Dr. Koichi Okabe

Dr. Koichi Okabe

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15年以上の海外駐在経験をもとに、日本と海外における仕事の仕方の違い、コミュニケーション作法の違いがビジネスの場面でどのように影響してくるかを考えていきます。

あわい(=日本と海外の『間』)をつなぐコミュニケーション・適応の専門家 ● インサイトアカデミー(株)「異文化適応」講師 ● 海外の方との仕事・人間関係・コミュニケーションにおける「不安」「苦手意識」「ストレス」を「チーム力の向上」「信頼の獲得」「自信」へとつなげます ● 新興国・途上国7カ国で20年以上の現地駐在・マネジメント経験 ● 海外現場での孤立・板挟みの経験は数え切れず ● 異文化コミュニケーション学博士

28/04/2026

【見えているけど、聞こえていない】
何なんだろう、この人たちは…海外の方と仕事をしているとき、そう感じる瞬間はありませんか。

・会議で忌憚のない声を聞きたいのに、誰も発言しない。
(僕は現場の人たちが何に困っているか正直な話を聞きたいのに、僕の耳に心地いい話しか聞こえてこない)

・約束の締切や期日をいとも簡単に変更してしまう。
(契約書に書いてある期日を、謝罪もなく勝手に引き延ばそうとする)


自分の期待通りの反応が相手から得られななかったり、相手がこちらの常識では考えられない行動をする。

そんなとき、相手に対して無意識のうちに違和感や苦手意識を持ってしまうのです。




最近はじめて映画『オッペンハイマー』を観ました。

その中で、オッペンハイマー博士が若かりし頃、彼に影響を与えた教授が投げかけた言葉がとても印象に残りました:


***
代数というのは「楽譜」だ。

重要なのは「楽譜」が読めることではない、
『音楽』が聞こえるかだ。

君は『音楽』が聞こえるかね?
***


この言葉は、グローバル環境での仕事やコミュニケーションにもそのまま当てはまると感じました。


僕たちは相手の

・発言
・話し方
・仕事での行動、取り組み方

といった「見えているもの」で相手を判断してしまいます。


でも、相手の言動の裏には

・相手の価値観や信念
・仕事を進める上で前提となっている考え方

・相手にとっての常識
・相手の組織上の立場

・仕事に取り組む動機
・周囲からどんな評価を得たいと思っているか

といった【目に見えないもの】が必ず潜んでいます。


そして、相手の言動の「良しあし」を判断している僕の中にも【相手には見えない】前提があるということです。




相手に対して嫌悪感や違和感を感じているとき

それは相手が奏でている『音楽』までは聞こうとしていないだけなのかもしれません。

また逆に、あなたが奏でる『音楽』が相手には届いていない、聞こえていないのではないでしょうか。




映画『オッペンハイマー』から考えたこと。

異文化理解や異文化適応とは、目に見えている違いを分析することではなく

その奥にある「聞こえていないもの」「相手の音楽」に耳を澄ますことだと改めて思い至りました。


相手が奏でる『音楽』とあなたが奏でている『音楽』がお互いに聞こえない限り

どれだけ目に見えているところで対策をしても、信頼を築いたり、効果的な仕事を進めることは困難です。

あなたには相手の『音楽』が聞こえているでしょうか。

15/04/2026

【異文化適応に「100点」はいらない】
海外のメンバーと信頼関係を築く。チームを率いる。そのために求められる「異文化適応」。

それは「相手の期待通りに振る舞うことだ」と考えられがちです。



でも、現実はそんなに単純ではありません。

例えば、欧米圏のメンバーとの会議の場面。

相手がこちらに期待していることは
・自分の意見を言うこと。
・わかりやすく発言すること。

それができるのが「100点の行動」です。


でも実際には

・こんなことを言ったらバカだと思われるのでは?と不安になり、意見を引っ込めてしまう

・そもそも話についていくので精一杯で、自分の意見がまとまらない
(「今の議論、どこからそうなった?」と心の中で3回くらい聞いている)


