上を向いて歩こう会

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上を向いて歩こう会 上を向いて歩こう会は「教育再建から国家再建」を目指している団体です?

会長 野田将晴(のだまさはる)プロフィール
熊本県熊本市出身
昭和39年~昭和51年 熊本県警察官
昭和45年~昭和47年 青年海外協力隊(マレーシア・柔道・逮捕術指導)
元号法制化運動に没頭するために警察官を辞職
熊本市議会議員(1期)
熊本県議会議員(3期)
漁火会の政治改革運動に参加し代表幹事に就任(平成5年から国政選挙に数回挑戦するも落選)
平成17年4月 私立通信制学校「勇志国際高等学校」の初代校長に就任
令和3年3月  校長辞任(16年間在職)
令和3年4月 「上を向いて歩こう会」設立・会長就任
令和3年6月~7月「国民意識高揚読本『もう一度上を向いて歩こう』」をFacebook上で50回にわたって連続投稿
令和3年7月 高校生用「主催者教育補助教材」及び「道徳教育補助教材」の出版計画を発表
令和3年9月 『人種差別と植民地時代に幕を降ろした日本』出版
柔道6段

著書
『教育者は聖職者である』 高木書房
『高校性のための道徳 この世にダメな人間なんて一人もいない!!』 高木書房
『人種差別と植民地時代に幕を降ろした日本』 高木書房

11/12/2021

ネット師範塾終了の感謝とお知らせ
読者の皆様
10月1日から開講いたしました、「ネット師範塾」が本日12日投稿の第44回をもって無事に終了いたしました。ひとえに読者の皆様のご支持あったればこそです。心から感謝申し上げます。
実は、9月にはいってから体調を崩し、食事がのどを通りにくくなって、体重が86キロから68キロまで減少していきましたが、病院に行くと強制入院と思っていましたから、ネット師範塾の原稿を書きあげるまではと投稿しながら執筆をつづけ脱稿したのが、11月中旬のことでした。
その翌日、水も飲めなくなって、仕方なく熊本市内の自宅の近くの総合病院に行き検査の結果、即入院となり、2度の精密検査の結果、食道がんと診断されました。
幸いに病室でパソコンが使用できましたので、入院中も投稿は続けることができました。
しかし万が一のことを考え、週3ペースを連日投稿に変更させていただいたのがこのころです。ご迷惑をおかけしましたが、このような事情ですのでお許し下さい。
治療は点滴と投薬、流動食の日々で、大学病院か済生会病院での標準治療(手術・抗がん剤投与・放射線治療)を受けるよう病院の医師から進められましたが、上を向いて歩こう会の役員の皆様から紹介していただいた癌の免疫治療の大家赤木純児博士(熊本県合志市で開業)の病院に転院し、通院で検査治療などを受けています。特に免疫治療の中心が「水素ガス吸引」で、その機械を赤木先生の仲介でレンタルし、自宅で療養しています。認知症にもいいとのことで、糟糠の妻も一緒に水素治療に励んでいます。
14日に再度の内視鏡検査などがあり、その後の治療法が決まりますが、自宅での水素療法が中心になると思います。
病状は時間は多少かかりますが、食事がだいぶ食道を通過しやすくなってきていますので、以外に元気一杯です。(アルコールが飲めないのが残念)
この水素との出会いは、私の今後の活動の目標に大きなプラスの結果をもたらしました。
「嬉しい・楽しい・ありがたい」(大熊良樹副会長)の心境です。
その件については15日以降のしかるべき日に、改めてお知らせいたしますが、病魔は病魔にあらずして、さらなる飛躍へのジャンプ台だったという訳です。
以上のような次第ですから、年賀状などのご挨拶は遠慮いたします。ご容赦ください。
皆様方にとって令和4年が素晴らしい年でありますことを心から祈っています。
令和3年12月12日午前7時20分
上を向いて歩こう会 会長 野田将晴拝

11/12/2021

12月12日第44回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
4,戦後民主主義と日本にあった世界最古の民主主義モデル
(3)日本における民主主義の歴史(続き)
④世界で最初に「物事は話し合いで決める」  ことを「憲法」として宣言した。(604年4月)
●「17条の憲法」(世界最初の成文憲法)
一に曰く、和を以て貴(たっと)しと為し、忤(さから)う事なきを宗と為よ。
(和を大事にし、互いに争わないことを第一に重んじなさい)
二から十六条は紙数の都合で割愛
十七に曰く、夫れ事は独り断むべからず。必ず衆と与に宜しく論ずべし。
(大切なことは皆と仲良く話し合って決めなさい)
⑤明治維新後の国づくりの根本精神として「議会制民主主義」が天皇によって示された。
●五箇条のご誓文(明治元年;1,868年)
一 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一 上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
一 官武一途庶民に至る迄、各々その志を遂げ人心を倦ざらしめん事を要す。
一 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
一 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
⑥戦後民主主義と日本古来の民主主義との違い
<戦後民主主義>
㈠戦後アメリカが持ち込んだ。
㈡自分のことを最優先する個人至上主義。
㈢共同体と絆を否定。
㈣人民が専制君主を打倒して奪い取った権利。
㈤天皇と国民は対立の関係。
<日本古来の民主主義(民本主義)>
㈠縄文時代から育んできた日本の文化。
㈡建国の精神でうたわれた民本主義。自分のことは後の利他主義(和の文化)。
㈢共同体と絆を大事にする。
㈣天皇自ら国民に示された国家運営の基本。
㈤君(天皇)民(国民)一体。
コラム
昭和天皇の昭和21年元日の「年頭の詔」の真意
ア、昭和天皇の「新日本建設の詔書」(昭和21年1月1日)冒頭
「ここに新年を迎える。振り返れば、明治天皇は明治の初めにあたって、国の基本方針として五箇条の御誓文をお授けになった。~以下五箇条のご誓文全文が続く~
明治天皇の叡智にあふれたお心は、この五箇条のご誓文にすべて集約されてお り、この上、付け加えるべきものは何もない。私はここに、改めてご箇条のご誓文を以て、国の運気を開きたい。~」
イ、昭和天皇の記者会見でのお言葉(昭和52年8月)~前記「新日本建設の詔書」冒頭に五箇条のご誓文を加えられらことに対する記者の質問へのお答え。
「~当時はアメリカその他外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったの で、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇条のご誓文は日本人なら誰でも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました。」
コラム「憲法17条」(「憲法十七条・広義」永﨑孝文著;奈良新聞社刊より引用)
「憲法17条は、聖徳太子によって、西暦604年4月、策定されました。
主権国家としての国造りの過程で「冠位十二階」とともに策定されたものであり、実質的には政治に携わる政治家から役人に対して説かれた服務規程あるいは政治倫理です。しかし、十七に及ぶ条文は、道徳的訓戒、対人関係の心得など、人格を磨く人間学としての深い内容も読み取れる「道徳書」でもあります。
 我が国は古来、四書五経などの漢学を取り込み、我が国の伝統文化と融合を図りながら、独自の日本精神「和魂」を育んできました。その意味で憲法17条は「和の文化」「日本精神」そのものであり、戦後に生きる我々日本人が取り戻すべき「国民精神」ではないかと思われるのです。」
そして、第17条で代表される精神は、明文化された世界初の「民主主義の原型」でもあります。
この精神がのちの五箇条の御誓文の「広く会議を興し万機公論に決すべし」へとつながっていったのは紛れもない事実です。
<完了>

