子供と情緒

子供と情緒 木の素材を通して子供たちに豊かな情緒が育ってくれるのを願ってこのサ?

17/10/2024

これは2021年にFacebookに投稿したものであるが、2024年の今日、この3年間でのSNS、AIにITの著しい進化によって利便性が格段に進歩し、これまで無名の存在であった人々が簡単に自己存在を表明することが出来るようになり、「いいね」を求めて更に多くの人々がこれらのツールを使うことに埋没してしまったようだ。無意識のうちに僅か20㎠程度の自然から隔離された2次平面の仮想空間(バーチャルリアリテイー)に四六時中閉じ込められてしまい、使っている本人がこれまた無意識にスマフォの一部になってしまっていることに全く気が付かない状態になりつつある。正に人間のロボトミー化、ヒューマノイド化である。このような人々に人間らしい感性を取り戻してもらうことを願って一部を加筆し再度提案させて頂くことにした。長文であるが最後までお読みいただければ幸甚である。
         子供の情緒を取り戻そう
“プロローグ”
私達日本人は第二次世界大戦前では清貧に甘んじてお国のため、天皇のために身を捧げることを軍閥を中心とする為政者たちから叩き込まれ、刷り込まれてきた。しかし、敗戦後手のひらを返すようにアメリカに迎合する為政者たちを見て、特に戦争で生き残った昭和一桁代の生まれの人々はこの矛盾を強烈に感じ取ったのであろう。更に、敗戦後アメリカが日本民族の精神文化を根底から覆そうと持ち込んだスチューベイカー、ビイック、フオード等の自動車で代表されるこれまで経験したことのない物質文明による溢れるようなものの豊かさ魅了され、敗戦後の物質面での困難な生活環境を乗り切るためにも国民すべてが一丸となって戦後から今日までの80年間馬車馬のように働いてきた。
その結果、物質面では一時期世界一の経済大国になったが、テレビジョンが普及し始めた昭和28年(1953年)、大宅荘一という社会評論家が「国民総白痴になる」と喝破した。当時中学二年生の私にはこの事が理解出来なかったにもかかわらず、不思議とこの言葉が印象に残っていた。しかし、今日の現状を見ると大宅壮一の先見性に驚嘆を覚える。日本民族が培ってきた精神面の豊かさを育てることが出来ないまま今日に至っている。大人達は目の前にぶら下げられた物質文明によって次々と生み出される豊かさのシンボルとしての「もの」を手に入れることに夢中になり、子供に対して親から子への人間として身をもって伝承すべき事柄を直接伝えることを放棄してきた。「士農工商」と言われる言葉の本来の意味は、「士」とは志を持って公に殉じ国を治める人を指し、江戸時代での武士階級が一番えらいとの意味ではない。この言葉は、社会が円滑に機能するための役割の重要性を重み付けたのである。
しかし、今日ではこの重み付けが完全に逆転し、「商工農士」となり、社会は物欲が全ての商業資本主義が支配するようになってしまった。「士」は死滅し、「公」という言葉は死語になりつつある。このような社会環境の中で私達は、起死回生、乾坤一擲でパラダイム・チェンジに取組まなければならない時代に入ったが、現実は一億総デジタル化に進みつつあり、物欲だけが肥大化し、人間本来の持つ「やさしさ」や「おもいやり」を育む情緒中枢は消滅してしまうであろう。

このような時代で、一番被害を蒙るのは子供たちである。何も知らないで生れ落ち、生まれた時には備わっている情緒中枢が育つことなく幼い時から無明の闇を彷徨なければならない。私の世代のように戦前から今日までを生きてきた人間は、これまで体取してきた豊かな経験を活かして今日のパラダイム・チェンジに率先して取り組み、次世代の子供たちに対して光明への道を開く役割があると思っている。
その一つとして、ささやかな試みではあるが、私の子育ての経験を通して知恵として身に着けたものを「子供と情緒」というテーマでこれまで折に触れてスケッチしておいたものに手を加えまとめたものを再度提案しよう。子育てに悩む若い世代のお父さん、お母さんのためのヒントになればと願う次第である。

さて、今から四十数年前、当時小学校5年生だった次女の明子(さやこ)が、書斎に入ってきて、書見をしていた私の肩に肘を乗せながら質問してきた。「お父さん、明子はどうしてお父さんの子供に生まれてくる運命にあったの」。「どうしてそんな質問をするの。」と尋ねたところ、「友達がいわはってん(言った)『さやちゃんは幸せね。お母さんがセーターを編んでくれはるし、お父さんはオモチャを作ってくれはるし。』」という返事が返ってきた。
その折、小学校5年生で「運命」という言葉を的確に使う知恵に驚いたことを鮮明に思い出すが、次女が自分の父親としての私の存在を確りと受け止めていることが感じられ何ともいえない至福を感じたものだった。聞けば、その友達は、親が離婚して母親が再婚し新しい父親と暮らしているが、実の父親から貰って大切にしていたものをいつまでも持っているのは悪いと思って、次女に貰って欲しいと頼むような心優しい子供だったようだ。

これも二十数年前のことだが、長女の息子で初孫の小学校3年生の舜介がはにかみながら「爺の孫に生まれて運が良かった。」と言ってくれた。長女は離婚して子供を連れて戻ってきたのであるが、孫は幼心に不安で一杯だったのだろう。それが徐々に心を開いて、今いる場を安寧の場と感じてくれたのだろうが、何ともいじらしい想いでいっぱいになった。
これまで述べた例でも解るように、私たち大人から見て「未熟な」と思っている子供たちに見事な人格の形成、自我が形成されているのである。
ここで「自我」という言葉の定義を明確にしておく必要があるだろう。この言葉はラテン語のエゴに当るが、口語的な使われ方では、「うぬぼれ」、「自負」の意味で、どちらかというと良い意味で使われないことが多いからである。「自我」の定義を広辞苑から引用すると、以下のような難しい説明がなされている。
[自我](self:英語、ego:ラテン語)哲学では、「諸体験または諸作用の主体的統一の契機」。心理学では、「精神分析で、意識的または無意識的で本能的な力を外界の現実や良心の統制に従わせる個性の一側面」。
専門家という狭い分野に閉じ込められてしまった連中の何とも無味乾燥な言葉の羅列であるが、私が冒頭に述べた次女や孫の話の背景となるものを理解できれば解るであろう。すなわち、「自分を他人と比較してどのような存在であるかを認識し、それを的確に表現出来る能力を身に着けること」と定義しておこう。
この自我が子供の中でいつ頃形成されるのか不明であるが、昔から言われている「三つ子の魂百まで」のことわざを自分の子育てに当てはめてみれば、三歳頃までにはほぼ出来上がっているのではないかと感じられることが多々あったように思える。
最近になって、脳科学の分野で、脳の発達やシナプス形成にDNAが関与していることが少しずつ解って来たようであるが、私たちはこれまで積み上げてきた経験に基づいて情緒豊かな子供をどのように育てて行くかを考えなければならない。
「子供と情緒」というテーマで、私の子育ての経験から得たものをまとめてみようと考えている。私の話をたたき台にして頂いて、危機的状況にある子供の世界を共に考え、ヒトが生まれながらにして備わっている「おもいやり」や「やさしさ」などの情緒中枢を育てるための一助にして頂ければ幸いである。