そうやって会議で何も言えずに終わってしまう。

異文化適応は、「100点」を意識した瞬間に動けなくなることがあるのです。




会議で周囲の期待に応えられなかった自分、思うように異文化適応ができない自分を省みて

「僕は海外に向いていないんだ」

「海外の人と対等にできるようになるまで海外に出るのはやめよう」

と、かつての僕も一人で殻に閉じこもっていたことがあります。




でも実際の現場では「常に100点」が求められているのではありません。

言い換えると、相手の期待には「幅」があるのです。

会議で何も発言しない「0点」と、鋭い意見を出す「100点」のあいだには無数の選択肢があります。

例えば、

・誰かの発言を、自分の言葉で言い換えて確認する。

・わかりきったことでも、あえて質問をする。

・議論を「交通整理」してみる。

どれも「100点」ではありません。

でも、「0点」でもない。


そして会議で他の人たちの様子をよく観察してみると、全員が毎回「100点」の行動をしているのではありません。

多くの人が「0点」と「100点」のあいだで動いています。

だから「異文化適応で100点を!」と気負わなくていい。




こうした「期待には幅がある」という感覚は、仕事以外の場面でも同じです。

例えば、僕が帰国したときに必ず立ち寄る定食屋さんがあります。

・旬の魚が炭火で焼かれてとってもおいしい。

・添えられたお漬物も素朴な味でおいしい。

・でも、いつも混んでいて騒がしい。

・ご飯が運ばれてくるのに時間がかかる。

それでも僕はどうしてもそこに通ってしまうのです。

つまり、人の価値や評価というのは、あるひとつの要素だけで「100点かどうか」が決まるわけではないということです。




これは仕事でも同じではないでしょうか。

もし会議で「20点」しかとれなくても、その評価を挽回する機会はいくらでもあります。

・チーム内で滞っている情報共有や調整役を担う

・手が足りなくて困っている他のメンバーに手を差し出す

・自分が持っている経験や技術力、専門知識など

あなた自身が持っている長所、得意なことでチームに貢献できること、価値を生み出せる場面はいくらでもあるのです。

だから「異文化適応・100点満点」でいつも応えなければと気負わなくていい。

相手にとって何が「0点」か、何がタブーかを知ったうえで、それだけは避ける。

まずは、「0点」と「100点」のあいだに一歩踏み出すことです。




もちろん異文化適応で「100点」を狙う姿勢、自己研鑽の努力を僕は否定しているのではありません。

でも、もし自分の中で迷いや抵抗を抱えているなら、その弱さを自分で認めつつ前を向く。

置かれた環境の中で、自分ができることを武器に少しずつ関わっていくこと。

それが実際の現場での「異文化適応」だと思っています。

🐟 画像は、この投稿を書き始めてからずっと僕の頭の中を満たしているものです。

10/03/2026

【異文化適応の「理想」と「現実」】
グローバル環境では「異文化適応」が重要だと言われます。ただその「理想」に対し、その過程で直面する「現実」を僕は常に感じてきました。

同じグローバル環境にいても、人が置かれている状況はそれぞれ違います。

たとえば

・相手との利害関係(発注側か受注側か、など)

・与えられている権限や組織内での地位

・本社から何を期待されているか、何を評価されるか


異文化という環境にあっても、こうした要素は

【異文化以前の問題】

として存在しています。

そしてその異文化以前の問題が、それぞれの「適応の仕方」に影響します。




以前、ある異文化適応の研修に参加したことがあります。

講師は世界的企業で北米事業を率いた経験のある方で、その方はこうおっしゃっていました:

・北米では自分の考えをストレートに伝えなければ評価されない。

・意思決定が遅いと能力がないと思われてしまう。

・だから、はっきり意見を述べ、素早く決断することが重要だ。


どれももっともな話ですし、実際に多くの場面で当てはまるのだと思います。




ただ、当時の僕は若手のペーペーで、現場監督を任されているとはいえ意思決定の権限がほとんどありませんでした。

例外的な案件が起きれば本社の判断を待たなければならない。

その間、現地のメンバーからは「まだ決まらないのか」とせっつかれる。

現地のスピード感に合わせたい気持ちはあっても、自分の権限だけではどうにもできない場面がほとんどでした。


現地でほとんど名前の知られていない組織にいたときは、周りに対し「下」に出て仕事を進めざるをえないことが多かったです。

そんな立場なのに

「相手にもっとストレートに言うべきだ」

と言われても周囲との関係を壊してしまうのが怖くて、すぐに実践できるほど単純な状況ではありませんでした。


柔軟なスケジュール管理が望まれる環境では、時間にうるさく小言をいうと周囲に疎まれます。

でも時間管理を現地で徹底しなければ、僕は本社で「マネジメントできない使えないヤツ」という評価になってしまいます。


このように、現地に適応しなければいけないのは100どころか500も承知していても

【異文化以前の問題】

はその「適応」を躊躇させてしまうのです。




もちろん考え方や価値観の異なる環境で働く以上、相手の仕事の進め方やコミュニケーションの作法を理解することは欠かせません。

信頼関係を築くために「適応」が必要なのは間違いないと思います。




ただ、その「適応」はしばしば

【郷に入っては郷に従え】

という理想の形で語られることが多いように感じます。


ところが「現実」として

・組織の中での役割
・与えられている権限

・相手との関係性
・会社のマーケットでの立ち位置

・自分の性格(内向的・外向的など)
・相手のこれまでの経験(日本人と働いた経験の有無など)

