギリス側の捕虜になり、別の船に移されました。
 捕虜になってからも英語が話せる弘安は、無抵抗な船を奪った英国艦隊のやり方について、提督に抗議を続けました。
「交渉を有利に進めるため措置です」提督は、船を担保にして賠償金の交渉をするつもりだと、いいました。
弘安たちは小窓がついた船室に押し込められました。船室から戦況を見ることが出来ます。船員たちの落ち着いたようすを見て二人は、悔しい思いをしました。
「薩摩なんぞ、赤子の手を捻るくらいのもんだと思っておるのじゃ」弘安がいうと、
「戦の様子を見守るしか方法はごわはん」五代もあきらめ顔です。

同じ頃、ドーンと遠くで砲声が響き水柱が立ちました。最初の一撃は薩摩藩からでした。
「ついに始まったか?」心配そうな顔で五代が呟きました。
「なんと無益なことを」弘安が漏らします。
ところが、なかなか英国艦隊は交戦しませんでした。それは、幕府から受け取った賠償金が船内の弾薬庫の前に箱に入れられたままうず高く積み上げられてすぐに反撃に出られなかったのです。それらを他の場所に移し、弾薬庫をあけるのに手間取り、すぐに交戦体制に入れなかったのでした。
 提督は、交戦するのに三隻の船が足手まどいになると考え、「だ捕した船を焼却せよ」と命じました。
「止めてくれ」五代は地団太を踏んで悔しがりました。
五代が大変な苦労をして購入した藩の貴重な財産だったのです。

次々と、砲声が続き、船内があわただしくなります。
ドーン、と大きな音がしたかと思うと、白い煙が上がりました。イギリス側からの攻撃が開始すると船が大きく揺れました。
 弘安は小窓から空の彼方を見つめていました。天候は荒れ模様で、突風が吹く度に、船室がガタガタと音を立てました。つんざくような砲撃の音も響きます。

英国のアームストロング砲は操作が簡単な上、次々に発射可能でした。射程距離も藩の大砲の比ではありません。その威力のすさまじさに弘安も五代も、ただ茫然とするばかりです。
「あれを見てみやんせ」突然、五代が鹿児島の方を指さしました。町のあちらこちらから火の手が上がり、もうもうと立ち上がる黒煙が見えます。砲台もことごとく破壊されています。強風にあおられて火の勢いは強まる一方です。
「被害も、そうとうなものじゃろな」弘安の声が段々と小さくなります。
またドーンと音がして、船が大きく揺れました。
先代藩主斉彬公が作り上げた工場が燃え上がるのを見ると二人は、斉彬公に申し訳なくて涙が溢れて止まりません。
青白い閃光が空を走り砲声に合せたように雷鳴がしました。
ドーン、ドーンと音がして波しぶきが上がります。あわただしく動き回るイギリス水兵たちの叫び声を聞いて、二人は異変に気付きました。近くで聞こえる炸裂音は、薩摩藩の砲弾が着弾したからに違いありません。
「弘安さん、あれを」五代の声は震えています。
イギリス艦隊の一隻から炎が上がっています。船員たちが、消火活動をしている様子が見えます。黒い煙が辺りを覆っています。
「薩摩藩も善戦しておるな」と弘安。
桜島の砲台からの攻撃も始まったようです。
暴風雨はさらに勢いをまします。
「こん、台風が薩摩に味方しておるようだな」五代の声にまた弘安は空を見上げ、視線を桜島に移しました。その姿は霞んでいます。
弘安には、桜島がじっと自分たちを見守ってくれているような気がしたのです。
これから自分たちはどうなるのだろう? 弘安の胸に不安がよぎりました。船を守りたい一心で捕虜になったのですが、薩摩藩は自分たちの行動をどのように思うだろう? 弘安の気持ちを察して五代も、
「俺たちは、だだじゃすまんな」虚ろな目で言います。

午後4時頃、台風一過、風も収まり雲の切れ間から桜島の雄大な姿が現れました。波もおだやかです。
火を放たれた3隻の船は黒煙を上げながら燃え続けています。鹿児島市の上町一帯を中心に、まだ火の勢いは衰えをみせません。
二人はうずくまり黙りこくっていました。