23/02/2020

“木の文化を生活の中へ”
木のオモチャを作ったきっかけ
私が木で玩具を作り始めたのは長女のまどかが3才になったときである。 それまでは自然の美しいものや、生きとし生けるものに対する慈しみの心を育て体感させようと暇を見つけては自然の中に連れ出していた。その頃タイミング良く80坪ほどの庭のある家に引っ越すことが出来たので、この庭を近所の子供たちの遊び場として解放した。
40坪に芝生を張り、残りを花壇とし四季折々の花を欠かさないようにした。     
この小さな空間はひねもす子供達の情緒を育てる揺りかごとなった。          次に考えたことは、娘の自我の形成が芽生えてきた頃なので、親父としての情緒を何らかの形で伝えておきたいという思いである。丁度、いろいろのもので遊び始める時期でもあったので、木でオモチャを作ることにした。その頃は高度経済成長に突入した時期であり、見てくれの良い工業製品が溢れ、それまでに作られた手作りのものは目の敵のように捨てられていた。京都大学でも同様で、ケヤキやミズナラで作られた重厚な机や実験台、書架がスチ-ル製のものに換えられるためどんどん廃棄され、燃やされていた。あまりにも勿体無いのでそれらをこつこつ拾い集め、バラして研究所の倉庫に積みあげておいたのが役に立った。 最初に三高時代の実験台の天板で積み木を作った。 
そのうち、娘のリクエストで「ゾウさんをくてって(作って)、カバさんをくってて」と頼まれる度に奇妙なゾウ、カバ、ニワトリが生まれた。娘に見せると、必ず「変な・・」が接頭語になった。それでも気分良く受け入れてくれた。足には全てコマが付いているので、それらを芝生に引き出しては近所の子供達と良く遊んでいた。本業の木材の研究は後回しにして、休みになれば研究所の実験工場に潜り込んでのオモチャ作り三昧。この時から私のオモチャ作りは廃材の再生利用一筋である。材料はケヤキ、シタン、コクタン等高級材ばかりであるが、そのほとんどが大学で捨てられた実験台や本棚、木材加工工場から出る突板等の廃材、端材である。
廃材、端材を用いたお陰で、形に制約されることなく自由奔放なオモチャ作りが出来たように思える。それからは生来のちゃめっけも手伝って個展までするようになった。展覧会の美術工芸部門で金賞を得たり、グッド・デザインに選定されたのをきっかけに、当時から疲弊し始めていた山村振興に役立てたいと、京都大学の演習林がある芦生という小さな集落に工房を作った。これがオ-タン工房である。オ-タンとは次女が私を呼ぶ時の幼児語を借用した。   
私の専門は林学である。この学問は応用学であるから、基礎的な研究もさることながら、今社会が必要としている実学に対しても目を向けなければならない。そうゆうわけでオモチャ作りを通して全国の山村との関わりが20年近く続いた。いろいろ実践する中で多くの知恵が身に付き、物事を総合的に考え、見通せるようになったのは大変な財産になったと考えている。まるで木に魔法を掛けられたように木にのめり込んだお陰で、実に豊かな人々との出会いがあった。
2003年、退官と同時にここ滋賀県、三雲の地に木材素材の研究を続けるべく研究所を立ち上げ今日に至っている。周囲を山と渓流に囲まれた2000坪の敷地と総床面積250坪の建物を利用して自然と共鳴できる場(共鳴磁場)を作り、多くの人々が集まれるよう「オータンの森」を創設すべく3年前から手作りで子供のための木のオモチャ館(木育館)とミニコンサートホールを作っている。
これに、既存の木工所、周辺の森を取り込んでこの4月にオープンする予定で進めている。多くの皆さんのご協力とご支援をお願いする次第である。
これまで積み上げてきたものを童話にしようと目下構想を練っている。タイトルは「オ-タンと木の魔法」。 乞うご期待。

03/12/2019

幼児の情緒と木の玩具

(2)小児の発達概要
Holtがまとめた0才児から5才児までの小児の発達概要について彼の著作で述べているが、これらの発達概要は小児の外面的に現われた行動に基づいて整理されたもので情緒などの高次の神経機能の発達概要については明確にされていない。
「情緒」を西欧の近代科学によって分析的に定義付けすると、一見論理的ではあるが、画一的皮相的で、レトリックにごまかされているように思えるし、東洋の仏教の表現を用いて定義付けすると岡潔の言葉を引用すれば以下のようになり、なんとはなく納得出来るが、科学的思考に慣らされてしまった者にとってはもうすこし分析的に厳密な表現が出来ないものだろうかという思いが残る。 ”情緒とは「他のかなしみを自分のかなしみとするというわかり方」という表現でなされる。 このわかり方を道元禅師は「体取」と言っている。 
すなわち、理解は自他対立的にわかるのであるが、体取は自分がそのものになることによって、そのものがわかることであるとしている。” 
Bridgesは情緒が年令の増加に伴って形態的に変化していくことを観察し、分化がみられることを明らかにしている。 それによると、情緒の分化の特徴は乳幼児期に著しく、5才頃には、大人のような情緒の形態がひととおり出来上がり、また、分化の過程においては、不快感の系統の情緒のほうが快感の系統の情緒に比べて早く分化する傾向にあるとしている。個としての己を守ろうとする本能がそうさせるのかもしれない。現代社会では、この不快感の情緒の方を発達させる要因が増してきてるように感じる。 
はじめにも述べたように、小児にとっては5才児までの環境とそれを構成するものとの関わりが情緒の発達に大きな影響力を持つことは明らかであろう。
続く

03/12/2019

幼児の情緒と木の玩具
                                                    野村隆哉

はじめに
最近、私達の生活環境の悪化が一般の人々の間でも認識されるようになり、環境問題は地球レベルの問題としてメガ・トレンドになりつつある。このようなトレンドの中にあって、生活環境資材としての木材がにわかにクロ-ズ・アップされはじめた。ついこの間まで、他の工業原料である合成高分子やセメントと同列にすることに腐心し、生物材料としての特性を無視してきた者が掌を返すようにムクの木の良さを語り始めた。しかし、我々の住環境は、合理性、利便性、快適性の名の下に木材を駆逐し、その特性を生かしたものはほとんど見当たらないのが現状であろう。このような住空間にあって、幼児は生まれ落ちた時から、極端な表現をすれば、一度もムクの木に触れることなく人工的な機械仕掛けの玩具を与えられ、長じてはコンピュ-タ-・ゲ-ムに明け暮れることになる。このようにして、幼児から青年期に達するまでの20年間を全く人工的な生活空間で過ごすことになる結果、他の生命や自然との関わりに無頓着な人間が増えることになる。