といった

【異文化以前の問題】

つまり現実的な制約の中で僕たちは仕事しています。

同じ環境にいても背負っている条件が違えば、そこで取れる行動や適応の仕方も自然と変わってくるはずです。




だから僕は異文化適応とは「自分を消して相手に合わせること」ではなく、互いの立場や制約を踏まえながら

「仕事の進め方や期待をすり合わせていくプロセス」

だと思っています。

同じグローバル環境で働いていても「適応」の形は人それぞれなのです。

Photos from Dr. Koichi Okabe's post 03/03/2026

【こういうのがいい】
仕事で得られる充実感とは、日常の、何気ない時間の中にこそ宿るのかもしれません。たとえばお湯を沸かしている数分の間に。


先日、ちょっとくたびれたのでお茶でも飲もうと休憩室に入ったときのことです。

ひとりの同僚が、水の入った電気ケトルにスイッチを入れたところでした。



その同僚とは挨拶や簡単な近況のやり取りはあっても、特に用事もないところでふたりだけになる状況はありませんでした。

今回もさらっと挨拶をしたあとは話すことも特に見当たらず。



休憩室の外に目をやると、夕陽が目のまえの建物を明るく照らしていて一日が終わりを告げつつありました。

ああ、今日も一日が終わっていくなあ。



そんなことを考えるうち

透明のプラスチックでできた電気ケトルが少しずつ「本気」を出しはじめたのか静かに音をたてはじめ、水の中に小さな気泡がたちはじめました。



電気ケトルの前でつっ立ったまま、ふたりしてその様子を何も言わずボーっと眺めていました。



するとふいに彼が

「こういう時間っていいよね、お湯を沸かす間にボーっとするのって」



その言葉に我にかえりながら、なんだか空気がほどけた感じがしました。



「うん、僕もこんな時間が好き。家で洗濯機をまわしている間、それをずっと眺めてることもよくあるよ」



彼は「えぇ?なんじゃそれ?」というような笑みをうかべました。



洗濯機が回るのを眺めることで「心の安らぎが得られる」という僕の考えには同調してもらえないようでしたが

特に意味のない時間に静けさが訪れる、そんなひとときの心地よさは重なった気がしました。



電気ケトルの水はやがて大きな泡がポコポコと音を立てはじめ、しばらくしてカチリと音を立てスイッチが切れました。



「あぁあ、現実に戻っちゃったなあ」

とつぶやいたのち

彼が紅茶のティーバッグが入った自分のコップにお湯を注ぎ、それから僕のルイボスティーのティーバッグが入ったコップにお湯を注いでくれました。



「じゃあ残りの一日、よい時間を」

「うん、ありがとう、あんたもね」

と言いあってお互い休憩室を後にしたのでした。



仕事で得られる充実感や、そこに自分がいる意義。

それらは何かを成し遂げたときだけでなく、そんな何気ない「静かな共感」の積み重ねの中にもあるのだと思います。



画像は、先日行われた職場メンバーでの会合のときの写真です。

内輪ウケではありますが、全体写真でポーズが揃ったときと揃わないときのギャップが好きで。

僕のいる南アフリカチーム、ホントに優秀でいいチームだなと思っています。

こんな恵まれた環境に身を置かせてもらっているだけでもありがたいことです。

24/02/2026

【『報連相』のあり方:「お母さんはいいって言ってるの?」】
海外のパートナーと仕事するとき、いわゆる『報連相(報告・連絡・相談)』の前提が違うことで必要な情報が思うように入らないことがあります。

画像は日本でのコミュニケーションの流れです。あくまで一般的な話で、あなたの会社と異なることもあるかもしれませんが、そこはご容赦ください。




日本では以下のような「暗黙の了解」があります。

・報連相は階段を「下からひとつ」ずつ昇る →「下」の人は「ひとつ上」の人に報連相する

・「ひとつ上」の人を飛ばすと怒られます

・他の部署や他の組織とのやり取りがある場合、「上の人同士の合意」がまず必要

・「下」の担当者だけで勝手に進めると怒られます




この背景にあるのは「組織の秩序を守る」「上に従う」という考え方です。

個々のメンバーがバラバラに動くのではなく、「上」が中心となって「下」を監督しつつ、組織の目指す方向に全体で進むことを重視するのです。

だから上司は部下の動きを把握していて当たり前。

そうでなければ「管理能力がない」と見なされることもあります。




僕が小学生のとき、おもちゃ屋さんで小学生にしては高価なプラモデルを買おうとレジに行ったとき、店員のおばさんに聞かれたことを思い出します:

「お母さんはいいって言ってるの?」


日本人は

「先生の言うことを聞く」

「大人の言うことに従う」

ことを小さい頃から言われて身に染みついています。

「上に従わなければならない」という社会前提を子どもの頃から感覚として身につけている。

だから日本の報連相の仕組みが馴染みやすいのでしょう。


この感覚は社会人として働くうちにさらに「当たり前」になります。

何も言わなくてもスタッフは何かあったら僕に相談してくれますし、こちらにも逐一情報を共有してくれます。




ところが海外の方と仕事をすると、その前提があっさり崩れることがあります。

気づいたら現地のスタッフが僕を飛ばして「上」から情報をもらって仕事を進めている

パートナーが直接取引先のトップに相談し、僕の知らないあいだに話がまとまっている。


そんなことがあると、つい言いたくなるのです「勝手なことをするな!」と。

なんで僕にまず相談してくれなかったんだ

なんで僕にまず教えてくれなかったんだ

問題が起きたら日本の本社に「監督不行き届き」で怒られるのは僕なのに。




でも後になってわかったこと。

彼らは僕を軽視しているわけではないし、僕に情報を隠そうとしているわけでもありません。

彼らが重視しているのは「スピード」「自律性」。


必要なら情報や権限を持つ人に直接自分で会いに行って話をする。

自分で考えて行動せず、逐一上司にお伺いを立てることはむしろ「未熟者」と考える人も結構います。

「上下」よりも「対等」を重んじる文化では、日本的な報連相は

「行き過ぎた干渉行為」

「マイクロマネジメント」

と受け取られ、やる気をなくしてしまうこともあります。




日本型がまったくダメなわけでも、それ以外の型が普遍的に優れているわけでもありません。どちらも一長一短です。

ただ「組織や個人の健全さをどう測るか」の前提が違うだけ。

秩序、上下の尊重を健全とするのか

スピード、自律性を健全とするのか

異文化マネジメントとは、そのような「前提の違いがないか」を確認することから始まるのです。




おもちゃ屋さんでの話のつづき。

僕は祖父と親戚からもらったお年玉を、お年玉袋のまんま手に握りしめていたのですが

「お母さんはいいって言ってるの?」

との店員さんの問いに「ううん、お母さんには言ってない」なんて正直に返してしまい。


そしたら店員さんに

「じゃあ、お父さん、お母さんと相談してからまたいらっしゃい」

と言われただけで売ってもらえず。昔はそんな店員さんも結構いましたよね。


そして家に帰り、またも生真面目に母に相談したところ「アホか」で却下。

おもちゃ屋さんでガラスのケースに飾られ、いつもあこがれの眼差しで眺めているだけだったガンダムのプラモデル。

結局買えずじまいで、我慢という言葉とともに涙を呑んだのでした。

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17/02/2026

【見えている世界はメチャ狭い】
同じ環境でも人によって「見えているもの」「見たいもの」は違います。客観的に見ているつもりでも、実は「全然見えていない」こともあるのではないでしょうか。


『動物と人間の世界認識(日髙敏隆著)』という本を読みました。

いろんな動物や昆虫を取り上げ、彼らには何が見えているか、何を見ようとしているのか

その世界観の多様性に驚嘆しながら

動物や昆虫、そして人間も、結局自分にとって意味のあるものしか見えない、見ようとしないんだなということに改めて思い至る、ものすごくおもしろい本でした。




たとえばアゲハチョウは漠然と飛んでいるのではなく

日が当たっている木のこずえに沿って飛ぼうとするのだそうです。

アゲハチョウは視野が1メートルほどしかありませんが、その狭い視界の中でひたすら日のあたる木のこずえを探しながら飛んでいる。

日陰があるところにさしかかると、さっと日のあたる方に飛んでいく。


なぜなら

アゲハチョウはミカン科の木のこずえに卵を産み、幼虫はその葉っぱを食べて大きくなり羽化するのだそうですが

ミカン科の木は日の当たる場所にしか生えていないから。

交尾をする相手も日の当たるミカン科の木にしかいないから。


だから人間には見えている大きな木や、日陰の落ちた原っぱ、砂利道、川の流れなんてものはアゲハチョウには何の意味もなく、それらは全然見えないのだそうです。




でも、アゲハチョウの視野の狭さを僕は笑えたもんじゃないなと、ちょっと怖くなりました。

自分では客観的に見ているつもり。

広く見渡しているつもり。

でも実際は「自分にとって意味のあるもの」しか見えていないんじゃないか。

見たいものしか見ていないんじゃないか。

他の人が見たら僕の視野なんか「アリぐらいのもん」と形容されてもおかしくないのかもしれないと。




仕事で誰かとパッと会った瞬間、自分の見たいものが見れているかに僕の意識が向いています。

相手の服装であったり、顔の表情であったり。
話し方の態度はどうか、目線はどこを向いているか。

そして仕事では自分の思い描くとおりに進んでいるか。

「思った通り」であれば安心し
「思った通りでない」とストレスを感じる。




こうして考えると、冷静に状況や相手を見ているつもりでも、実際は自分にとって意味があるものを見られているか、それを確認しているだけではないでしょうか。




僕は海外の方との仕事が多いですが、相手が何を見ているか、相手に見えているものは何かを知ることで愕然とすることもあれば

アゲハチョウの話のように「へぇ、なるほど!」と思う場面も多くあります。

相手のもつ世界観のようなもの。

これからも楽しみながら学んでいければと。




あなたに「見えているもの」「見たいもの」って何でしょう?