10/12/2021

12月11日第43回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
4,戦後民主主義と日本にあった世界最古の民主主義モデル
(3)日本における民主主義の歴史(続き)
②世界に先駆けて選挙を実施していた。
<日本には中世から選挙があった「江戸の備忘録」磯田道史著>
近年、日本中世史の分野では、中世の意思決定の様子が明らかにされつつある。中世、農村にはすでに物事を選挙で決める伝統があった。みんなで話し合って決めることを「衆議」といい、多数決のことを「多分の儀」と言って、いったん、多数決になったときには「多分につく」と言って、多数決に従わなければならなかった。
江戸時代にも選挙はあった。「入札」(いれふだ)といった。札(投票用紙)に、庄屋 にしたい人の名前を書く。あるいは信任なら「このむ」、不信任なら「きらい」と書いた。17世紀になると、この庄屋入札が一部の藩では制度化され、全国的にみれば、これが日本における民衆選挙の始まりとなった。
※中世とは」鎌倉・室町時代(1050~1500年ごろ)。日本以外での国で最初に選挙が行われたのは、フランス革命(1786年)後のフランス。
③国民を一番大事にする精神から日本の国は始まった!!(2,681年前;2,021年現在)
神武天皇「建国即位の詔」(日本書紀) ~日本建国の精神
「…夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。㈠苟(いやしく)も民(たみ)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当に山林(やまはやし)を披き払い宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて恭(つつし)みて宝(たから)位(みくら)に臨み、以って㈡元元(おおみたから)を鎮(しず)むべし。上(かみ)は即ち乾(あまつ)霊(かみ)の国を授け給いし徳(うつくしび)に答え、下(しも)に皇孫(すめみま)、正しきを養いたまう心を弘めん。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以って都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為んこと亦(また)可(よ)からずや。」
※現代語訳
自分は聖人の自覚をもって、国家としての制度を作っていくが、それは時代に応じて柔軟に対応するものです。㈠もしも国民に利益があることならば聖人の行う政治にとって何の妨げもありません。
(国民のための政治が日本の政治の基本という意味)
山林を拓いて皇居を作り、謹んで天皇の位について、㈡すべての元の元であり大御宝(おおみたから)である国民を治めていきます。
天照大神がニニギノミコトにこの国を授けられた天徳に応え、祖先の行ってこられた道義正しい心を弘めていきます。
そのあとに、すべての国の人々が、一つ屋根の下で家族のように暮らせる世界にしようではありま
せんか。
㈠は、もしも国民に利益があることならば聖人の行う政治にとって何の妨げもありません。
(国民を大事にする政治が日本の政治の基本という意味)
㈡は、すべての元の元であり大御宝(おおみたから)である国民を治めていきます。
(国民一人ひとりは国の宝であり全ての根元という意味)
つまり、日本は建国の精神が、国民本位主義であって、まさに「民主主義」よりむしろ優れているともいえる「民本主義」だったのです。
さらに、建国の精神の最後は、次の言葉で締めくくられています。
「上は即ち乾(あまつ)霊(かみ)の国を授け給いし徳(うつくしび)に答え、下(しも)に皇孫(すめみま)、正しきを養いたまう心を弘めん。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以って都を開き、八紘(あめのした)を掩いて宇と為んこと亦可からずや。」
日本の国は全ての国の人々が一つの家族のように暮らしていく世界をつくること を国家目標として誕生していたのです。つまりすべての国、人種は平等だという思想を基本としていたということです。民主主義は人種平等が大原則です。欧米で始まった民主主義は、人種差別を前提としていました。民主主義や基本的人権は白人のものであって有色人種には適用されず、白人以外は差別されて、奴隷として売り買いされたり、有色人種の国は植民地として長い間、支配され自由は剝奪され富は強奪されつくしてきたのです。
日本は建国の古(いにしえ)から、民本主義であり人種平等主義を基本としてきたのです。
その建国の理念が、聖徳太子の「17条の憲法」になり、明治天皇の「五箇条の御誓文」になり、そして「大日本帝国憲法」(明治憲法)となって、今日に引き継がれてきたのです。決して民主主義は終戦によって米国が日本にもたらしたのではありません。
日本には、2000年以上の昔から、優れた「民主主義」があったのです。
<12月12日第44回に続く>