2 遊具
(1)はじめに
小児の発育過程において、その環境に置かれたものとの関わりのなかで小児の情緒がどのように発達していくかという問題はきわめて重要に思われる。 
小児期の情緒不安定が成人に達したときの人格に大きく影響することは経験的に知られており、小児が著しい不良環境に長期間さらされていると永久的な能力欠陥を引き起こし、それは環境のストレスが矯正されても戻らないと言われている。しかし、小児が置かれた環境の中にあるものの一つひとつが環境のストレスとして小児の情緒発達にどのように影響するかを普遍的なものとして捕らえることは困難であろう。なぜなら、人間の環境適応能力は究めて幅が広く、柔軟性があるからである。 
高等生物の進化には、自然淘汰と変異の相互作用により、より適応度の低い個体がその集団から除かれた過程の存在が想像されているが、人間においては、遺伝と環境の両方によってそれぞれ制御されているような複雑な形質の自然淘汰については何も知られていない。 
世界中の人類を見渡すと相互の違いがいろいろあることに気が付く。 
地球上に生存する動物種の中で人間は表現形の変化の大きい種をなしており、表現形の多様性はさまざまな環境への適応を可能にし、人間は種々の特徴のある気候環境下に生活している。この表現形の柔軟性が進化を妨げ、遺伝によらない環境適応の可能性を拡大するものと考えられている。人類集団の資質を巨視的に考えると、本質的に最適の環境を想定することも、また、現実の条件に対する最良の遺伝子型の存在を想像することも無意味となる。 
生理人類学の立場から見れば、人類が村落を生み出してから約8千年、都市の形態が出来始めてから約5千年とすると、それぞれ約320世代あるいは200世代が、村落あるいは都市の文化的生活の影響を受けたことになるが、この短期間に人類の遺伝子の上に生じた変化はそれほど大きいとは考えていない。      しかるに、現実では膨大な数の民族がそれぞれ他民族を峻別し、同一民族内でも部族間で相互の相違を厳密にしている。これは生活する環境やそれによってもたらされる習慣の違い等、環境要因がストレスとなって情緒や感情等の精神活動を中心とする大脳の高次神経機能の発達に大きな影響を与えていると考えるべきである。我が国においても、戦後四十数年のわずかな時間に、肉食の比重が増すとともに足の長さが平均10cm長くなり、顎が小さく、小頭化してきたことによって、性格面で、辛抱することや物事を熟考することを苦手とする人間が増加してきたとの指摘もある。
これらの例で明らかなように、人間生活の現象面から見れば、生活環境の構築材料も含めて、人間の情緒面に対して環境要因がストレスになると考えるべきである。特に、脳が発達しつつある0才児から5才児までの間はその影響は大きいと考えるべきであろう。 なぜなら、出生時に人間の脳は成人の容積の約半分であるが、4才児で90%に達すると言われているからである。 
大脳の発達の度合いは、猿人から現生人類までを見ても他の生物と比較して著しく、現生人類は猿人の約3倍といわれている。 さらに、現生人類と同じ大きさの脳容積を持つネアンデルタ-ル人との比較では、現生人類よりも前頭葉の発達は劣っていたと考えられている。すなわち、精神活動を中心とする高次神経機能の発達は現生人類の特徴と考えるべきであろう。 
現生人類におけるこのような高次神経機能の発達した原因は前述したように現生人類による文明の発生と文化に基づくと考えられる。以上のような観点から見れば、大脳形成過程にある幼児期における環境は極めて重要であろう。
われわれ日本人は縄文時代から今日まで、地理的には主として温帯の照葉樹林(常緑広葉樹)および落葉広葉樹林帯の豊かな森林資源を背景として世界でも類を見ない木の文化を保続してきた。生活環境の隅々まであらゆる樹種の特性を究めた利用技術が確立されていたことは明治の終りに農商務省山林局から出された「木材の利用」を見ても明らかである。このような長期間にわたる木の文化の保続によって、われわれの生活環境を構成してきた木材との関わりが前頭葉の高次神経機能の発達に与えた影響は計り知れないものがあると考えられる。特に、スギ、ヒノキを中心とする白木の文化は伊勢神宮の1300年の長きにわたる20年に一度の式年遷宮の儀式に代表されるように日本民族の精神文化の象徴にまで高められている。
 このように、われわれ日本民族の精神の深層に重み付けされた木との関わりを単なる自然科学のありきたりの方法論で解明することは極めて困難なことであり、ノバ・パラダイムの出現が必要であろう。
このような観点から、小児の遊具(玩具を含む)と情緒との関わりを考える場合、材料としての木材を遊具としての機能よりも、素材そのものの持つ材料特性が小児の視覚、触覚および嗅覚などを通して情緒に良いストレスとして作用するような配慮をするべきであり、アプリオリ-に木の良さを感じているものが小児の情緒の発達にとって木材をどのようにプレゼンテ-ションすればよいかを個別に行なうことも大切な試みと考えられる。 
続く:

12/08/2019

子供と情緒
―エピローグ― 改訂版
最終稿を書くに当たってたまたま新聞の広告にデジタル教育についての出版物が載っていたので参考にしようと買い求めました。田原総一郎さんの「デジタル教育は日本を滅ぼす」、外山滋比古さんと田中真紀子さんの対談形式による「あたまの散歩」、副題が「デジタル教科書はいらない」で、ポプラ社から出版されています。
既に存じておられた方もあるでしょうが、田原さんの本で、2015年を目標に、教科書のデジタル化が計画されていることを知り愕然とした次第です。世の中のほとんどの人々は、私同様そのような計画が進められているとは知らないでしょう。テレビのデジタル化の次に、教育のデジタル化が着々と進められているのです。この計画は戦後の国語政策で漢字の字数とその音訓の用法を制限するという大きな誤りを犯したよりも悪い愚行です。
我国の言語は、世界にも稀な表意、表音を自由自在に駆使する、正に表現豊かな情緒的言語で、言葉の表記そのものがその発声を伴って人の情緒の琴線をふるわせ高めてくれます。
しかし、英語のような表音文字はデジタルそのもので、論理的に組み立てなければ人には伝わりにくいものです。いずれの言語方式にも長所、短所はあるのですが、日本語は両方を駆使できるのですから互いの欠点を補うことが出来ます。これは素晴らしいことですが習得するのに大変なエネルギーが必要です。しかし、この努力こそが脳を豊かに育て、情緒を育んでくれるのだと考えています。
これまで述べてきたように、ヒトのヒトたる所以は、他の動物の脳に比べて情緒中枢が存在する前頭葉の部分が発達していることにあると言われています。この前頭葉が現代では萎縮の方向にあるという報告があります。ヒトの脳は、アナログ、デジタル両機能に加えてこれらを調和させ、総合的に判断する機能を司る重要な司令塔としての役割を持つ前頭葉の情緒中枢があります。以前、生物経済学事始でも述べましたが、ヒト属という動物の身体能力は、生来自然に対する適応性が極めて低かったために、これがストレスになって道具や火を使うことを学び、今日の文明社会にたどり着いたのです。しかし、皮肉な事にこの文明は際限もなく身体的快適性を追求する手段と化し、今日に至っています。その結果、筋肉の鍛錬という苦痛を伴う行為からも逃避するようになって運動機能を司る小脳も退化し、大脳だけが機能する新人類が誕生し始めました。デジタル化とバーチャルリアリティーの相乗効果で、快適性の追求はますます先鋭化して行くでしょう。美しい自然やその精妙な調和の世界は3Dテレビでよりリアルに見せてくれますが、本物ではありません。以前、この通信を担当しているプレマの山下女史が話してくれたことです。忙しい時間の合間を縫って自分の子供たちを喜ばそうと大阪のユニバーサルスタジオに連れて行ったそうですが、子供たちは私の研究所の中にある谷川でサワガニを捕ったことの方が楽しかったと言われてショックを受けたと話してくれたことを思い出します。
ディズニーランドはバーチャルリアリティーを具体的な形にした最初の施設ですが、情緒という高次の機能はディズニーランドからは生まれてきません。親と子、人と人、そして男と女、自然との対話とふれあい、他のいのちとの出会いに加え、私たちの祖先が作り上げてきた文化としての界隈から醸し出されると私は考えています。
私たちの脳は、快適、快楽を満足させてくれるストレスは受け入れますが、それ以外は拒否する機能が特化しつつあります。田原さんの本にも書いてありましたが、我国では、40代の夫婦でセックスレスが60%に達し、離婚が増えているだけでなく、妻の自立、夫の存在感の希薄化が顕在化しつつあります。今言われる草食男と肉食女は社会のデジタル化と期を一にしています。動物の母性本能はわが子を守るために生み出されたもので、己を犠牲にしても子を守るはずですが、現代社会では母性の欠落が目に付きます。母性にとって安逸と快適性は子育てにとって大切な要素ですが、これはあくまで種の保存・保続という本能に基づいたものです。しかし、快適性が優先すると女性はますます自己組織化によって美しくなることにかまけ母性本能は退化します。女はほって置いても女に成れますが、男は母親によって厳しく育てられなければ男になれないのです。優秀な雄を作るのは男親ではなく女親だということを「孟母三遷」の諺から学んでください。
30代、40代のデジタル人間に育てられた子供たちは、生まれながらにして情緒欠損症候群となり、子供にとって大切な学校教育の現場は紹介した二冊の本でも述べられているように不毛の原野と化すでしょう。我国は高度経済成長期から人間のデジタル化を官僚主導、経済界主導で進めてきました。その結果、社会全体に人間性に対する大きな歪が生じてきたにもかかわらず、対症療法で更なるデジタル化を進めようとしているのです。しかし、我国の指導者たちが国民をどのような方向に導こうとしているのかその姿が全く描かれていません。猫の目のように変わる文部行政を支配しているのは文系の人間ばかりで、これほど巨大化した自然科学を統一的、総合的に把握して、明確な目的意識を持って教育のあり方を示そうとする人格が不在です。今回の教育のデジタル化に対して自然科学者が、特に大脳生理学や脳科学を専門とする関係者から問題提起がなされないのも奇妙な事です。このことは、これらの専門家も単なるアスペルガー症候群に過ぎないことを示しています。これまでの自然科学の成果が目的もなく単なる手段として利用された例がほとんどであることを知るべきでしょう。三人の述べたことを分析すると、これまでの人間として生きてきた経験則に基づいて正しいことを述べておられるのですが、残念ながら自然科学の裏付けが欠落しています。最後になりますが、とにかく大切な子供たちを情緒欠損症候群にしないために、親が特に母親が頑張るしかないでしょう。私がこれまで述べてきたことが少しでも参考になればと願っています。

12/08/2019

子供と情緒
“アナログとデジタル(2)バーチャルリアリティー”
  前回の副題であった“アナログとデジタル”の問題は、考えれば考えるほど無明の闇に入り込んで行くようで気が重くなる。この問題に警鐘を鳴らしても現代文明の巨大な潮流(メガ・トレンド)を押し止めることがほとんど不可能に近いことが目に見えているからである。それでも書かなければならないと思うのは、私が生来のお節介焼きなのだろう。このお節介焼きについてこんな事があった。今年の3月15日、山の中で一人の男を拾った。実は、3月12日から通勤の道である信楽から水口に抜ける途中の山中の道脇に軽自動車が止まっているのに気付いていた。15日になってもその場所に止まっているので、気になって車を降りて車内をのぞいて見ると、男がハンドルにもたれ掛って眠っているようであった。その数ヶ月前、私の研究所の近くで車の中で服毒自殺をした女性を発見していたものだから、てっきり自殺しているのだろうと思って窓を叩いた。有難いことに、まだ生きていたので、研究所に連れて行き落ち着くまでここに留まるよう伝えた。後で判ったことだが、これが何とアスペルガー症候群(高機能自閉症)の典型的な患者だった。私と出会う8日前に精神病院を退院し、自殺をしようと山中で思い悩んでいたようだ。我ながらお節介焼きの性分にあきれてしまったが、不思議とこの手合いに出会うのは神の思し召しなのだろうか。このような実体験をせざるを得ない状況の中で、同じような現状があちこちで起きていると考えざるを得なくなった。この男は5ヶ月と半月研究所に居候して真面目に働いてくれていた。ところが9月2日に再び自殺を試み、これも私が見付けて救急車で病院に運んだ。兄夫婦が引き取りに来て一ヶ月過ぎても何の連絡も無かったが、10月4日に本人から連絡があり、研究所での仕事は辞めたいので荷物を引き取りに行きたいとの事。自殺願望の割には自殺出来ないで周りを振り回す不埒な輩との5ヵ月半に及ぶ生活は、又一つ私の人生経験に貴重な知恵を授けてくれた。
  前述した例はどうも先天的な障害かもしれないが、このような先天的な場合は別として、後天的に高機能性障害やアスペルガー症候群に陥る引き金になるものを三つ挙げることが出来る。一つは持って生まれた内向的な性格、二つ目は、都市生活での界隈の崩壊による近隣相互および子供のコミュニティーの消滅、最後が社会のデジタル化ではないかと考えている。これら三つの要因が相補的、相乗的に機能することでアスペルガー症状は一挙に進む。一般的にアスペルガー症候群の男女比率は3:1で男の方が多いようである。
これは男女の身体的、生理的機能の成熟の差が反映されていると考えられる。女性の場合は、子供を生み、育てるという母性を生まれながらにして持っているため、本能的に自己防衛のための周囲とのバランスを身に付けることが早い。しかし、男の場合はある程度意識付けし、訓練しなければオスには成れないところがある。動物の世界では、力が無ければ一生メスと交尾できない場合が多々ある上、メスも種の保存のために弱オスは受け入れないという明確な鉄則が存在する。ところが、この鉄則は現代文明世界のヒト属という動物では無用のものになりつつあるようだ。核家族化、少子化、マンションの閉鎖空間、その他文明社会が未必の故意として生み出した人間性に対する阻害要因が蜘蛛の巣のように張り巡らされた都市空間、生活空間で、他人との対話の出来ない子供たちが次々と作り出されてくるのである。特に、意識付けしないとオスになれない男性は中性化しコンピューターゲームに没頭し、3Dを含むバーチャルリアリティーの世界で巨大なアスペルガー症候群団が作られていくのである。その一方で、これまでの社会組織は旧態然としたまま存続し続けている。学校も同様であるが、ここにアスペルガー症候群団が大挙して押し寄せれば現場はお手上げであろう。全国の小中学校で100万件を超える暴力やいじめの発生は   このアスペルガー予備軍の存在に関連しているかもしれない。
人間の知・情・意をコントロールし、バランスを取るための機能を司る情緒中枢が自覚症状無しに退化あるいは破壊されていく一方で、自己中心的な欲望を充足させる手段として究極のデジタル化によるバーチャルリアリティーの世界に埋没する人間が伝染病のように増えていく光景を想像していただきたい。バーチャルリアリティーの世界では、恋をする場合でも相手の意思は自分の意思によって自由自在に変えることが出来る。このような世界に浸りきった連中が現実のリアリティーに直面すると即アスペルガー症候群となる。
これは正に、文明病でも悪質な伝染病と考えられるが、文明化した医学では病としての意識は無くほとんど対応できていない。さて、どうするか。次回の最終稿は頭の痛いことになった。