弘安は妻茂登のことを考えていました。茂登はこのとき、身ごもっていたのです。茂登に何も話すことなく、このような行動をとったことで妻がどれだけ心配しているか、そのことが気がかりでした。
 そこへ、英国士官を伴った清水と名乗る一人の日本人があらわれて、
「松木弘安さんはいますか?」と話しかけてきました。
 偽名を使っていたので弘安は驚き、その男を睨みました。
「あなたですね」その日本人にいわれて弘安は思わず頷きました。
「この方はすぐれた蘭学者です。これからの日本に不可欠な人物です」と英国士官がいい、清水という日本人に「この方を守ってさしあげましょう」というのです。しかし弘安は警戒心を解くことはできません。どうやら日本にいるイギリス人の間では蘭学者として弘安の名前が知れ渡っていたようなのです。
もう一人の捕虜、五代が焼かれた船の購入者だと伝えると士官は、
「あなたも捕虜扱いするのは止めます。戦争はもう決着がつきましょう。私たちはやがてここを離れ、横浜に向かいます。あなた方二人の身柄は私が保障します」と言いました。
横浜に着いたら早速一部始終を幕府に伝えるつもりだと、弘安が述べると、清水は目をむいて言いました。
「とんでもない。そんなことをしたら、二人の命は保証できませんよ。薩摩ではあなた方が、汽船を焼いて逃げたと思っているかもしれませんし、幕府はもう力が弱くなっていますから、庇うどころか、薩摩藩に引き渡すかもしれません」
「戦の始末が解決し、ことが平穏に収まるまで江戸のどこかに隠れて、過ごすしかなかかもな」力なく五代がいい、弘安も清水もうなずきました。
「二人を何とか逃がしてやりたいのです」清水の熱意に士官は承諾し、さらに士官の計らいで提督も五代と弘安を普通の客並みに丁寧に扱うと約束しました。

船は鹿児島を出てすでに数日たっていました。弘安たちは横浜行きを希望しました。
 二人は捕虜ではないから、あとはどう処分してもいいと解釈した清水は早速二人を船から下ろす作戦を練りました。横浜に近づくと小舟を船に横付けし、彼らに小声で言いました。
「見張りがあちらこちらにいてあなた方の行方を捜しているはずです。馬や籠に乗ると目立つので、避けて下さい。宿屋では人の出入りが多いから薩摩言葉で話さないように。私は先に宿で待っています」清水の細やかな計らいに弘安たちは深く感謝しました。
夜遅く二人は、小舟に乗り込みました。月はなく辺りは暗い闇に包まれています。
懸命に漕いでも、なかなか小舟は進みません。
「風が強くてどうにもならん」五代がぼやくと、
「でも、こがないと」脱出劇の跡ですから弘安もへとへとに疲れています。二人は暗闇の中、ただひたすらこぎ続けました。ところが目的地とはかなり離れた場所に着いてしまいました。やむを得ず危険覚悟で籠を使い、遅れること数時間後にやっと約束の宿にたどり着いたのです。
「あれほど、籠を使うなといったではないですか?」清水が怒ると、
「着いた場所が何処かも分からず、面目次第もない」五代が頭をかくと、清水も、苦笑いするしかありませんでした。
 二人は、久しぶりにたっぷりと休養をとることができました。

その後、横浜から逃れ江戸にたどり着きました。ただ、いつまでも江戸にいるわけにはいきません。
二人の立場は相変わらず危険な状態です。
三人は清水の実家周辺の宿を転々としました。食事もろくにとれないこともあり、緊張の連続でした。さすがの弘安も五代もすっかり疲れ果てていました。妻茂登は今頃どうしているだろう? お腹の赤ちゃんは大丈夫だろうか? 弘安は、度々彼女の顔を思い出すのでした。
年末近くになると、潜伏生活に痺れを切らした五代が、長崎に行くと言い出しました。
「もう少し辛抱しろ」と弘安は、なだめましたが、結局五代は旅立っていきました。
「五代どんは、言い出したらきかんからなあ」