09/12/2021

12月10日第42回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
4,戦後民主主義と日本にあった世界最古の民主主義モデル
(1)民主主義
民主主義の要件は、次の二つです。
➀国民を一番大事にしているか。
②ものごとは国民が話し合いで決めているか。
この二つの要件で、欧米と日本の民主主義の歴史を見てみましょう。
(2)欧米民主主義成立の歴史
➀紀元前8~4世紀の古代ギリシャ。9割が奴隷、1割の市民という奴隷制のポリス社会で市民にのみ認められた参政権だった。(奴隷制の下での民主主義?)
②1,215年、マグナカルタ、国王が貴族の特権を承認。(英)(国民は?)
③1,628年、権利の請願、国民の基本権を議会が確認の決議(英)(やっと国民が出てきた)
④1,642~49、清教徒革命、自由を求めた市民が専制君主を処刑、一時期共和制が誕生 (英)
⑤1,689年、権利の章典、生命、財産の安全、言論の自由を議会決定し、国王が公布(英)
⑥1,776年、バージニア権利の章典、出版・信教・人身の自由、憲法起草委員会(米)
⑦1,779年、革命権の主張、大陸会議(米)
⑧1,787年、合衆国憲法、連邦制、三権分立、二院制、大統領制、憲法制定会議(米)
⑨1789年、フランス人権宣言、国民主権、自由、平等、所有権、三権分立、フランス革命の結果(仏)
(3)日本における民主主義の歴史
➀縄文時代から物事は話し合いで決めていた。(「国土が日本人の謎を解く」大石久和著より引用)
縄文時代(13,000年前~2,300年前)の代表的集落「三内丸山遺跡」の人口は400人から500人。18世紀から19世紀も、平均的な村は400人くらいだった。日本人は縄文時代から江戸時代に至るまで、ほぼその程度の人数で共同体を構築して暮らしてきた民なのである。狭く小さく分散している平野の、極めて小さな集落の中で、歴史のほとんどの期間を暮らしてきたことが、我々を規定しているのである。
日本では、小集落の顔見知り範囲が何かをする場合は、自然災害に対応するにしても、何でも一緒に行うことで、問題を処理してきた。
この規模の集落では全員が毎日顔を合わせる顔見知りであるがゆえに、お互いがギ リギリとした緊張感を持たなくて済むように仲良く暮らしていくことが最優先となったのである。
従って集落での決定事項は、皆の話し合いによる申し合わせで物事が決められていた。
この話し合いは全戸が賛成するまで徹底して行われ、事柄によっては反対者がいなくなるまで三日三晩もかかったという。
この集落では、何千年という期間にわたって、顔見知り仲間が共同作業によって、灌漑設備の設置や水の配分・田植え・稲刈り・道普請・屋根の葺き替え・冠婚葬祭などを協力して分担して行うという暮らしをしてきた。
その結果、集落内でのもめ事を最も忌避し、全戸参加による話し合いによって物事を定めたり、争いごとを解決してきたのである。これが我々の秩序感覚を磨いてきたのである。
<12月11日第43回に続く>

09/12/2021

読者の皆様
今朝配信しました第41回の原稿を下記の通り修正いたします。明治憲法と占領憲法の違いを明確にするため表にしていましたが、アップしましたら表が出ないで内容がぐちゃぐちゃになっていました。出かけ前で時間がなく不十分な修正になってしまい、大事な部分で間違いがありました。先程帰宅しましたので、比較表を削除して改めてここに投稿させていただきます。不手際をお詫び申し投げます。
12月9日第41回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
3,憲法編
~日本国憲法(占領憲法)と大日本帝国憲法(明治憲法)~
(3)憲法の制定と改正は主権者の最大の権利
ところで、主権者とは、国家の意思や政治のありかたを最終的に決定する権利を持つ者(広辞苑)のことです。「国家の基本的な意思」は憲法に書かれています。政治のあり方は選挙で決定します。従って、憲法の制定と改正は、主権者の最大の権利です。明治憲法は、国民が草案を練り、天皇の御名において交付されました。主権者である国民と天皇の「君民一体」の成果でした。
 一方、現日本国憲法は、アメリカ人がアメリカ憲法などを切り貼りして急ごしらえしたものを押し付けて成立させた憲法で、日本の主権者がつくったものではありません。しかも制定以来一度も改正されてません。その意味で、日本国憲法は、世界で唯一主権者である日本国民が制定も改正も関係していない、つまり主権者の意志が全く反映されていない憲法なのです。
(4)改正の手続き~世界一の硬性憲法
現憲法の改正は、第96条で次の通りその手続きを定めています。
「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票または国会の定める選挙の際行われる選挙において、過半数の賛成を必要とする。」
これは世界の憲法の中で最も改正が困難な「硬性憲法」と言われており、制定以来、今日まで一度の改正もなされていない理由は、国会議員の議席が、衆議院、参議院とも、3分の2に改憲賛成の議席数が届かず、「発議」ができる条件が整わなかったからです。一部の勢力が主張するように、内容が理想的で改正する必要がなかったからではありません。改正しようにも発議ができなかったのです。
最近のアンケート調査の結果を見ると、過半数の国民は改正を望んでいますが、国会がその民意を反映しようとしません。第2次安倍内閣の「自衛隊を憲法に明記する」改正案の際がまさにそうでした。国民の大多数は賛成でしたが、国会は開催が義務付けられている憲法審査会すら一部の野党勢力の妨害によって開催できず、千載一遇のチャンスを活かせませんでした。
憲法と雖も所詮その時の人間ががつくったもの、まして現憲法は米軍が占領政策としてつくったのですから、占領当時と現代は日本の立場も国際情勢も大きく変化しました。ですから、この変化に対応して改正していかなければ、確実に国を亡ぼす原因になり、国民の命すら守れません。
神武天皇の建国即位の詔に「義(ことわり)必ず時に随(したが)う」とある通りですよ。
「占領憲法を守って国滅ぶ」ことになったら本末転倒どころか愚の骨頂です。
世界の憲法は、以下の通り、第2次世界大戦後、例外なく頻繁に、改正を繰り返しています。
米18回、仏24回、伊20回、独59回、豪8回、スイス新憲法2000年から2014年まで33回、旧憲法1874年から1000年まで140回、中華人民共和国成立以降4つの憲法が制定され、現行憲法1982年制定以降5回、韓国8回(いずれも戦後)。
<12月10日第42回に続く>