12/08/2019

子供と情緒
“アナログとデジタル”
最近、テレビで盛んに伝えられている地デジ化のアナウンスにはうんざりする。テレビがアナログ方式からデジタル方式に変わるということに対して一般人はシステム交換時に生ずる無駄な出費を気にする程度で、この方式変換の裏に隠されている大きな問題にはほとんど気付いていないように思われる。実は、生活周辺でのデジタル化はテレビよりずっと前からあらゆる領域で進められ浸透しているからである。パソコン、テレビゲーム、携帯電話、時計から計測器など今日の文明の利器にくまなく応用されてきた。その結果、これまでアナログ方式で作られてきた膨大な数量の物が私たちの目の届かないところで産業廃棄物として処分されたが、十分使用に耐えるものまで惜しげもなく廃棄されてきた膨大な無駄が今後の経済の発展に対する足枷になるのは間違いないであろう。
それにも増して問題なのはヒトの情緒機能に対する障害が危惧されるどころか既に現実のものになりつつあることだ。若者ばかりか四十代の中年層にまで広がりつつある「モラトリアム・シンドローム」と「ゲームおたく」は期を一にするものと思うが、これにはデジタル化が深く関与していると私は考えている。私の大学の先輩で京都大学の教授までした人物が、「野村君、私の息子は40歳を過ぎたのに嫁も取らず、会社から帰ってくると部屋にこもってコンピューターゲームに没頭している。どうなっているのかさっぱり分からん。」と頭を抱えておられた。別の例だが、私の友人が大学の研究室を訪ねてきて、息子を研究員として使ってやってくれないかとのこと。丁度、空きがあったので受け入れたが、これがとんでもない人格で、いわゆる高機能性障害児であることが後で判った。
親父の話では、コンピューターは精通しているとの事であったが、それは、コンピューターゲームであって、後から聞いた話であるがエクセルもロータス123も使ったことが無かったとのこと。研究室に来てからいじくり回して使いこなしていたようであるが、私のようなアナログ人間は、マニュアルを丁寧に読んでからしか使えないのに、直ぐにコンピューターに入り込めるのである。異星人を見たような気がしたものだ。
しかし、一見したところ上手に使いこなしているように見えるが、データーの整理は第三者には全く理解できず、入力にも信頼性がないため往生したことがある。
彼のもっぱらの興味は、複数の仲間とコンピューターゲームのキャラクターになって色々やり取りをするのが得意だったようだ。研究室の仕事が終わると、夜を徹してこのゲームに没頭していたようで、仕事の最中に眠りこけていることが多々あった。そんなこととは露知らず、ひょっとして無呼吸症候群ではないかと心配もしたが、原因が分かったときは怒りよりも唖然としたことを思い出す。それでも、教育者の端くれとして、人間らしく育てようとマレーシアで進めていた大きなプロジェクトにも研究補助員として参加させ、体を使うことを徹底的に教え込んだ。その甲斐あってかどうか分からないが、研究所を辞めてから届いた年賀状には農業に打ち込んでいるとの事。仕込んだ甲斐があったのかと少しは心が安らぐ思いであった。
上述した二つの例でも分かるように、社会が好むと好まざるに関わらずデジタル化が進められていく中で人間性の本質、存在に関わる諸現象が現れ始めているのである。
今回副題とした「アナログとデジタル」というテーマは、問題が大き過ぎて与えられた紙数では収まりきらないようだ。後何回か同じテーマで書くことになると思うが、まず端的にお伝えしておきたいのは、主題である「情緒」はアナログやデジタルなど文明の産物からは生まれないし、育たないということである。敢えて断定的な言い方をしたが、情緒が核となって生まれる「思いやり」や「優しさ」「悲しみ」などの言葉で表現されるものは、直接物理量として表現するアナログ表示やこの表示を更に簡略化して数字の0と1の組み合わせの二進法で表されるデジタル表示では表しようがないと私は思っているからである。
アナログ(analogue)という語の本来の意味は、日本語で「類似物」「相似物」、デジタル(digital)は「指の」「指上の」あるいは「計数型の」といった意味であるが、今日日常的に使われている用語としてのアナログ、デジタルは、前述したように前者が重量や振動数などの物理量を直接表す方式、後者は振動数など複雑なゆらぎを持つものを計数表示によって数値や符号で表現する方式で、信号の大きさや振動波形に多少の狂いがあっても同じ意味内容を持つものにまとめられるため、内容の伝達を均一化できるという利点はある。
実はこれが厄介な問題を含んでいるのである。次回は、このあたりも含めて話を進めようと思っている。