アゲハチョウが日なたの木のこずえに吸い寄せられるように

僕はスーパーに行くとアイスクリームコーナーの「あずきバー(箱のやつ)」にいつも吸い寄せられるのです。

14/02/2026

【「ウチ」「ソト」の壊し方】
同じ会社の中なのに、違う部署との仕事になると情報が滞ったり、なんとなくお互いが敬遠しあっているような雰囲気になること、ありませんか。

「ウチ」のメンバーだけなら物事をトントン拍子で進められるのに、そこに新しい人が入ったり、「ソト」のチームと一緒になった途端に歯車が狂ってしまうのです。



僕の場合、「日本チーム」と「ある国のチーム」で合同チームを作ったり、各国から数名のメンバーが集って「ひとつのチーム」でプロジェクトを動かすのが日常です。

しかしながら、どれだけその目標が素晴らしく

それを達成するための計画や十分なお金があり

必要なスキルや経験を持つメンバーが揃っていても

「ウチ」と「ソト」のメンバーの間で連携がグチャグチャになり、「ソト」のチームに対しての不満や嫌悪感が渦巻いてしまいます。



たとえば「日本チーム」はパートナーである「ソト」のメンバーに対し、事あるごとにフラストレーションを抱いています。いわく

あの人たちは時間も約束も守らない

あの人たちは情報をちゃんとよこさない

「ウチらはちゃんとやってるのに!」



一方で外国チームも「よそ者」の日本チームを見下したりします。いわく

あの人たちはいつも判断が遅い

あの人たちは会議では何も言わないのに後になって文句を言う

「ウチらはちゃんとやっているのに!」



そんな風に「ソト」のメンバーにうんざりした目を向けながら

「僕たちって最高だよね」

「あの人たち、なんかちょっと違うよね」

「結局、信用できるのはウチらだけだね」

というように仲間の結束だけがより強くなり、ヨソ者に対して強固なカベを作ってしまいます。

つながりの強い、同系色のチームほど、よその人や「ソト」のチームに対し無意識のうちに警戒心や不信感を持ってしまうのです。




不思議なことに、個々で見れば誰もが優秀なのです。

でも「ウチ」「ソト」のカベを築くのは、不安や不快のもとになる対象を遠ざけようとする

【人間の本能】

です。メンバー個々の資質や経験の問題ではありません 。

人間は自分に近い人を好きになる生き物。

人が集まれば自分に近い人同士が引き寄せられ、それ以外の人は「ソト」と考えるのは自然なことです。

だから

「ウチ・ソト」の意識なんて持っちゃいけないヨとお説教したり

「違いを受け入れましょう」

なんてこと、仕事の現場では100回言ったって効果がないから僕は言いません。



もちろん大事なのはその先です。いかに早く「ウチ」「ソト」のメンタルを解消し、一つのチームとして仕事に取り組んでもらうか。

僕がまず試みるのは、それぞれの「ウチ」「ソト」のチームの中で、一番影響力を持つ人同士の心理的な距離感を縮めることです。



これはそれぞれのチームで一番エライ人、肩書がある人とは限りません。

チームの中で声が大きいとか、メンバーから頼りにされている人、チーム内の情報が集まるような人。

その上で大事なのは

・その人たちが「ウチ」を守るための存在なのか

・「ソト」との橋渡しができそうな存在なのか

を見極めることです。



前者なら、その人自身のストレスや懸念に耳を傾けることから始める。

後者なら、その人たちでペアになって一緒に作業をしてもらう。

「ウチ」「ソト」の対立が激しい時ほど、これをわざとらしくやるのではなく、お茶しているときにもちかけるなど「シレっ」とそうなるような状況を作り

「ウチ・ソト」でやっていくためのルーティンやルールをチーム内で立ち上げるのです。



「ウチ」と「ソト」のカベを壊そうとする僕の意図がバレてしまうと、メンドくさいなと思われるのが関の山で

かえって「ウチ」を守ろうと意固地になって逆効果になることがあります。


僕は思っていることがすぐ顔に出ますし、お芝居も下手くそです。

だからここはダイコン役者にならないよう、セリフに気を付けながら踏ん張らなければならないところです。




「ウチ」「ソト」のカベが強固で、どれだけ「ウチ」「ソト」でいがみ合っていても仕事は進められます。成果だって出せます。

でも「ウチ」「ソト」が壊れるのってスゴイことです。

これまで「ソト」だった人が「ウチの一員」となって仕事できるようになったとき

「しょうがないからソトの人たちと一緒にやっている状態」

に変化が生じ、個人とチーム力の成長を見ることができます。

これはあくまで仕事での話で、「みんなで仲良くする」とか「友達を作る」という次元とちょっと違います。



むろん、それができたからって履歴書に書けるわけでもないしボーナスが出ることもない。

「ソト」の連中にストレスを溜めながらも、ちゃっちゃと目の前の仕事が片づけられればそれでいいというのもわかります。

プロジェクトが終わったときに

「あー、メンドくさいもんが終わってせいせいした!」

なんて言われたことがありますが、こんなつまらないことはない。



「ウチ」だけでやっていたのとレベルの違う達成感。

「ソト」だったパートナーに「一緒に仕事できてよかった」と言われたときのうれしさ。

そんな喜びを一人でも多くのメンバーと味わえたらと僕は思っています。


画像は先日、大家さんの娘さんの誕生パーティーでバーベキューにお誘いいただいたときのものです。

お肉を焼く間、僕は「はよ焼けんかな」とそばでヨダレをたらして見ているだけでしたが、写真撮ろうゼというので

僕はこそっとトングを奪い取り、なんだか僕ががんばって焼いているように「シレっ」と見せかけたのでした。

26/01/2026

【その土地の食べ物が「口に合わないとき」】
『どの民族にも、どうしてもそこに帰っていく味がある。その味は異邦人に対してはどこか恥ずかしく、それでいて誇りたく、何かデリケートなものかもしれない』