08/12/2021

12月9日第41回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
3,憲法編
~日本国憲法(占領憲法)と大日本帝国憲法(明治憲法)~
(3)憲法の制定と改正は主権者の最大の権利
ところで、主権者とは、国家の意思や政治のありかたを最終的に決定する権利を持つ者(広辞苑)のことです。「国家の基本的な意思」は憲法に書かれています。政治のあり方は選挙で決定します。従って、憲法の制定と改正は、主権者の最大の権利です。明治憲法は、国民が草案を練り、天皇の御名において交付されました。主権者である国民と天皇の「君民一体」の成果でした。
 一方、現日本国憲法は、アメリカ人がアメリカ憲法などを切り貼りして急ごしらえしたものを押し付けて成立させた憲法で、日本の主権者がつくったものではありません。しかも制定以来一度も改正されてません。その意味で、日本国憲法は、世界で唯一主権者である日本国民が制定も改正も関係していない、つまり主権者の意志が全く反映されていない憲法なのです。
(4)改正の手続き~世界一の硬性憲法
現憲法の改正は、第96条で次の通りその手続きを定めています。
「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票または国会の定める選挙の際行われる選挙において、過半数の賛成を必要とする。」
これは世界の憲法の中で最も改正が困難な「硬性憲法」と言われており、制定以来、今日まで一度の改正もなされていない理由は、国会議員の議席が、衆議院、参議院とも、3分の2に改憲賛成の議席数が届かず、「発議」ができる条件が整わなかったからです。一部の勢力が主張するように、内容が理想的で改正する必要がなかったからではありません。改正しようにも発議ができなかったのです。
最近のアンケート調査の結果を見ると、過半数の国民は改正を望んでいますが、国会がその民意を反映しようとしません。第2次安倍内閣の「自衛隊を憲法に明記する」改正案の際がまさにそうでした。国民の大多数は賛成でしたが、国会は開催が義務付けられている憲法審査会すら一部の野党勢力の妨害によって開催できず、千載一遇のチャンスを活かせませんでした。
憲法と雖も所詮その時の人間ががつくったもの、まして現憲法は米軍が占領政策としてつくったのですから、占領当時と現代は日本の立場も国際情勢も大きく変化しました。ですから、この変化に対応して改正していかなければ、確実に国を亡ぼす原因になり、国民の命すら守れません。
神武天皇の建国即位の詔に「義(ことわり)必ず時に随(したが)う」とある通りですよ。
「占領憲法を守って国滅ぶ」ことになったら本末転倒どころか愚の骨頂です。
世界の憲法は、以下の通り、第2次世界大戦後、例外なく頻繁に、改正を繰り返しています。
米18回、仏24回、伊20回、独59回、豪8回、スイス新憲法2000年から2014年まで33回、旧憲法1874年から1000年まで140回、中華人民共和国成立以降4つの憲法が制定され、現行憲法1982年制定以降5回、韓国8回(いずれも戦後)。
(5)次に明治憲法と占領憲法を特に重要な4項目に絞って比較してみました。
日本国憲法(占領憲法)
原案作成者 GHQ民政局(アメリカ人)
作成期間 1週間
成立の手続 作成した草案を、日本に押し付けて、政府案として国会に提案させて成立。押し付け盗作憲法(産経新聞)。
改正手続き 帝国議会は両院のそれぞれその総数の3分の2以上の出席議員の3分の2の賛成で成立。 衆参両院の総議員の3分の2の賛成で発議し、国民投票で過半数の賛成で成立
明治憲法
原案作成者  日本国民
作成期間   21年間 
改正の手続き 国民の議論を経てドイツ主義をはじめ欧州憲法を参考にして日本主義を基本に草案作成。天皇ご臨席のもと枢密院で議論をして成立。
改正手続き 両院の3分の2の出席で3分の2の賛成で成立。 
<12月10日第42回に続く>