12/08/2019

子供と情緒
“環境とストレス”
  前回、二度にわたってお話した宮崎県の口蹄疫はうやむやの内に終焉したようであるが、問題は先送りされただけで何一つ解決されていない。先日、木材の形状安定化実験のために訪れた香川県塩江町では、畜産農家の牛舎の周辺が消毒用の石灰で真っ白になっていると泊まった宿の主人が話していた。このような光景は、全国の畜産農家でしばらく続くのであろうが、石灰でカチカチに固まってしまった牛舎や豚舎の中で暮らす牛や豚、何時、又発生するかもしれない不安に慄く畜産農家の人々のストレスはただごとではないだろう。今回は、このストレスと環境についてお話させて頂こうと思う。
  中国の諺に「孟母三遷の教え」というのがある。孟子の母は賢母の代表と称されるが、最初の居所を墓所の近くに、次に市の近くに、最後に学校の近くにと三度遷しかえて、孟子の教育のためにはかったという。この諺は、正に「環境が人を作る」という事例の最たるものであろう。例えば、今日の我国で起こっている種々の無残な社会事象も世界に先駆けて進めてきた物質文明化という国家を挙げての壮大な実験を遂行していく過程で生まれた環境からのストレスが形となったものと考えられる。この実験は、奇妙な事に主体となる実験者は存在せず、国民全てが被験者となり、物質文明化という手段を目的としてきた。
第二次世界大戦に敗北した日本は、アメリカの巨大な物質文明に圧倒され、戦後の荒廃から立ち上がるためにも物質的豊かさの追求を国是としたのはやむ終えないことでもあった。
おまけに、これまでの質実剛健、勤勉実直を美徳として教え込まれた国民の目の前に物質文明の利器として諸々のものを見せられたのである。一部の特権階級のみが占有していたものが一般大衆に解放され、大量生産、大量消費が国是となったのであるから、正に日本のルネッサンスといえる。しかし、その一方で多くの賢者が訴えているように精神的豊かさの追求は等閑にされてきた感がある。
戦後、アメリカの占領政策は巧妙に仕組まれ、日本国民の精神的バックボーンとなっていた質実剛健、勤勉実直から勤勉だけを残し、行政機構を温存させることで手段のみを目的とする完全なアメリカ追従型の国家を作り上げることに成功した。国家行政の機構は巨大化し、権力と権威を集中させ、政治までも行政機構に取り込んでしまったのである。 「物質的豊かさ」という明確な目的の下に1億人が一枚岩になって優秀な官僚に指導されて猛進した結果、世界第二位、資源、国土面積を勘案すれば、世界第一位の経済大国にのし上がることになった。これ自体は、日本民族の民度の高さを如実に示したものといえるだろう。
しかし、全ての成長曲線は、ほとんどS字曲線となり、必ず定常期を迎える。自然界における成長曲線は、地球上の全ての生命体がそれぞれの定常状態を維持しながら豊穣な調和の取れた世界を維持するが、唯一、人為的に行われる成長曲線はこれまでの歴史が示すように栄枯盛衰の繰り返しで、定常期の後に必ず衰退期に入る。人為的成長曲線における成長速度が速ければ早いほど定常期は短く、衰退期にも早く突入する。我国は正にこの状態にあるといえるだろう。これまでの枠組み(パラダイム)の中で変革しようとしても何の効果も現れず、混乱に輪をかけるだけであることは、政治の混迷振り、行政の無策を見ても分かるだろう。このような社会環境でのマイナスのストレスが物質文明のシンボルとなった大都市(コスモポリタン)における生活弱者に特化して現れてきたといえるだろう。この現象は、「思いやり」や「優しさ」で代表される情緒の欠落した人々の生活空間では今後加速度的に広がって行くと思われるが、正直手の施しようがない。
情緒機能は、環境のストレスから生まれたのは間違いないであろうが、前にも述べたように、この機能は極めて繊細で、壊れやすくその成長曲線は緩慢なため醸し出すようになるまで恐ろしく時間が掛かる。好むと好まざるに関わらず、情緒の欠落した時代に生まれた子供たちにとっては、特に、生まれながらにして情緒豊かな資質を備えた子供たちには大変な試練であるが、何としても私達が守り育てていかねばならないと思っている。

12/08/2019

子供と情緒
―閑話・後日譚―

前回、口蹄疫のことについてお話したが、その後少し明るいニュースがあったので後日譚(ごじつたん)としてそのことをお伝えしながら話を進めておこう。
今回の口蹄疫の件では色々勉強させられた。
一番印象の強かったのは殺処分される家畜に対する憐憫の情の欠如である。20万頭の肉牛がわけも分からず殺され、埋められるという光景を想像しただけでも恐ろしい思いがする。一頭で400kgはあるだろう。50kgの体重の人間8人分である。アウシュビッツのユダヤ人のように160万人の人間が殺され、埋められることを考えてもらいたい。5万人収容の甲子園球場の32球場分の人間が抹殺されるとなれば国を挙げて大騒動になるだろう。
生まれながらにして殺される運命にある家畜に対して、私たちのいのちを紡ぐ食料なってもらうことに対する有難いという思いや、同じ生命体としていのちに対する憐憫の情の欠如に暗然たる思いである。聞けば、口蹄疫に対する自薦、他薦の対策が殺到したとの事。
私と同じ思いの人々が多く存在することに安堵をおぼえたが、行政という無人格、無機的組織が国の政を司っていることを今更ながら知らされた。
たまたま、知り合いだった文部大臣に何とかならないかとお願いし、文部政務官を通して農林水産省所管の独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構の動物衛生研究所に口蹄疫ウイルスに対する竹酢液の効果について試験をするよう申し入れたがここではやらないとのこと。口蹄疫に対する根本治療が未だに確立されていないのであるから、唯一、口蹄疫ウイルスを管理している動物衛生研究所で調べてもらえればはっきりするだろうと考えたのが大きな間違いであったようだ。それでは、何のために存在する研究所なのか不思議に思うのは当然だろう。動物衛生を研究する組織がこのように無人格、無機的になっているのであるからお手上げである。文部省という別の省庁からの依頼は縦割り行政の中ではまったく機能しないという現実を具体的に知らされたのであるが、これでは、行政の改革を旗印に政権与党になった民主党の面目は丸つぶれである。恐らく、各省庁の担当大臣も行政官の強固な組織に対してよほどの執権を持たない限り行政組織の掌で踊らされているだけで、自民党政権時代とほとんど変わらないという現状を垣間見た思いである。
そこで、川端文部大臣は執権を行使して、竹酢液に特定して口蹄疫に対する病理学的な研究を進める気のある大学があれば予算を付けるという通達をいくつかの大学に出していただいた。このような、個別の案件に所轄の大臣が直接命令するのは異例中の異例であるが、これが本来の政治であろう。幸いな事に、私が在職していた京都大学生存圏研究所が手を上げてくれ、一歩前進である。竹酢液の組成分から考えて、病理学的研究成果は100%成功すると考えているが、200種類以上の多成分系からなる竹酢液の各成分が複合的・総合的に作用するような混合物の作用機序を明らかにするのは現代の自然科学が最も苦手とする領域である。過日、この問題に取り組む準備をしているという報告に来てくれた生存圏研究所の所長もこの事をよく理解してくれたが、挑戦して見ますとの事。有難いこととお礼を申し上げておいた。無明の闇で一筋の光明である。
昔、城山三郎という小説家が、政治家として備わってなければならない資質として、高感度、高感性、高淡白の三つを挙げていたことを思い出した。今回の出来事は、正に政治家の高感度、高感性が発揮された好例であろうと大臣に深く感謝したい。
この高感度、高感性、高淡白を人格として備えるための「ゆりかご」になるのが情緒であると私は考えている。「生物経済学事始」にも書いておいたと思うが、政治は経世済民、すなわち経済そのものであり、国家経済を経営するのが政治家である。国家経済は、公的利益の追求であるから、自国のみならず地球全体を視座に置いた、まさに地球上全ての生命体の共存共栄を図る目的を持たねばならない。しかるに、先の自民党も今の民主党もまったく同じ体質で、国家経済を経営するという高邁な精神が欠如している。これこそこの精神の核となるべき情緒が欠落しているといえるのではないだろうか。
過去に、イギリスで起こった口蹄疫被害は金に換算して1兆4千億円だったそうである。
今回、竹酢液の口蹄疫に対する病理学的研究に10億円を投入したとしても、イギリスの被害額の0.07%の投資である。これが国家経済を経営するということではないだろうか。
目先の大衆迎合的なバラマキで政治が出来ると思っているレベルの低さはただ事ではない。
今回の小文のテーマの重要性を今更ながら噛締めている今日この頃である。

