17/10/2024
これは2021年にFacebookに投稿したものであるが、2024年の今日、この3年間でのSNS、AIにITの著しい進化によって利便性が格段に進歩し、これまで無名の存在であった人々が簡単に自己存在を表明することが出来るようになり、「いいね」を求めて更に多くの人々がこれらのツールを使うことに埋没してしまったようだ。無意識のうちに僅か20㎠程度の自然から隔離された2次平面の仮想空間(バーチャルリアリテイー)に四六時中閉じ込められてしまい、使っている本人がこれまた無意識にスマフォの一部になってしまっていることに全く気が付かない状態になりつつある。正に人間のロボトミー化、ヒューマノイド化である。このような人々に人間らしい感性を取り戻してもらうことを願って一部を加筆し再度提案させて頂くことにした。長文であるが最後までお読みいただければ幸甚である。
子供の情緒を取り戻そう
“プロローグ”
私達日本人は第二次世界大戦前では清貧に甘んじてお国のため、天皇のために身を捧げることを軍閥を中心とする為政者たちから叩き込まれ、刷り込まれてきた。しかし、敗戦後手のひらを返すようにアメリカに迎合する為政者たちを見て、特に戦争で生き残った昭和一桁代の生まれの人々はこの矛盾を強烈に感じ取ったのであろう。更に、敗戦後アメリカが日本民族の精神文化を根底から覆そうと持ち込んだスチューベイカー、ビイック、フオード等の自動車で代表されるこれまで経験したことのない物質文明による溢れるようなものの豊かさ魅了され、敗戦後の物質面での困難な生活環境を乗り切るためにも国民すべてが一丸となって戦後から今日までの80年間馬車馬のように働いてきた。
その結果、物質面では一時期世界一の経済大国になったが、テレビジョンが普及し始めた昭和28年(1953年)、大宅荘一という社会評論家が「国民総白痴になる」と喝破した。当時中学二年生の私にはこの事が理解出来なかったにもかかわらず、不思議とこの言葉が印象に残っていた。しかし、今日の現状を見ると大宅壮一の先見性に驚嘆を覚える。日本民族が培ってきた精神面の豊かさを育てることが出来ないまま今日に至っている。大人達は目の前にぶら下げられた物質文明によって次々と生み出される豊かさのシンボルとしての「もの」を手に入れることに夢中になり、子供に対して親から子への人間として身をもって伝承すべき事柄を直接伝えることを放棄してきた。「士農工商」と言われる言葉の本来の意味は、「士」とは志を持って公に殉じ国を治める人を指し、江戸時代での武士階級が一番えらいとの意味ではない。この言葉は、社会が円滑に機能するための役割の重要性を重み付けたのである。
しかし、今日ではこの重み付けが完全に逆転し、「商工農士」となり、社会は物欲が全ての商業資本主義が支配するようになってしまった。「士」は死滅し、「公」という言葉は死語になりつつある。このような社会環境の中で私達は、起死回生、乾坤一擲でパラダイム・チェンジに取組まなければならない時代に入ったが、現実は一億総デジタル化に進みつつあり、物欲だけが肥大化し、人間本来の持つ「やさしさ」や「おもいやり」を育む情緒中枢は消滅してしまうであろう。
このような時代で、一番被害を蒙るのは子供たちである。何も知らないで生れ落ち、生まれた時には備わっている情緒中枢が育つことなく幼い時から無明の闇を彷徨なければならない。私の世代のように戦前から今日までを生きてきた人間は、これまで体取してきた豊かな経験を活かして今日のパラダイム・チェンジに率先して取り組み、次世代の子供たちに対して光明への道を開く役割があると思っている。
その一つとして、ささやかな試みではあるが、私の子育ての経験を通して知恵として身に着けたものを「子供と情緒」というテーマでこれまで折に触れてスケッチしておいたものに手を加えまとめたものを再度提案しよう。子育てに悩む若い世代のお父さん、お母さんのためのヒントになればと願う次第である。
さて、今から四十数年前、当時小学校5年生だった次女の明子(さやこ)が、書斎に入ってきて、書見をしていた私の肩に肘を乗せながら質問してきた。「お父さん、明子はどうしてお父さんの子供に生まれてくる運命にあったの」。「どうしてそんな質問をするの。」と尋ねたところ、「友達がいわはってん(言った)『さやちゃんは幸せね。お母さんがセーターを編んでくれはるし、お父さんはオモチャを作ってくれはるし。』」という返事が返ってきた。
その折、小学校5年生で「運命」という言葉を的確に使う知恵に驚いたことを鮮明に思い出すが、次女が自分の父親としての私の存在を確りと受け止めていることが感じられ何ともいえない至福を感じたものだった。聞けば、その友達は、親が離婚して母親が再婚し新しい父親と暮らしているが、実の父親から貰って大切にしていたものをいつまでも持っているのは悪いと思って、次女に貰って欲しいと頼むような心優しい子供だったようだ。
これも二十数年前のことだが、長女の息子で初孫の小学校3年生の舜介がはにかみながら「爺の孫に生まれて運が良かった。」と言ってくれた。長女は離婚して子供を連れて戻ってきたのであるが、孫は幼心に不安で一杯だったのだろう。それが徐々に心を開いて、今いる場を安寧の場と感じてくれたのだろうが、何ともいじらしい想いでいっぱいになった。
これまで述べた例でも解るように、私たち大人から見て「未熟な」と思っている子供たちに見事な人格の形成、自我が形成されているのである。
ここで「自我」という言葉の定義を明確にしておく必要があるだろう。この言葉はラテン語のエゴに当るが、口語的な使われ方では、「うぬぼれ」、「自負」の意味で、どちらかというと良い意味で使われないことが多いからである。「自我」の定義を広辞苑から引用すると、以下のような難しい説明がなされている。
[自我](self:英語、ego:ラテン語)哲学では、「諸体験または諸作用の主体的統一の契機」。心理学では、「精神分析で、意識的または無意識的で本能的な力を外界の現実や良心の統制に従わせる個性の一側面」。
専門家という狭い分野に閉じ込められてしまった連中の何とも無味乾燥な言葉の羅列であるが、私が冒頭に述べた次女や孫の話の背景となるものを理解できれば解るであろう。すなわち、「自分を他人と比較してどのような存在であるかを認識し、それを的確に表現出来る能力を身に着けること」と定義しておこう。
この自我が子供の中でいつ頃形成されるのか不明であるが、昔から言われている「三つ子の魂百まで」のことわざを自分の子育てに当てはめてみれば、三歳頃までにはほぼ出来上がっているのではないかと感じられることが多々あったように思える。
最近になって、脳科学の分野で、脳の発達やシナプス形成にDNAが関与していることが少しずつ解って来たようであるが、私たちはこれまで積み上げてきた経験に基づいて情緒豊かな子供をどのように育てて行くかを考えなければならない。
「子供と情緒」というテーマで、私の子育ての経験から得たものをまとめてみようと考えている。私の話をたたき台にして頂いて、危機的状況にある子供の世界を共に考え、ヒトが生まれながらにして備わっている「おもいやり」や「やさしさ」などの情緒中枢を育てるための一助にして頂ければ幸いである。