07/12/2021

12月8日第40回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
3,憲法編
~日本国憲法(占領憲法)と大日本帝国憲法(明治憲法)~
(2)大日本帝国憲法(明治憲法)について(参考・一部引用「明治憲法の真実」伊藤哲夫著;致知出版社)
  ①完成までの期間
ア、明治元年(1868年3月14日)の「五箇条のご誓文」(注1参照)及び「政体書」(注2参照)が憲法制定へ向けての準備の始まり。
イ、明治22年(1889年)2月11日公布
ウ、明治23年(1890年)11月29日施行
エ、憲法制定に向けての研究開始から21年の歳月を費やした。
  ②交付までの経緯
この間、官民挙げて新憲法制定へ向けての盛んな研究と議論そして提案が行われました。主に、イギリス、フランスなどの憲法学の研究が中心でしたが、急進的に過ぎるという危機感から、最終的に政府方針として「ドイツ主義」に基づいて憲法案の起草を行うとの決定に至りました。
そして、伊藤博文がドイツ憲法を研究するため明治15年から16年にかけて1年5か月にわたって渡欧し、ドイツの著名な憲法学者グナイストとシュタインに学びます。
一方国内では、法制官僚だった井上毅(こわし)が、古事記・日本書記をはじめ古典で研究した歴史・伝統・文化に基づくわが国独自の優れた「国柄」を基本とし憲法の骨格を起草しました。最大の特徴は「しらす」(注3参照)の理念を基本にした点です。
伊藤は帰国後、宮内卿に就任し、井上毅を含む15名からなる「制度取調局」を創設し、自ら長官となって、いよいよ憲法草案作りに着手します。この間、明治18年12月には内閣制度の導入が決定し、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任(明治21年4月30日辞任)します。
井上毅の「しらす」という表現こそ取り入れられませんでしたが、彼の「日本主義」案を中心に伊藤博文のドイツ主義ほかの意見を取り入れ、枢密院での天皇ご臨席のもとでの活発な審議を経て、ドイツ主義をモデルとしつつ「日本主義」を基本とした憲法案が固まり、明治22年2月11日、明治天皇による公布の日を迎えたのです。
まさに、明治憲法は、先人の血のにじむような長年の研究と努力の成果なのです。 
  ③内外から称賛されされた明治憲法
ア、国内の評価
多くの国民は、専制主義的な憲法になると思っていましたが、臣民(国民)の権利、議会の権限がほぼ要求通り認められたのに驚きました。
識者も一様に同じ意味で高く評価をしました。急進的な第一の論客だった犬養毅に至っては、「天皇の高い徳によって諸外国に比類なき美しい憲法史が、東洋で初めて出現した」と誉め称えました。
イ、海外の評価
・ダイシー(イギリスの著名な憲法学者)
「日本憲法中財政に関する規定は、イギリス憲法より優れている」と評価しました。
・ルボン(フランス憲法学者)
「日本の憲法は、ゲルマン主義に基づいているが、深く探求すれば、英国の主義もそ の中に包含されている」と絶賛しました。
・シュタイン(伊藤博文が憲法について学んだドイツの法学者)は、明治憲法の日本 的側面(日本主義)を高く評価。特に告文と勅語について絶賛したと言います。
・ルドルフ・グナイスト(ドイツの法学者で政治家)
「この憲法につき、私が最も高く評価するのは、日本憲法の根本は、日本古来の歴史、制度、習慣に基づき、これを修飾するに、欧米の憲法学の論理を適用せられたこと」として、日本の歴史文化を基本に、西洋の思想を融合させてさらに高い次元に押し上げたと最高の評価をしています。
●要するに、当時、世界最高峰の憲法という評価だったのです。
注1;「五箇条のご誓文」(明治天皇)
第1条「広く会議を興し、万機公論に決すべし。
に始まる五箇条の明治天皇による天神(てんじん)地祇(ちぎ)に誓われた国づくりの基本方針。
注2;「政体書」(明治新政府)
   第1条の「天下の権力総てこれを太政官に帰す。」から始まり、立法・行政・司法の「三権分立」などを内容とした13箇条
注3;「しらす」と「うしはく」(いずれも古事記)
「しらす」は「知る」を語源として、天皇はまず国民の喜びや悲しみ、願い、ある いは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すようにわが心に写し取って、それを自己と同一化させ、自らを無にして治めるという理念。
「うしはく」は、西洋の「支配する」と同じ意味。日本では豪族が占領した土地を、権力を以て支配するという意味。
<12月9日第41回に続く>

06/12/2021

12月7日第39回
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
3,憲法編
~日本国憲法(占領憲法)と大日本帝国憲法(明治憲法)~
(1)日本国憲法(占領憲法)の誕生
最も客観的で的確な「日本国憲法の問題点」の解説として、2016年11月3日の産経新聞の下記記事を転載します。
<産経新聞(2016年11月3日)「憲法公布70年」から転載>
<見出し>
GHQ“素人”が米合衆国憲法を「コピぺ」で原案 押し付け憲法なのに一度も改正せずにもう70年…
<本文>
「日本国憲法は終戦翌年の昭和21年11月3日、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下で公布された。その成り立ちを振り返れば、「押し付け憲法」というしかないが、日本国民の手で一度も改正されることなく70年が過ぎ去った。
 この問題をめぐっては、安倍晋三首相は「占領軍の影響下で原案が作成された」と指摘し、「私たち国民の手で憲法をつくる精神こそが新しい時代を切り拓く」と訴えてきた。これに対し、民進党(当時)は前代表の岡田克也氏が「70年間国民が育んできた事実の方が重要だ」と繰り返すように、認識に大きな乖離がある。
 事実関係はどうか。
 連合国軍最高司令官のマッカーサーは(昭和)21年2月3日にホイットニー民政局長に憲法草案の作成を命じ、
⑴天皇は国家元首の地位 
⑵自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄 
⑶日本の封建制度は廃止
の3原則を示した。のちに「マッカーサー・ノート」と呼ばれる指示で、日本の防衛法制を過度に縛る9条は、日本の無力化を狙った⑵に由来する。
 民政局は翌4日からマッカーサーの指示に沿って、ケーディス大佐ら二十数名の“素人集団”が原案作成の作業を一気に進め、9日後の13日、日本政府に提示する。その原案は米合衆国憲法などを切り貼りした「コピペ」(コピー・アンド・ペーストの略)と呼ぶしかない代物だった。
 日本国憲法前文の「われらとわれらの子孫のために(中略)自由のもたらす恵沢を確保」と米憲法は完全に一致する。また、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ」という前文も、1941年(昭和16年)米英首脳が戦後の世界秩序のあり方などについて調印した大西洋憲章とうり二つだ。
 憲法前文には本来、国の歴史や伝統、文化など国柄などが記されるものだが、GHQによる「盗作憲法」を未だに日本国民は背負わされている。
西修・駒澤大学名誉教授(比較憲法学)がかつて、憲法原案を作った民政局員8名に話を聞いた際には、みな異口同音に「自分たちの案は暫定的なものであり、早晩、日本国民の手で恒久憲法が作成されるだろうと思っていた」と語ったという。
 マッカーサーは、新憲法で日本を非武装化してみたものの、昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると日本政府に警察予備隊を発足させた。予備隊は保安隊となり、現在の自衛隊になった。
 泉下のマッカーサーも、まさか70年後の日本国民がこの「押し付け憲法」をそのまま抱き続けているとは夢想だにしなかっただろう。自分たちの占領政策の成功の結果、頑迷固陋な護憲勢力が幅を聞かせ続けることも。」
 以上ですが、それからさらに5年が経ちました。しかし「押し付けの盗作憲法」は、未だに一字一句変えることもできず、後生大事に抱き続けているのです。そして、この「押し付け盗作憲法」によって、我が国は未曽有の危機に直面しようとしているのです。
「憲法守って国滅ぶ」となっては本末転倒です。
 国民精神の回復を目指す私たちの憲法観は、この産経新聞の「押し付けの盗作憲法」観であるべきではないかと思います。
<12月8日第40回に続く>