12/08/2019

子供と情緒
“閑話”
  今回は本題とは少し外れるが、最近私が直接関わった事柄を通して世の中全体が情緒欠乏症に罹っていることを今更ながら思い知らされたことについてお話させて頂きましょう。まず始めは宮崎県川南町で発生した口蹄疫についてです。
初動の遅れからあっという間に広がって数十万頭の家畜が殺処分されました。Wikipediaの資料によると、その恐るべき猛威は言語を絶するがこの事を宮崎県の知事をはじめ関係者は認知していなかったようです。1997年、台湾新竹市では380万頭以上の豚が殺され、被害総額は69億USドル。台湾は豚の輸出国だったが、これによって台湾の豚肉産業は崩壊した。イギリスでは、2001年に約2000件の感染が確認され、被害総額80億ポンド(約一兆4千億円)、殺傷された家畜は1100万頭。2002年には、韓国で発生し、約16万頭が処分されています。このような情報は「対岸の火事」と思っていたのでしょう。恐るべき感性の鈍さです。それよりも、生まれながらにして食料にされる運命にある家畜をせめて生あるうちは穏やかに生きいきと育ててやるのが私達の命を支えてもらう相手に対する礼儀でしょう。口蹄疫に対する対処法を見るとあまりにも不完全、不十分な上、環境上から見ても薬害の恐れのあるものばかりです。例えば、4%炭酸ソーダ、2%苛性ソーダ、10%ホルマリン、その他にもヨウ素系、塩素系、アルデヒド系がありますが、いずれも動物に対してのみならず環境に対する負荷が大きいものばかりです。
世界中でこれほど大きな被害が出ているにもかかわらずこの程度ですから、当事者たちは経済のことだけで家畜のいのちは念頭になさそうです。
私の提案は、長年研究してきた炭を焼く過程で熱分解生成物として採取する木酢液、竹酢液を口蹄疫ウイルスの殺菌、治療と予防に使う方法です。これらの成分は、酢酸を主とする多成分系で、10%程度の濃度にした水溶液をプールに満たして家畜を水浴させる方法です。この方法だと全身の殺菌に加え、水浴の際口にも入るため内部からも殺菌できます。
しかし、宮崎県に提案してもこれまでの国のマニュアル以外は聴く耳を持たないようでした。川端文部大臣を通して彼の下で文部政務官をしている後藤君に資料とサンプルを送り、早急に対応するように頼んでいますが遅々として動かないようです。「専門家」という語は
「マニュアル通り以外何も分からない人」「単なる知識の受け売り屋」と定義すべきでしょう。口蹄疫に対する完全な対処法は無いのですから結果は後から付いてくると考えるべきでしょう。
次は、5月29日から6月の3日まで中国の招請で「竹炭・竹酢液」に関する講演に出掛けた折の印象です。1995年、我国で初めて竹炭・竹酢液を世に出し、日本竹炭・竹酢液協会を創設しました。竹の有効利用を指導し、2001年、中国で第2回国際竹炭・竹酢液会議が開催された折、中国においても色々指導した縁で今回招かれたのですが、その中の一人である陳文照君がこの9年間で中国一の竹炭王になり、15525平米の敷地に、竹炭博物館(建築面積9641平米)を創建していました。彼は、私から受けた恩恵を忘れることなく大切にし、今回の会議の主催者である遂昌県人民政府と丁重に迎えてくれました。
10年前に私が墨書した「竹炭の郷-遂昌」という言葉が額装され、大切に飾られているのを見て感激しましたが、祖父から三代に亘って炭焼きを続けてきた陳君が竹炭で建築面積2920坪に及ぶ竹炭の総合文化施設を作り上げ、遂昌県で竹炭関連産業での就労者は5万人と聞いてただただ驚いた次第です。片や、わが国の現状は恩義どころか後足で砂をかける連中ばかり。未だに産業になっていません。この差は一体何なんでしょうか。
感性や感度は人の情緒と深く繋がっています。上述した二つの事例でお分かりと思いますが、口蹄疫の場合は、マニュアルに書かれているのとは違う初期症状のため、安易に見逃してしまったという感度の鈍さに加え、自分の職分の重さを感じない感性の欠落。
中国竹炭の場合、遂昌という貧しい山村で三代に亘って炭焼きを続けてきたおかげで今日の自分があるという想いから、祖父を敬い炭祖殿を中心とする竹炭博物館を作り、竹炭・竹酢液の機能を商品にすることを教えた私の恩顧に対して報いるという豊かな感性。
牛や豚に対する「おもいやり」や「やさしさ」といった情緒の中心になるものを失ってしまった我が同胞、片や恩顧を忘れない中国の人々。この二週間の間に経験した天国と地獄は強烈な印象として残りました。勿論、中国にも天国と地獄が存在することは十分承知の上ですが、改めて情緒を育てる大切さを骨の髄まで知らされた二週間でした。

12/08/2019

子供と情緒
“醸し出す”
 既にお話ししたように、情緒はヒトの機能の中でも特に繊細な機能で、育てるのにやたらと時間が掛かり、壊される時はいとも簡単に壊れてしまうように思える。
情緒を育てるには、「醸し出す」という言葉が最も相応しいように思うが、この言葉も現代では死語になりつつある。昔、毎日新聞に頼まれて「子供とつきあう」というコラムを担当したことがあるが、「醸し出す」というテーマで書いた一文を再現させていただこう。
 『息子の亮介が、話し言葉をようやく覚えだした二歳の頃である。朝早くから起き出して、「これ何」「あれ何」とそれはうるさいほど質問する。ちょうどフキノトウが庭のあちこちに芽生えだした頃のこと。これに興味を持ったのか、私を庭に引っ張り出しては、フキノトウを指差し「これ何」「フキノトウ」、「あれ何」「フ・キ・ノ・ト・ウ」。いくつも出ているのを見つけ出しては、片っ端から聞く。「亮介、これはフキノトウ、フ・キ・ノ・ト・ウ、言ってごらん」。返事はない。そのくせ他のものには目もくれず、フキノトウにこだわり続けた。二日目もまた、同じ質問を繰り返し、自分では決して声に出さなかった。
私は幾度も「フキノトウ」と言わそうとしたが、頑固に答えなかった。四日目の朝、私の手を引っ張るようにして庭に出て行き、「これ、フキノトウでしょう」と自分から話した。
いま思い出しても、その折の息子の得意な表情が鮮烈である。この時、「かもし出す」という言葉の意味を大きく感動を持って息子から教えられた。』
 このわが子の例でも分かるように、幼児は大人に比べて身体的な劣勢にもかかわらず脳の発達は意外と進んでいて、自己確認という作業を頭の中で厳密に行っているように思える。自分が見たものがフキノトウという名前であることを、こんなに短い、たった4文字の言葉を納得するまでに4日間を掛けている。生まれて初めて見たフキノトウの花という自分の目で見て、確かめてみた具体的な形を抽象的な「フキノトウ」という名前にして認識するという作業が幼い子供にとっていかに大変なことだったか子供時代を忘れてしまった大人たちには理解できないことが多いのではないだろうか。
息子の4日間を見てみると、酒の熟成と同じで、彼が興味を持った対象とそれに付けられた名前が一体化するまでの熟成期間と考えればよい。教えられれば直ぐに「フキノトウ」と答えられる子供もいるし、自分で納得するのに10日間掛かる子供もいるだろう。数字の0の意味を考え続けているために次の一歩に進めないでいる子供は、算数、数学が出来ないと決めてかかれるのだろうか。その子供の悩みに細やかに関わって解決の方向に導いてやるのが教育ではないだろうか。教育とは、まさにこの「醸し出す」という時間を一人ひとりの子供たちに与える場を作ることにあるのではないかと思っている。「醸し出す」時間を与える場が家庭であり学校であり、社会でなければならない。偏差値で競争させることではないのではないだろうか。
 心の中で醸し出すこともなく、フキノトウと直ぐに答えられる子供だけが大切にされてきた結果が今日の我国の現状であると私は考えている。フキノトウにこだわった息子は東大に入ったが、夏休みに帰宅した折、あきれ顔で話したことが印象に残っている。「親父、国家公務員の上級職を受けようとしている連中は、1年の時から一日4時間以上も試験勉強をやっているよ。」。確かに、頭脳は明晰で要領を飲み込むのが速いのだろうが、官僚組織という出来上がった組織の中でいち早く権力の場に上りつめる手段にのみ人生の目的を置くという功利的な知恵を早くして感知するのか親から教えられるのか分からないが、何とも言えないさもしさを感じる。公務員とは、字のごとく公に勤めることであろう。それが私欲のために公務を選ぶのである。このような連中に国を任せれば国民が真面目でもいずれ滅びの道をたどるであろうことは火を見るより明らかである。我国では、東大、京大に入ればエリートと呼ばれる。人によって、国によっても「エリート」の定義は異なるようであるが、私はスペインの異色の哲学者、オルテガ・イ・ガセットと同じ考え方をしている。すなわち、「エリートとは、私心を捨てて己の才能を世のため、他人のために使う人」である。このような心を持つ人間の核になるものが「情緒」ではないかと考えている。
この「情緒」を幼児から育てるために、それが確りと形成され醸し出されるためには時間と、酒造りに例えれば、大吟醸を醸し出すためのよい器とよい酒酵母が存在する場が必要である。世界一物質文明の発達し、自由を謳歌してきた国で、精神疾患で病院を訪れる患者の数が一日に平均23万人にも達するのは異常であろう。この事実は、情緒を醸し出す時間を与えられなかった人々の悲しい訴えのような気がしてならない。