『長い旅の途上』で著者・星野道夫さんはそうおっしゃっていました。

訪れた土地の伝統料理やおもてなし料理をいただくことがありますが、それが自分の口に合わないときにどう反応するかは大変悩ましい問題です。



沖縄で学生だったとき、家庭教師のアルバイトをしていたことがあります。

地元同級生の親戚のお宅で、そのご家族にいつも親切にしていただき、家庭教師があるときは夕飯までごちそうになっていました。

同級生からそのご家族に「オカベはチャー食べるよ(いっぱい食べるよ)」という情報がいっていたようで

「ふーチャンプルー(麩の炒め物)」
「中身汁(豚のもつの汁物)」
「クーブイリチー(昆布の炒め物)」

などたくさんの家庭料理と、1升炊きの炊飯ジャーに満杯のご飯をいつも用意してくださっていて。

申し訳ないなあと思いつつ、週二回の家庭教師のときにいただく夕食をいつも楽しみにしていました。



そんなある日、出てきたのが「ヤギ刺し」でした。沖縄の伝統料理でヤギ肉のお刺身です。

それまでヤギ刺しを食べたことがなく、へえ珍しいなあ、「馬刺し」のようなものなのかな~

「いただきま~す」とパクっと一口入れたとたん、強烈な、これまで味わったことがないクセを感じました。

「うぅっ、こ、これはムリなやつだ!」

でもそこは同級生の親戚のお宅で、粗相をするわけにはいかず。


ヤギ肉を歯で噛まないよう

「いやあ、おいひいへふへ~(おいしいですね)」

とか言いながら、他のおかずや汁物と一緒に流し込むようにいただいて事なきを得ました。


ただ、この日の僕は「ヤギ肉を流し込むために」いつもにもましてご飯をたくさんおかわりしてしまい、それを見たご家族は

「オカベさん、ヤギ刺しをとっても気に入ったようだ」

と思ったようなのです。


当時、焼肉屋さんでは「ご飯が来るまでお肉は焼かない」のが僕の鉄則で、お肉2切れでお茶碗一杯のペースで食べていました。

そのときもそんな勢いでヤギ肉とご飯を一緒にいただいた僕の姿にご家族が感動してしまったようで。



それからしばらく経ったある日、またしてもヤギ刺しが、「これ、3人前ですか?」という量のヤギが僕のお膳に鎮座していたとき

僕はどういう顔をして、何と言ってそのときの「うれしさ」を表現したのか記憶がありません。


席についたときから、お父さん、お母さん、子供たち、「おじい」「おばあ」から

「点線の視線」

を感じるのです。


わったーうちなーの(私たち沖縄の)伝統料理ヤギ刺しを、内地から来た若者が大喜びで食べてくれる

またあの食べっぷりが見られるのか

それを「いまか、いまか」と待ち受けているような

「さあヤギ食べて~、ご飯もいっぱい食べて~!」と

指笛鳴らして「かちゃーしー(沖縄の踊り)」を心の中で踊りながら

じぃっと固唾をのんでチラチラ僕の食べ方を観察しているような、そんな視線です。


誰が言ったか忘れましたが

『我慢できなくなってからするのが本当の我慢』

という言葉を思い出し

その言葉を励みにライオンになった気持ちでヤギ肉を頬張り

なんとか白目をむくことなく食べ終えたときの達成感は言葉になりませんでした。



その土地の伝統料理にかぎらず、相手が精いっぱいの気持ちで用意してくださっている料理。

それがやむをえず自分の口にあわないとき、星野道夫さんもおっしゃる通り確かにこれはデリケートな問題です。相手の悲しむ顔は見たくないですもんね。


ちなみにヤギ刺しはそのご家庭での修行を経て、いつしかそのお肉のクセがたまらなく好きになり、なおさらたくさんご飯をおかわりしながらいただけるようになりました。

今では沖縄に「里帰り」するたびにいただく一品です。

(画像元:https://www.orionbeer.co.jp/story/okinawa-goat/)

19/01/2026

【自分の声で、自分らしいコミュニケーションを】
赤ちゃんや小さい子お子さんに話しかけるとき、「猫なで声」とまではいかないまでも、普段大人に話しかけるのとは違った話し方をしてしまいませんか。