05/12/2021

第38回12月6日
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
2,歴史編(近現代史の真実)<続き>
(5)極東国際軍事裁判(東京裁判)の真実
 ➀東京裁判とは
日本は、欧米の連合国を相手にした大東亜戦争に敗北しました。正確にはアメリカに敗北したのですが…。そして戦争が終わってアメリカを中心とする戦勝国(連合国)が、勝者の論理で敗者となった日本を裁きました。その軍事裁判はアジア各地の「戦地」でも行われましたが、戦争の指導者を裁いたのが極東国際軍事裁判です。東京で行われましたから通称「東京裁判」と言います。
昭和21年5月3日から23年11月12日までの2年半余、370回に及ぶ東京裁判の公判で裁かれたのは、「平和・人道・戦争に対する罪」の名の下で、満州事変から大東亜戦争終結までの17年8か月間に至る「侵略」の事実(戦争の計画・開始・遂行など「平和に対する罪」)を問い、7人の絞首刑を含む25人全員に有罪を宣告した軍事裁判でした。
この東京裁判で有罪となった25人をA級戦犯とよんでいます。
B級、C級戦犯というのは、東京ではなくアジア各地の戦地で開廷された軍事裁判で捕虜虐待や非戦闘員の殺傷などの従来の戦時国際法違反に問われた人々のことで、B級は戦場で命令する立場にいたもの、C級は命令されて実行したものと、大まかに分けれれていますが,区分は曖昧だったようです。いずれも東京以外の場所で裁かれて1061名が死刑になっています。公判手続きなどないに等しく、したがって弁護も、証拠もなく無実の罪に問われて戦犯の烙印が押され、死刑に処せられたり、戦後も劣悪な環境下で刑に服することになった多くの日本軍将兵がいたことを忘れてはなりません。
 そもそも、裁判とは、既存の法に基づいて行われるものです。しかしこの東京裁判は、国際法にはない「戦争という国家の行為の責任を指導者という個人の罪として裁いた」ものである点、また、「平和に対する罪」という極東国際軍事裁判所条例で新たに作り出した罪名(事後法)で起訴した点において、罪刑法定主義に反した、まさに違法裁判でありました。
②東京裁判の問題点
東京裁判の重大な問題点が9項目あります。それを列挙します。
㈠裁判の時間的管轄権の問題
 この裁判は、ポツダム宣言を根拠に行われました。同宣言は、大東亜戦争に対するものですから、裁判所の管轄権は、昭和16年から昭和20年までの期間しかありません。
しかし、実際には、起訴状では、昭和3年1月1日から昭和20年9月2日までの17年8か月にわたる日本の対外政策を審理の対象として挙げて、実際に審理しました。管轄権の逸脱です。
㈡事後法で裁判が行われた件
日本が受諾したポツダム宣言第10項は、「通例の戦争犯罪」(捕虜虐待や非戦闘員の殺傷など)を戦犯として厳重に裁くとなっており、「平和に対する罪」「人道に対する罪」で裁かれたのはポツダム宣言に反することです。
ナチス・ドイツのユダヤ人のホロコーストを裁いたニュールンブルグ裁判で新たに作った訴因を、極東国際軍事裁判所条例にそのまま当てはめたものだったことが判明しています。
事後法禁止の原則に反しています。事後法とは「人は行為の当時、その行為を罰すべきとした法規があらかじめ公布施行されていなければ罰せられることはない」(罪刑法定主義)という法の基本原則です。
㈢「共同謀議」によって「日本は諸外国を侵略し、世界征服を目論んだ」として裁かれました。
・被告たちがいつどこで共同謀議を行ったか証拠をあげずに裁いたこと。
・満州事変勃発時点と大東亜戦争開戦時の指導者は全て入れ替わっていて継続した共同謀議などできるはずもありませんが、それを行ったとして虚偽の事実をもって有罪としたこと。
・世界征服の謀議どころか、日米開戦を回避するために、天皇陛下をはじめ当時の首脳陣が苦心してアメリカ政府の要求に妥協を重ねて努力してきたのであって、訴状の共同謀議は皆無でした。
㈣「侵略戦争の定義」の問題
日本がポツダム宣言を受諾するまで、「侵略戦争」を犯罪とした国際法はなかった。
パリ不戦条約(昭和3年8月27日調印)で放棄した「戦争」には「自衛戦争」は含まれておらず、「自衛戦争」であるか「侵略戦争」であるかの判断は、各国の裁量に任されていました。すなわち、「自存自衛」を掲げた大東亜戦争は「パリ不戦条約で禁止された侵略戦争ではなかった」ことは明白です。
(注;現代の国際法では「自衛権の行使」は「戦争」ではない。従って「自衛戦争」という概念そのものががない)
㈤戦争責任を個人に負わせた件
戦争とは国際法上、国家がなす行為であって、政治家や軍人など個人に責任を問うことはできないのにかかわらず、個人の責任を裁きました。
㈥裁判所の構成が公正さに欠けていた点
裁判官と検事が戦勝国の代表のみで構成されて中立国の代表が一人もいませんでした。
㈦裁判官忌避の問題
ウエッブ裁判長(オーストラリア)は、東京裁判の直前に、ニューギニアにおける日本軍の不法行為を調査し政府に報告(検事調査)しており、検事調査を行った人物が裁判官になることは禁止されているのにかかわらず、「裁判官忌避の訴え」を拒否して裁判長としての業務を行いました。
㈧不公正な証拠却下
弁護人が提出して受理された証拠は1633通。受理されなかった証拠は750通で、全体の31,5%に上りました。日本側が有利になる証拠はすべて却下されました。
㈨最初から日本が侵略戦争を行ったことを前提にした件
日本が戦争を始めるに至った原因を究明せず、最初から日本が行った戦争は「侵略戦争」だということを前提として裁きました。
③パール判事の日本無罪論(判決文の一部)
 11か国の戦勝国の代表で構成された裁判官の一人インド代表のパール判事のみは、「日本無罪」の判決を下しました。しかし多勢に無勢、結果は有罪となったのです。そのパール判事の判決文の要旨は次の通りです。
「戦勝国のみが裁判官となり、敗戦国のみが被告となるというような裁判は、条約(注;国際法)に違反する戦争を起こした国も勝利者となれば、敗戦国に向って刑罰を加える権利を持つというような裁判が、将来の戦争発生を防ぐ喜ばしい効果を生じることを認めない。
この裁判が後世に残す教訓は、条約に違反する戦争をなした者は罰せられるということではなく、戦争に負けるとひどい目に合うということだけである。このような教訓が、自国の武力を恃み、誤れるにもせよ称賛を抱く政治家・軍人を抑止する効果はないであろう。そして侵略戦争は、武力を恃む国によって起こされるのである」
④まとめ
東京裁判は、日本に戦争責任を押し付けるための茶番劇でした。
そして、日本を侵略国として断罪することで、日本人の誇りと自信を奪って無力化し、戦勝国(連合国)の目的であった日本の国家解体を実現するための、裁判に名を借りた「公開リンチ」だったのです。
日本人は、まんまとその策略に乗せられたままの状態にあります。そして、教育はいまだに東京裁判で作られた「自虐史観」で子供たちの誇りと自信を奪い続けています。
「国民が誇りを失えば、その国は亡びる」のです。
教育基本法の全面改正は、その亡国の瀬戸際でなされたのです。東京裁判の「嘘」に気付き、「人種差別と植民地時代に幕を降ろした日本」の、真の近代史を国民が共有し、「国民精神」の復活で、もう一度、上を向いて歩く時代を創らなければなりません。
(第2章歴史編終わり)
<第39回からの憲法編12月7日に続く>