12/08/2019

子供と情緒
“自然との対話”

  これまで述べてきたように、私達現代人のほとんどは好むと好まざるに関わらず自然と切り離された環境で生活している。それゆえ、よほど強い意志を持って自然とのかかわりを意識し行動を起こさないと自然とは疎遠になってしまうだろう。
長女が生まれたとき、どこへ行くのも私がおんぶして出掛けた。日曜日になると、家から7km離れた宇治田原にある平家の落ち武者部落と伝えられる高尾(こおのお)に遊びに行くのであるが、自転車のハンドルに犬の綱をくくりつけ、背中に子供をおんぶし女房も自転車で出掛ける。その珍妙な姿に驚いて車は徐行するものだから天瀬ダムの道は車の行列になった。高尾の集落は、山の上にあって人事と自然が渾然と一体になった正に桃源郷で、四季折々の花々が咲き乱れていた。この集落は、昔から生花に用いる花木、蔬菜の種、宇治の三尾(高尾、二尾、池ノ尾)と呼ばれる煎茶の銘茶の生産に加え、古老柿(ころがき)の産地で、四季花々の絶えることがない。この美しい桃源郷で黄昏まで過ごした。
  長女が三歳の頃、小さな建売住宅に引っ越したが、家の裏手の東南に開けた土地が女房の叔母の土地で80坪ほどをプレゼントして頂けた。遊び盛りの娘や周囲の同じ建売に引っ越してきた子供たちのためにこの土地を公園として解放することにした。
40坪を芝生にし、残りを花壇として高尾同様四季折々の花々で満たした。三、四歳児以下の幼児にとって40坪の芝生は十分な広さで、終日遊び戯れていた。アメリカン・コッカスパニエルのビッキーは、子供たちのよき仲間になってくれたが、この犬は、私が大学院の博士課程に在学時研究室の秘書をしていた女性の家で飼われていた。飼い方を間違っていたのだろうが、家族や使用人の区別なくやたらと噛み付くので途方にくれていたようだ。私なら飼い馴らせそうだと連れてきた履歴がある。京都大学の構内で犬を飼うなんて事は前代未聞であったが、幸いな事に誰にもとがめられる事はなかった。山歩きのときはリックサックに入れて電車にも乗ったりした。その犬が、嘘のように子供たちと一緒に遊ぶのである。これを見ていて、犬にも情緒の存在を感じたものだ。
花壇に植え付けた花は踏みつけたり、手折ったりしてはいけないことをルールとしたが、三歳以上の幼児はこのことをしっかり守ってくれた。その代わり、子供たちが遊び疲れて帰る頃に、小さなブーケにして持ち帰らせた。日曜日には、時々子供たちと焼きそばを作ったり、焼肉をしたりと小さな界隈を大切に育てることを心掛けた。焼きそばや焼肉に使う鉄板は、日頃は下水の蓋にしてあるが、その日ばかりは主役になった。
この私設公園は、次女と長男が2歳になるまでの5年間続いた。私の両親が老齢になって同居のためにこの土地にもう一軒新築することになりやむなく閉じることになったが、この間町内以外のところからも親がわざわざ幼い子供を連れて遊びに来ていた。
この間の5年間、幼児を観察していて色々の発見があった。公園として開放したとき、長女は3歳であったが自我の形成は明確で、この公園は自分の家のものであるという認識をしっかりと持っており、他の子供たちに対して何かと仕切りたがった。私がそのことをたしなめると、納得がいかない様子で不満顔をした。ところが、次女や長男は生まれた時からその環境に馴染んでいたため、何の違和感もなく周囲の子供たちを受け入れていた。
これを見て、つくづく思ったのは、「環境が人を作る。」という、これは正に箴言であるということだった。父親の考えを理解できたのだろうが、長女は仕切りたがり屋を卒業した。
子供が3人になっても高尾詣では続いた。木登りや草の土手での滑り台、ヘビやガマガエルのつかみ方。カブトムシやクワガタの居場所、ドングリにも色々の種類のあること、草花にも全て名前がつけられていること等、自然との対話を楽しませた。
古老柿の洞にフクロウが巣作りをしているのを見付けたときは、巣立ちまで一緒に観察した。このようにして、自分も含めて自然との対話を楽しんだ。子供たちは全ての生き物に対する深い愛着を身に付けてくれたのだろう。長女は、今でも平気で蛇をつかむが、女房はいまだに蛇を見ると真っ青になる。
しかし、社会全体が私の子育てと同じことをしているわけではない。それこそ、百人百様であろう。私の長女の例でも分かるように、幼い頃から人を差別することを身に付けてしまうと情緒の芽は摘まれてしまうし、意識して自然との触れ合いを伝え教えなければ虫を蛇蝎のごとく嫌うきちがいじみた大人になってしまうだろうし、花々は単なるアクセサリーで、同じ生命体ではなくなってしまう。
なんとしても、親となったら意識的に自然との対話を心掛けていただきたいものだ。

住所

三雲1696
Konan-shi, Shiga
5203221

ウェブサイト

アラート

子供と情緒がニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

その学校に問い合わせをする

子供と情緒にメッセージを送信:

ショートカット

共有する

カテゴリー