日本語を習っているという外国の方に出会うと、その方はちょっとお辞儀しながら、なんとなく優しい調子で話しかけてくる印象があります。

日本人の話し方が彼らにはそのように映っているのだなと感じますが、いかがでしょうか。



そして仕事で英語ネイティブの方と話すときも「相手が話すように話さなきゃ」という気持ちがつい働いてしまうのです。

身振り手振りも使ってはっきり言わなきゃとか、明るく、声の大きい相手であれば、こちらも明るく大きい声で話さなきゃとか。



でもそんなことを続けていると、相手とのコミュニケーションがだんだんしんどくなってくるのです。



だいぶ前に難民キャンプで仕事していたとき、毎日、朝の早い時間から

「ヘイっ!!コーイチィっ!元気ぃーっ!!??」

みたいにテンションの高い声をみんなからかけられていました。


そして相手のテンションを下げてしまっては悪いかなと

「ハーイ、トム!、うん、元気だよぉ〜!あんたは元気かーい!?」

なんてテンションの高い自分をつい装ってしまう僕がいました。


顔には出さないけれど、そんな会話のあとにはドッと疲れてしまう。

二日酔いの朝に、「さあ今日も元気出していこうぜ!」みたいに声をかけられてうんざりしてしまう心境に似ています。



あるとき、仕事で日本の方と知り合ったのですが

その方は英語がとても流暢な上、水を得た魚のように、ふるまいや話し方まで欧米の方のようでした。


僕はその方を見たときから

「僕は海外には向かないんじゃないか」

「僕は海外ではやっていけないんじゃないか」

という劣等感を抱えていた時期が長かったです。

僕はその方のようにアメリカやヨーロッパの方らしい話し方ができなかったから。



相手といい関係を築きたい

相手に受け入れてもらいたい

自分が信頼できる人間であることを示したい

だから相手の話し方やコミュニケーションの調子に合わせなければならない。



そんな呪縛のようなものを「解いていい」とはっきり悟ったのが映画『ラスト・サムライ』を観たときです。

トム・クルーズさんと主役を演じられていた渡辺謙さんの話し方は、英語を使いながらも「自分」が滲み出ていたような気がしたのです。



思い返しますと、外国語を使う場面であっても、時間が経つにつれその人の普段の話し方がにじみ出てくるものです。

静かに語る人は英語でも静かに語り、ひょうきんな方は外国語になってもひょうきんな話し方が、ぶっきらぼうな人はぶっきらぼうさが出る。

それでいいんじゃないかと。


そう思うようになって以来、早口でキンキン頭が痛くなるようなテンションでまくし立ててくる相手でも

僕の自然な状態を出すことを意識することで、次第に気負うことなくコミュニケーションができるようになった気がします。



もちろん、シャイで口下手だから無口を通すとか、「こんちくしょう!」と思っているのにニコニコしてごまかすような「自分らしさ」では信頼を得られません。

でも相手のコミュニケーションの調子や態度には過剰に同調しなくていいと思うのです。



それはちょうど、カラオケでむちゃくちゃ上手い人の次に順番がまわってきたとき、そのプレッシャーに向き合う心境に似ています。

前の人がうまかったから「僕も!」と気負ったって急にうまくなったりするものではありません。

自分の声で、自分らしく、自分の好きな曲を気持ちよく歌う。

僕がバラードを歌うと、いつもクスクス笑われてしまうことは百も承知しているのですが…それでいいのです

#異文化コミュニケーション
#コミュニケーションアコモデーション

14/01/2026

【僕が「ピクッ」となる瞬間】
海外の方との仕事で僕が気をつけているのが『言葉の意味合いについて相手との認識に差がないか』という点です。

ある言葉に対して、そのイメージや解釈に差があると相手との間で誤解が生まれ、仕事の効率や生産性に大きく影響します。



オムレツのように具体的に「目にみえる」ものならまだしも

非常にやっかいなのが「形容詞」や「副詞」の部分で、それぞれの言葉に含まれる意図やイメージが抽象的で「目に見えない」のです。



くだらない例かもしれませんが、バーベキューで僕がうまうまとステーキを食べているとき、誰かが

「コウイチ、もっと食べる?」

と聞いてくれることがあります。

「うん、ちょうだい!」なんて調子こいていると、ドカっと熊の手みたいな肉のかたまりが置かれたり。

「もっと食べる」と言っても、僕は最初にもらったお肉の半分ぐらいをイメージしていたのに。



ある国で秘書さんの結婚式に呼ばれたとき

「あんまり人を招待してないの」

と面目なさそうに秘書さんが言うので「30人ぐらいしか呼んでないのかな?」と思っていると、当日150人ぐらいワンサカ人が来ていたり。

「親戚の結婚式では300人以上招待してたのに、私は本当に恥ずかしい」と秘書さんのお父さんにしみじみ言われて唖然となりました。

僕の結婚式では50人しか呼ばなかったことはさすがに言えず。



仕事の例では、つい僕が日常的に言ってしまうこととして

・『もうちょっと』エクセルを勉強した方がいいかもね

僕の意図は「エクセルの使い方がひどすぎる。もっと使えるようになってちょうだい」


・『今回は』やめにしましょう

僕の意図は「この案はダメ、これからも無理」


・『しばらく』考えさせてくれる?