04/12/2021

第37回12月5日
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
2,歴史編(近現代史の真実)<続き>
●<アジアのリーダーの証言>
➀ラジャー・ダトー・ノンチック(マレーシア上院議員)
私たちやアジアの多くの国は、日本が大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、長い間、アジア各国を植民地として支配していた西欧の諸国を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。長い間眠っていた「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」という心を目覚めさせてくれたのです。
私たちは、マレー半島を進軍していく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げていく英軍を見たときに、今までに感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。(「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助著;展転社P286)
※マレーシアは、450年ぶりに独立を勝ち取った。450年と言えば、2021年の現在、織田信長の比叡山焼き討ちが450年前の1571年である。450年間もの植民地支配がいかに長いかイメージしてほしい。(筆者)
②アラムシャ将軍(インドネシア官房長官、副首相など歴任、平成元年、天皇陛下から日本・インドネシア友好に尽くした功績で、勲一等瑞宝章受章)
次は、昭和60年の来日時に、福田赳夫首相、塩川文相(いずれも当時)らとの会見で語った内容である。
私は日本軍の果たした大きい長所をあげてみたい。
第1は、インドネシアの全国民がオランダ人の醜態を見たことだ。背が低く小さな体の日本兵が、巨漢が自慢のオランダ兵を、我々の眼前で打倒してみせてくれた時、我々の心に棲み込んでいた魔人のようなコンプレックスはたちまち消え去って、新しい勇気が湧いてきたのである。
第2は、日本軍の軍政が良かった。近き将来に独立した時の大統領としてスカルノを、そして副大統領にハッタを当てると公表し、大切に取り扱った。
第3は、軍事訓練と武器の供与である。ジャワ派遣軍司令官原田熊吉中将の熱烈な応援により、PETA(独立義勇軍及び士官養成学校のような組織)を創設し、3万8千人のインドネシア人の将校を養成した。その他インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。
第4は、日本軍が降伏した後も、多数の日本軍有志将兵(注;約2千人)がインドネシアの独立戦争に参加してくれたことである。我々インドネシア軍は、戦争は未経験だったから、経験豊富で、しかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、いかばかり独立戦争を我々を有利な方に導いたか計り知れない。
第5は、PETAがインドネシア軍の母体になったことである。スハルト将軍は、常々「PETAは独立戦争の主力であり、国軍の母体となった」と言明している。
第6は、インドネシア軍は戦略と戦術の方針を、日本軍の文献(作戦要務令など)によって作成したことである。」(「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助著;展転社P278,279)
③ククリット・プラモード(タイ国初代首相)
日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、我々のこの重大は思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。さらに8月15日は、我々の大切なお母さんが、病の床に臥された日である。我々は、この2つの日を忘れてはならない。
以上のように、日本への感謝の声は、アジア中に満ちています。そして、戦後76年が過ぎて、当時の外交秘密文書などが公表されるにつけ、日本の大東亜戦争が、自存自衛とアジアの植民地からの解放であったことが明らかになってきて、今や世界史の常識となりつつあります。
しかし、肝心かなめの日本国内では、未だに教育現場をはじめマスコミや政界でも、日本を侵略国とした東京裁判史観がまかり通っていて、自虐史観の下で誇りを取り戻せないでいます。
このネット師範塾講座の最大の目的は、創作された嘘の自虐史観から目覚めて、日本人が誇りと自信を取り戻して、もう一度、上を向いて歩く日が来ることなのです。
<第38回12月6日に続く>