五代のうしろ姿を見送りながら、弘安はため息をつきました。
 五代は、いざとなったら、切腹するくらいの覚悟が出来た男です。彼ならきっとこの難局を乗り切れるだろうと、弘安は思いました。自分もここ数カ月、命がけの日々を過ごしました。五代と同じく日本の為なら命をささげても良いと腹を決めています。ただむざむざと犬死にだけはしたくなかったのです。
しばらくすると、弘安の居場所が巷で噂になり始めました。
宿近くで食事をしている弘安の食卓を、見知らぬ男たちが取り囲み様子をうかがっています。
気付いたときには、もう手遅れでした。商人の姿に変装していたため帯刀していません。
ゆっくりと立ち上がり勘定をすませると、足早に店を出ました。あせるように男たちも立ちあがり、同じ歩調で続きます。
少し歩くと、川沿に出ました。空は血のような夕焼けです。「犬死にだけはせん」自分に言い聞かせました。じっとりと汗が額からにじみ出てきます。
 長い潜伏で気が緩んだのでしょう、うっかり独りで行動してしまった結果でした。このまま戻ると宿に迷惑がかかる、かといって、どこに行くあてもありません。もう観念しなければと、思ったとき、突然わき道から現れた男が声をかけてきました。
「墨田屋の清次郎さんではないですか? 商売でこちらへ?」あたりに響く大きな声ですが、息が上がっています。男は笑みを浮かべて、弘安に歩み寄り、「いやぁ、懐かしい」と手を取りながら小声で、「私と話をあわせて下さい」と囁きました。

男の顔をまじまじと見ます。口の中が渇いてなかなか声が出ません。それでも、
「やあ、久しぶりです」やっと口にしました。
「いやはや、清次郎どのはいつお会いしても変りませんな」
もう一度、彼の顔を見て、やっと思い出しました。
横浜の街でつけてきた木村清次郎と名乗った男でした。
3人の男たちは、彼らのやり取りを遠巻きに見ていましたが、チッと一人が足元に唾を吐き三人同時に踵を返して立ち去りました。ほっと胸をなで下ろすと、
「弘安さん、あなたは命が惜しくないのですか? 奴らは殺気立っていましたよ」木村がすごい形相でにらみます。弘安は礼をいう間もありません。
「助かりもした。でもなぜ?」
「あなたが薩摩藩を裏切って英国船に進んで捕虜になったという噂は私も耳にしました。でも、命を日本国に捧げてもいいといったあなたの言葉を私は今も信じています。だからあなたが飯屋で男たちに囲まれているのを見て、咄嗟に芝居を思い付いつき、先回りしたのです」
「でもよくここが」
「この辺りは私の庭みたいなものです」
「もしばれたら、あなたにも身の危険が及んだかも知れもはんど」
「私も武士の端くれです。その時は、自分の義のために刀を抜いたでしょう」
「そこまで……」弘安は胸がつまりました。
「私なりに海外のことを色々と勉強しました」
「そうでしたか」
「あなたみたいに世界に通じた人が、これからの日本には必ず必要だと、私もよく分かりました。攘夷がどうのと言っている場合ではない」
「有難う、この恩は忘れもはん」
「それよりもう少し周りに気を配って下さい。それと薩摩なまりを直す訓練が必要かと」
「薩摩なまりがあっか?」
「ほら、そのままです」やっと木村に笑みがこぼれました。
「では、お気をつけて」それだけ言い残して木村は去って行きました。
 その後も潜伏を続けた弘安でしたが、この年の十月に長女が生まれたと、清水を介して知らせが届きました。弘安は益々、犬死になど出来ないと決意を固めます。清水が、独断で弘安の師である川本幸民に相談したうえで、薩摩藩に一部始終を通知しました。清水にしても一か八かの賭けでした。また弘安も、初めて江戸から離れ、幸民らと会い今まで潜伏していた経緯や正直な気持ちを話しました。
 弘安の気持ちが通じたのでしょう、やがて薩摩に帰ってもよいとのお達しが届きました。
 弘安は潜伏しながらも、ただ無為に過ごしていたわけではありませんでした。薩英戦争後の始末のための、英国側の情報や動きを自分なりの方法で調査していました。又薩摩藩も、このままでは幕府もあてにならないが、開国も避けては通れないことをイギリスとの交戦から学びました。
  同じ頃、西郷吉之助や大久保利通、小松帯刀らが薩摩藩の代表として、政治の表舞台に出て来たのです。
【つづく】

※読後のご感想ご意見などお待ち申し上げております。

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