僕の意図は「もうこの件は考えない、おしまい!」


このようについ日本人のクセで相手が気分を害さないような、意味を和らげるような形容詞や副詞をつい使ってしまうことがあります。

その結果、僕の意図や指示は全然伝わりません。

相手はエクセルを勉強している素ぶりが全く見えませんし、同じ提案を繰り返し言ってくるスタッフがいるのです。



さらに、これまで僕が仕事でつい誤解してしまった痛い例でいえば

・これは面白いね『interesting』

相手は「まあまあだな」の意味で言っていたのに、「面白い」と言ってもらえたので僕はアイデアが受け入れられた!と有頂天に。でも結局ぜんぜん考慮してもらえていないことがわかって相当凹みました。


・柔軟に対処します『flexible』

相手は「いろんな条件を満たす限り柔軟に」と言っているのに、僕は相手がなんでもこちらの思うように「柔軟に」やってくれると勘違い。あとになって業者を変える必要が出てきて、ものすごい回り道を余儀なくされました。



そんな経験をして以降、僕は形容詞と副詞が出てくるとつい「ピクッ」とするようになったわけです。

形容詞・副詞には価値観や意図、期待など、言葉の裏に「目に見えない」ものが潜んでいることがあるということです。

だから相手が使っている形容詞や副詞の部分をさらっと流してしまうと、そこでついその言葉に対する自分の解釈やイメージをはさんでしまいます。

そうして相手が意図していること、相手が期待していることなどを見落としてしまったり、お互いの解釈の違いが生まれトラブルの元になったり。

大事なのは、よく言われますが

できるだけ言葉に落とし込んで、言葉でイメージを合わせていくことだとつくづく感じます。



画像は僕の朝ごはん。僕の「オムレツ」は卵2個、トマトとピーマンを入れて塩胡椒のみ。

本当はバターをべっとり使って焼きたいのですが、健康のためにオリーブオイルで我慢。

卵は包むのではなく平で両面焼きです(今日は多少寝ぼけていて、焼きすぎた上にひっくり返すのを失敗しました)。

あなたが思い描く「オムレツ」とは違うのではないでしょうか。

20/12/2025

【「聞いてないよ」「しらんがな」】
日本と海外の関係者との間に立って仕事をしていて、もっとも聞きたくない言葉のひとつが「そんなの聞いてない」です。

なかでも「想定外」のことを日本の方はとても嫌がる傾向があるように思います。



だいぶ前の話ですが

現地の人たちとの会議が終わりにさしかかろうとしたとき、現地のトップの方が日本側のわりと高い地位にいる人に対し

「では、最後にぜひ一言」

と突然振ったことがありました。


振られた日本の方は

「えぇ?」

と表情をこわばらせ、そろそろと立ち上がってなんとか短いスピーチを乗り越えられましたが

会議が終わったあとに僕は文句を言われたのです。


あいさつをさせられるなんて聞いてなかった。
議事次第にもそんなの載ってなかったよね?
オカベさん、あなた知ってたの?

いやいや、僕も知らんかったです。
現地の方がその場の思いつきでやっただけで。

その方は

「会議の最後に挨拶がありますよ」という「事前のお知らせ」がなかったことがご不満だったようなのです。



他にも「会議の前日までに」現地の人たちの発表資料を全部揃えるよう、日本の方に求められることが実に多いのです。

「ドッキリな発言」を当日に聞きたくない

「ドッキリな発言はない」ということさえ事前に知っておきたい

ということなのでしょう。


でも現地の人たちがプレゼンを考えるのは会議前のギリギリのことも多く

ひどい時は会議の1時間前にスライドを3、4枚パパッと用意するだけです。


それにも関わらずひっきりなしに日本からメールが来て

「現地側のプレゼン資料、まだですか?」と。



現地の人に一応催促はしてみますが

「なんで事前にプレゼン資料を欲しがるのか」

といつも不思議がられ、嫌悪感を隠さない人も結構います。

「事前にプレゼン資料を見るのなら
わざわざ会議しなくていいじゃない」と。


日本の関係者は事前に相手の発言を知っておくことで、あらかじめ理解を深めておいたり質問を用意したいわけです。

それが相手への誠意の印。

それはわかるものの現地の方にそんな風に言われた日には、そのまま声を大にして日本の関係者に言いたくなります。


そしてプレゼン資料が準備できていない状況を見て

「まだ準備できてないの?」
「現地はテキトーなヤツばっかりだな」

なんて妙な解釈をする人たちが日本の中には結構いらっしゃるので本当に困ります。



現地の人は日本の人たちの
「はよくれ〜」の催促に嫌悪感を抱き

日本の人たちは現地の人に
「まだ?ダメだこりゃ」と失望する。

この間で板挟みになる僕。



添付の画像は「不確実なことを嫌う度合い」を国別に示したもので、世界レベルで見ても日本はダントツに高いのです。

つまり日本では「安心」「安全」が何よりも大事で、「想定外」や先の見通しが立たないと不安やストレスを引き起こしやすい。

でも逆にいうと、いろんなことがクリアになっている状況では最強です。

下の画像のでこぼこ加減を見ていると、国によって「強み」というのは千差万別で、

その相手の「強み」も、その裏をみれば「弱み」が見えてくるものだなとつくづく思います。

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