03/12/2021

第36回12月4日
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
2,歴史編(近現代史の真実)<続き>
(4)大東亜戦争に対する世界の識者の評価
●<アメリカのリーダーの証言
➀ハーバート・フーバーの証言(第31代アメリカ大統領:共和党、第32代はフランクリン・ルーズベルト)
私は、ダグラス・マッカーサー大将と、1946年5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして、6日の朝に1時間、サシで話した。…私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、また、1941年7月の金融制裁(ABCD経済包囲網)は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込む。制裁は、殺戮と破壊以外のすべての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できるものではなかったと述べた。
…ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその1か月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著より引用)
②マッカーサーの連邦議会上院外交軍事合同委員会での証言(1951年5月3日)
「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない。羊毛がない。石油の産出がない。錫がない。ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。
従って、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著他多数)
 ※マッカーサーは、日本を侵略国として占領統治してきた最高司令官です。その彼が日本に滞在中に日本が大東亜戦争に追い込まれた事情を正確に理解し、アメリカ連邦議会で上記の通り証言したのです。
 この証言によって、マッカーサーは、共和党の大統領候補の立場を自ら放棄する結果になりました。彼の当時のアメリカ国民の人気は絶大で、長年(ルーズベルト4期12年間、トルーマン2期8年間計20年間)民主党に奪われていた大統領のポストを共和党が奪還するチャンスと期待されていましたが、この証言でアメリカ国民の怒りを買い、大統領になるチャンスをふいにしてしまったのです。
これは、米国の立場からすると、「侵略国家日本を打ち負かした正義の戦争」という前提を根底から覆し、東京裁判の正当性まで失ってしまう発言で、日本を占領統治し、「民主化」「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサー自らの業績まで否定しかねない発言でしたが、ついポロリと出てしまったマッカーサーの偽らざる思いであり、一種の懺悔だったのかもしれないと、「敗戦秘話」で産経新聞取材班は、この証言について結論していますが、いずれにしても、この議会証言の意味は、極めて大きいと言わなければなりません。
③ジェシー・ジョーズ(ルーズベルト政権の商務長官・復興金融公社総裁)
ルーズベルトは、「私は戦争を憎む」と度々述べたにもかかわらず、彼は、参戦に非常に熱心であった。なぜならば、参戦は3期目の大統領の地位を約束するからであった。もし、彼が大統領に三選されたならば、それは彼の二つの個人の希望を満たすことになる。すなわち、一つは、戦争をするということであり、もう一つは、史上初めての3選を果たした大統領として、彼の虚栄心を満たすことであろう。(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著より引用)
●イギリス
➀アーノルド・トインビー(歴史学者)
第二次大戦において、日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本が掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。イギリス人もフランス人もアメリカ人も、ともかく我々はみな将棋倒しにばたばたとやられてしまった。そして最後にアメリカ人だけが、軍事上の栄誉を保ちえたのである。他の三国は不面目な敗北を記録したことは、疑うべくもない。
(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著より引用)
<第37回12月5日に続く>

02/12/2021

第35回12月3日
ネット師範塾基礎講座
第3章  「国民精神の復活」
2,歴史編(近現代史の真実)<続き>
③大東亜戦争の終戦
 昭和17年6月のミッドウエー海戦で米海軍に敗れたのをきっかけに、それまでの日本軍の破竹の勢いは消え、戦局は逆転していきました。サイパン島など南太平洋の島々で日本軍守備隊の玉砕が相次ぎ、日本本土への爆撃、沖縄への米軍の上陸と、戦局はますます悪化する中、起死回生の日本の若者による「特攻作戦」をはじめとして、日本軍の必死の防戦が繰り広げられました。
 しかし、米軍は、昭和20年3月10日の東京大空襲をはじめ、全国60余の主要都市を無差別で空襲し、ついに、8月6日には広島、8月9日には長崎へ、原爆を投下し、数十万の一般市民を殺戮し、両市に壊滅的な被害を与えました。
 このような中、昭和20年8月8日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が対日参戦し、満州、南樺太、北朝鮮に侵入、日本降伏後の8月末には、北方領土を含む千島列島を占拠しました。
 日本政府は、終戦への仲介役を期待していたソ連が参戦となった直後の8月9日、日本に降伏を求める連合国のポツダム宣言の受諾をめぐって天皇陛下のご臨席のもと御前会議を開きました。
 受諾して降伏する意見と、本土決戦で最後まで戦うべしとする意見とに会議は二分され収拾がつきません。
 司会役の鈴木貫太郎総理は、天皇陛下にご聖断を仰ぎました。
 天皇陛下は
「自分の身はどうなっても構わない。一人でも多くの国民に生き残ってもらい、将来の日本の再建に立ち上がってもらうほか、この日本を子孫に伝える方法はない」
 と、仰せられ、終戦のご聖断が下ったのです。
 8月15日、日本はポツダム宣言で示された条件を受諾し、9月2日、降伏文書の調印で、大東亜戦争は終戦となりました。あくまでも有条件降伏であって無条件降伏ではないことを確認しておきます。
(3)日本の近代史は世界の植民地時代を終わらせた民族の壮大なドラマだった!!
 19世紀から20世紀初頭にかけて猛威を振るっていた植民地時代にあって、有色人種の国家として、唯一完全な独立国家だった日本は、自国に対する欧米列強の侵略の圧力と戦って、なおかつ、植民地時代を終わらせ人種差別のない世界にすることが宿命づけられていたのです。
 幕末から明治維新、その後の日清戦争、日露戦争そして大東亜戦争の終結まで続いた約百年間に及ぶ日本の近代史は、この宿命に翻弄され、大きな犠牲を払って、孤軍奮闘、孤立無援の壮絶な戦いの歴史でした。
 日本軍に打ちのめされ本国へ追い返されていたかつてのアジアの支配者たちは、日本の敗北によって、再び植民地支配復活をとアジアへ舞い戻ってきました。
 しかし、一度、大東亜戦争によって欧米列強からの独立を現実のものとした体験は、アジアの人々の誇りと独立への燃える情熱を抑えることは、もはや不可能でした。
 アジアから始まった独立の機運は世界史の中で怒涛の流れとなって、かつて植民地だった世界中の有色人種の国々は、陸続として独立していくことになりました。
 結果的に、大東亜戦争後の世界は、植民地時代に終わりを告げ、人種平等の世の中になったのです。
 もし日本が、独立を守るために戦わず、欧米列強の植民地となっていたら、いまでも植民地時代は続き、有色人種には自由も人権も与えられず、奴隷の待遇が続いていたに相違ありません。
 歴史は繰り返すと言いますが、今再び、人類は、自由と人権と誇りを剝奪される脅威に直面しています。アジアに出現した強大な共産主義の全体主義国家によって…。
 その防波堤は再び我が日本なのです。日本人の覚醒は世界中の人々の希望の光となるのです。
<第36回12月4日に続く>

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